汀月透子

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〈手放した時間〉

「パパ、誕生日プレゼント、試合のチケットじゃだめ?」

 息子の大輝がそう言ったとき、俺は思わず妻の顔を見た。妻は微笑んで頷いた。

──

 六年以上前、結婚して子供ができたとわかった日から、俺は球場から遠ざかっていた。
 学生時代、毎週のように通った地元プロ野球球団の試合。あの熱狂、歓声、連帯感。それらすべてを、俺は手放したのだ。

 息子が生まれ、娘が生まれ、週末は家族の予定で埋まり、気づけばもう何年も足を運んでいない。
 妻は言ってくれる。「ひとりで行ってきなよ。たまには息抜きしてきなって」。
 その優しさがありがたい反面、どうしても踏み出せなかった。
 自分ひとりが楽しんでいいのか。昔と同じ気持ちで観戦ができる自信がなかった。

 そのうち、SNSでフォロワーが親子連れで観戦している様子が流れてくるようになった。
 親子連れで楽しむ様子がとてもうらやましく、「子連れ 野球観戦」などと検索してみる。

 地元球団の公式アカウント、ファンの投稿、フォロワーの体験談……そこには、知らない間に進化していた球場の姿が広がっていた。敷地内に遊具が増え、キッズスペースが充実し、親子観戦専用のエリアまであるという。

「前と違って、子連れでも全然観戦しやすくなってるよ」
 フォロワーのひとりがそうコメントしてくれた。

 ただ、俺には一つひっかかっていた記憶があった。
 学生時代、まだ若かった頃。
 飽きてぐずっている子どもをあやす親。酔った客が向かって「飽きてきてるならスタンドから連れ出せよ」「声出させるなよ」と厳しく怒鳴ったり舌打ちする場面を見た。ぐずる子どもを抱いた親はすまなそうにスタンドを去り、ゲームセットまで戻ることはなかった。
 子どもにあんな思いをさせたくない……あの空気に自分の子どもを連れて行く勇気が、どうしても出なかった。

──だから、俺は心に決めた。
 大輝が野球を理解できるようになってから、一軍の試合を見せようと。

 最初に連れて行ったのは、二軍の試合だった。観客もほどよく、スタンドの雰囲気も柔らかい。
 球団の寮が併設されているこの球場は、選手との距離も近い。選手が近くを通ると、息子は小さな声で「こんにちは……」とつぶやき、選手がお辞儀してくれるだけで飛び跳ねて喜んだ。

 何度か通ううち、ある若手選手が丁寧にサインをくれた日があり、そこから息子は一気に球団の大ファンになった。
 家でもテレビの前に正座して、選手名鑑を片手に真剣な表情で試合を見るようになった。

──

 誕生日プレゼントに試合のチケットがほしい──
 大輝の言葉に驚いたが、嬉しかった。ようやく、この日が来たのだ。

 妻は「行っておいでよ。せっかくだし、二人で行ってきなよ」と笑ってくれた。
 娘はまだ二歳で長時間は難しいから、娘は妻と留守番。息子と二人、誕生日観戦デビューだ。

 そして今日、大輝の六歳の誕生日。満を持しての観戦デビューだ。
 試合はナイターだというのに、朝からレプリカユニフォームを着ている。背中にサインが入った、大輝のお気に入りだ。

 球場に着くと、大輝のテンションは高くなる。二軍の球場とは段違いの賑やかさに、興奮を抑えきれない。
 大輝が前から欲しいと言っていた、ユニのサインの主──桐山選手のタオルを買う。この球団は、とにかく選手グッズが多い。特に名前入りタオルは、全選手が揃っている。

「おお、隆さん久しぶり!
 って、これが息子さん? こんなに大きくなったのか」

 偶然会った応援仲間、坂本さんが感嘆の声を上げる。
 学生時代からの知り合いにそう言われ、俺は照れくさくて頭をかいた。

「いいの着てるなぁ、桐山のサインか!
 そういや今日、一軍登録されたぜ」
 大輝の背中を見て、坂本さんが言う。大輝は目を丸くし、体を震わせる。

「パパ! 桐山くん、 一軍デビューだって!!」
「ハハハ、桐山も坊主と同じ初めての一軍だ。活躍するといいなぁ」
 そのうち外野にも来いよ、と坂本さんが手を振る。
 外野席の雰囲気も懐かしいが、今日は大輝の観戦がメインだ。

 今日は落ち着いて観戦できるよう、内野席を選んだ。
 席に着くと、隣には見覚えのある老夫婦が座っていて驚いた。二軍の球場で何度か顔を合わせている。
 息子が桐山選手からサインをもらった日、彼が活躍したときには「この子、ラッキーボーイだねえ」と笑ってくれた人たちだ。

「うちの孫はサッカーの方がいいって、付き合ってくれないのよ。パパと一緒でいいわねぇ」
 大輝は照れくさそうに身体を揺らした。

 試合が進むと、桐山選手がついに一軍初出場で代走として送り出された。息子は立ち上がりそうになるのを必死でこらえ、目を輝かせてグラウンドを見つめる。

「パパ、桐山くんとコーチがなにか話してたよね。
 あれ、ピッチャーのくせを見てるんだよ」
 テレビで解説者が言ってたのを覚えているのだろう。

「次に走るよ!」
 大輝が言ったのと同時に、桐山選手がスタートを切る。
 そして──盗塁成功。

「やった!!」
 息子は声を押し殺しながらも拳を握りしめ、俺も思わず立ち上がりそうになった。
「すごいなぁ、よく見てる」
「解説者も顔負けよね」
 老夫婦が大輝に向けて拍手する。

 その後、タイムリーヒットが出て、桐山選手がホームイン。初めての一軍で、初盗塁初得点となった。
 ベンチに帰ってきたとき、大輝はびっくりするほど大きな声で
「桐山選手、いいぞー!」
 と叫ぶ。聞こえたのか、こちらを向いて手を降ってくれた。

 しかし、試合は先発が追いつかれ、逆転を許し、追いつけないままゲームセットを迎えた。
 球場を包むため息。それが息子には重かったのだろう、座席でうずくまり、小さく泣き始めた。

「あんなにがんばってたのに負けちゃった……」

 かける言葉が見つからない。俺がどうなぐさめるか戸惑っていると、隣の老夫婦が優しく話しかけた。

「惜しかったね、でもずっと勝つわけじゃないんだよ。向こうもプロなんだから。
 惜しい試合って、全力で戦った証拠だよ」
「私ら、ずっと見てきたけど、勝って満足できた日なんて本当に数えるほどよ」
 二人は相当試合を見てきたのだろう。一言ひとことに重みを感じる。

「でもね、負けてもまた“次こそは”って思って来ちゃうの。
 それが野球なのよ」

 息子は涙をぬぐい、ぐすっと鼻を鳴らした。その横顔を見ながら、俺の胸の奥もじんわり熱くなる。

──ああ、そうだ。これだ。
 勝っても負けても、ここに来ると心が震えた。そんな時間を、俺はいつの間にか置き去りにしていたのだ。

「また会おうねぇ」と、老夫婦は帰っていった。
 大輝の涙もすっかり乾き、二人に手を振っていた。

 球場をあとにする帰り道、大輝は悔しさをかみしめるように話し出した。

「今日負けたのってさ、先発の替えどき、まちがえてたよね。
 投手、ひっぱりすぎだよ……」

 まだ幼いのに、小さな体をめいっぱい使って、悔しさも興奮も全部言葉にしている。

 その様子を見ながら、ふと思った。
 自分が楽しい、悔しい、嬉しいと思えることを、息子と共有できる。
 じわじわと、心の底に湧き起こる感情。

──父さんも、こんな気持ちだったのかな。

 手をつないで歩く大輝の掌は、小さくて、温かかった。
 その温もりに、昔の記憶が重なる。

 父に引かれて歩いた球場帰りの道、悔しくて泣いた日のこと、うれしくて眠れなかった夜のこと。
 手放してしまったと思っていた時間が、再びこの手に帰ってきた──

 そう実感しながら、俺たちは家路へと向かった。


──────
登場する球団や選手に特定のモデルはありません。ありませんてば。

うちの子どもたちを球場に連れて行った頃は、土日でも当日券が買えるぐらいガラガラでした。
あの球団、親会社変わってからホントに観戦しやすくなりましたよねぇ……トイレがすごくきれいになってびっくりしました。
動員数が爆発的に増えたのも頷けます。チケット取るの大変ですけどね。


11/23/2025, 11:10:04 PM