汀月透子

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〈紅の記憶〉

 通夜の夜、私は斎場の広間で独り座っている。喪主として、独り寝ずの番だ。
 線香の煙がゆるやかに天井へと溶けていく。ずいぶん長いこと、こんな静かな夜を過ごしていなかったように思う。
 物言わぬ母の横で、息子としての最後の夜を過ごす。

 母が亡くなったのは、ほんの数日前。風邪をこじらせ、あっという間のことだった。
 葬儀の段取りで役所や斎場を回ったとき、妻が「大丈夫?」と何度も気遣ってくれた。
 その車の中で、私はふと口にしていた。

「お前にもずっと苦労をかけたな。
 母さんを家で見ていた頃、デイサービスの手続きもお前がほとんどやってくれて……」

 妻はハンドルを握りながら、少しだけ肩をすくめた。

「……正直、大変だったわね。パートの時間を調整したり、急に呼び出されたり。
 でもね、お義母さん、私の顔は最後まで覚えていてくれたの。あれだけでも救われた気がする」

 その言葉に胸が熱くなった。
 母は、私の名前を忘れても、妻のことは覚えていた。
 きっと、妻に世話になっている自覚がどこかに残っていたのだろう。

「本当に、ありがとうな」
「今さら。本番はこれからよ」

 私の言葉に、妻は少し目を赤くして笑った。

──

 母は父が亡くなったあたりから少しずつ記憶を取りこぼし、赤子に返っていた。
 ここ数年はもう、私の名前も存在も思い出せなくなっていた。施設に預けてからは毎週末顔を見に行ったが、行くたびに表情の輪郭が消えていく。
 それでも、私の手を握ろうとする仕草だけはどこかで覚えているようで、そのたび胸が締めつけられた。

 ある週、美容ボランティアの人が来て、母に化粧をしてくれたことがあった。
 母は手鏡をのぞき込んではにこやかに笑っていた。
 明るい色をのせると気持ちが上向くんですよ、と説明されたが、ピンクの口紅はどこか母らしくなかった。
 帰り道に妻に話すと、「可愛いじゃない、年配の方はああいう色が似合うのよ」と笑われた。

──けれど、どうしても違和感があった。
 私の記憶に残る母の口紅は、もっと強い、真紅の色だ。

──

 あの記憶がいつだったのか、はっきりしない。
 今日こうして棺に眠る母を前にしても思い出せず、まぶたを閉じても霧のように散ってしまう。

──真っ赤な口紅。
 母の唇が、あんな色をしていた日があっただろうか。

 広間の灯りに照らされた棺に目をやる。死化粧は上品で控えめな色だ。
 スタッフの人に「もう少し赤い口紅を」と頼んだとき、「最後に見るお顔は、派手にしないほうが印象が穏やかですよ」と諭された。
 私が食い下がると、妻にも「お母さんに合う綺麗な色を選んでくださったんだから」とたしなめられた。

 確かに、その通りなのだろう。けれど、どうしても胸の奥に引っかかる。
 私が覚えている母は、あんな優しい色の人ではなかった気がする。もっと強い、凛とした紅をまとっていた。

 ……いつだ。あれは、いつの母だ。

 横になって考えるうちに、ゆっくりと夜が明けはじめる。窓から淡い朱色の光が差し込んできた。光は部屋を染め、ぼんやりと母の顔を照らす。
 死化粧の薄い色が、朝焼けに染められてほんのり赤く見えた。
 あの日、鏡台の前で見た紅のように。

 体を起こして遠い記憶を手繰り寄せた瞬間、ふと胸の奥に風が通った。

──幼い頃の、ある朝。

 私はまだ夜と朝の境目がわからない時間に目を覚まし、横で寝ているはずの母がいないことに気づく。
 母を探してまだ廊下に出ると、襖の隙間から小さな灯の揺れを感じた。覗き込むと、鏡台の前で口紅を引いていた母の姿があった。
 真っ赤な、私が見たこともないような色だった。

 母は気づかず、鏡に向かってただじっとしていた。目元がわずかに濡れていて、口紅をもつ手が小さく震えていた。
 その時、障子の向こうがふいに赤く染まり、朝焼けの光が鏡台に跳ね返って、母の横顔を照らした。

──赤い唇。
 ひどく綺麗で、まるで別人のように見えた。
 私は怖くなって部屋に戻り、布団にもぐり込んだ。そのあとの記憶はない。

 けれどもうひとつ、思い出した光景がある。
 買い物帰りに、母が知らない男の人と再会した日もあった。
 母は私の手を握りながらどこかぎこちなく、けれど少し嬉しそうに言葉を交わしていた。

 胸の奥で、静かに何かがほどけていく。
 今思えば、あの口紅と繋がる何かがあったのかもしれない。
 母は、母であろうとしながら、きっと女としての時間もどこかで生きていたのだ。
 私はそのすべてを知らずに、母をただ“母”とだけ呼んできた。

 施設で口紅を引いてもらい、何度も手鏡に笑いかけていた母の笑顔が再び目に浮かぶ。
 誰も干渉しない母だけの世界で、恋する少女になっていたのかもしれない。

──

 朝になり、妻が家から着替えと朝食の握り飯を持ってきた。

「眠れた? 目が真っ赤よ」
「いいや」

 温かい茶を飲み、ため息をつく。

「そういえば、昨日お焼香だけで帰られた方いらっしゃったよね。
 結局誰かわかった?」

 そうだ。弔問客とのやりとりに気を取られていたが、受付を締めた後の遅い時間に年配の男性が焼香して帰った。通夜ぶるまいも断られたと葬儀社の担当者が言っていた。
 顔も思い出せない、父の知り合いかと思っていた。

「記帳していただかなかったし、お香典にも住所書かれてなかったし。
 誰に訊けばわかるかしら……」

 母の友人に名前を言えば、誰かわかるのかもしれない。
 けれど、その影を深追いするのはやめた。これは母の人生で、母の物語なのだから。

 朝の光が強まり、棺の中の母の唇がいっそう赤くかすんで見えた。
 私はそっと手を合わせる。

──母さん。
 その紅の記憶だけは、きっと忘れない。




──────

主人公、淡々と語りますけど奥さんがしっかりサポートしたおかげでは🤔(セルフツッコミ

近頃の斎場って、ホテルと思うような豪華さの客室があるんですよ。しかも朝食付。設備近隣のファミレスの朝食券ですけどね。

11/23/2025, 12:17:15 AM