汀月透子

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11/22/2025, 4:22:00 AM

〈夢の断片(かけら)〉

 夫が逝って半年ほど経った頃、私は自分の終活を始めることにした。

 五歳年上だった夫は几帳面な人で、自分の死後の書類や手続きもきちんと整理していた。その姿をそばで見ていたから、私も同じようにしなければと思ったのだ。
 けれど、押し入れの奥から取り出した古いノートを開いた瞬間、私は手を止めた。

 表紙には「レシピ帳」と書かれている。中学生の頃の、少し背伸びした丸文字だ。

 ページをめくると、ショートケーキ、モンブラン、シュークリーム。黄ばんでしまった雑誌の切り抜きの横に、丁寧に書き写したレシピが並んでいる。
 高校生になると、ミルフィーユなど新しめの名前も出てくる。雑誌でしか見たことがないケーキでも、材料や作り方を推測して書いている。
 定番のレシピにも自分なりのアレンジが加わっていた。
「レモンの皮を入れたら爽やかになるかも」
「クリームにラム酒を少し」
──その頃の私の声が、そのまま閉じ込められていた。

 大学ノートに変わったページには、製菓学校の資料請求先がメモされている。その下に、小さな文字で「無理だよね」とあった。


「おばあちゃん、何見てるの?」
 振り返ると、部屋の入り口から孫の由真がのぞき込んでいる。高校二年生の彼女は、スマートフォンを手に私の隣へとやって来た。

「昔のレシピノートを見てたのよ。懐かしくてね」
「すごい……おばあちゃん、こんなにいっぱい」

 由真が珍しそうに古びたページをめくる。

「若い頃はね。ケーキ屋さんになりたかったの」
「え、本当に?
 パパが冗談で言ってたけど、あれ本当だったんだ」

 私は笑って首を振った。

「冗談よ。ただの夢。
 でもね、七歳の誕生日に叔母が都会のお店で生クリームのケーキを買ってきてくれて……
 あの頃はバタークリームが普通だったから、あの味は魔法みたいだったの」

「それで、ケーキ屋さんになりたいって?」

「ええ。でも高校を卒業する頃には家計が厳しくてね。弟たちもいたし……
 製菓学校なんて夢のまた夢だったわ」

 由真はノートを愛おしそうに撫でた。

「でも、おばあちゃんのケーキ、プロ級だよ。
 この前焼いてくれたパウンドケーキ、友達と食べたら“どこのお店の?”って聞かれたくらい」
「お世辞でしょう」
「本当だよ。
 小さい頃からパパがずっと「おばあちゃんはケーキ屋さんだった」って言ってたの、ずっと信じていたもん」

 息子の優しい嘘が、こんなふうに由真の中で育っていたなんて。
 胸が少しあたたかくなった。

 そこへ、買い物から帰ってきた由香さんが紙袋を抱えて入ってきた。

「由真、進路調査のプリント書いたの?」
「まだだよ。そんなに早く決められないって」
「面談までには決めなさいよ」

 由真は、わかってるよとでも言いたげに唇を尖らせた。

「お義母さん、駅前でモンブラン買ってきたので、お茶にしましょう」
「あら、アベなんとかってお店?」
「『アヴェニール ラディユー』ですよ」

 私と由香さんは、よく一緒に新しい店のスイーツを味わっては感想を言い合っていた。
 由香さんは私のお菓子作りをいつも喜んでくれる、気の合う嫁だ。

「これ、栗の風味が濃厚ね」
「本当ですね。でも私、お義母さんのモンブランも大好きですよ」
「栗の初物も出てきたし、作ろうかしら」

 モンブランを見つめていた由真が、ふいに顔を上げた。

「ねえ、おばあちゃん。一緒に動画作ろうよ」
「動画?」
「そのノートのレシピでケーキ作って、動画サイトにあげるの。
 絶対ウケるって」

 由真がスマホでケーキ動画を見せてくれる。画面の中では、様々なケーキがきびきびと作り上げられていく。

「そんな、私なんか……」
「やろう? お願い」
 由真のまっすぐな瞳に押されて、私は小さく頷いていた。


 翌週、撮影を始める。

「はい、じゃあ始めます。ともえです」
「ゆまぴーです!」

 カメラに向かって手を振るなんて初めてで、私は少し恥ずかしかった。

「今日は、昔のレシピノートから、いちごのショートケーキを作ります」

 私はゆっくりとスポンジを焼き、生クリームを泡立てた。手が震えてデコレーションに時間がかかると、由真が笑いながら言う。

「焦らなくて大丈夫だよ。ゆっくりでいいし、失敗しても編集しちゃうから」

 最後に、由香さんがマジパンで作ってくれた“私”と「チャンネル登録してね」のプレートを飾ると、画面越しでも嬉しくなるような一皿になった。

「美味しそう!」

 撮影を終え、由真が親指を立てる。
 私たちは紅茶でささやかな打ち上げをした。

「動画、編集できたよ。アップしていい?」
「え、もう?」
「うん。絶対、みんな喜んでくれるよ」

 数日後、最初の動画は千回再生を超え、コメント欄は優しさでいっぱいになった。

「おばあちゃんの手つきが丁寧で癒されます」
「レシピ、真似して作ってみます!」

 由真は撮影の角度を研究し、BGMを選び、編集の技術をどんどん磨いていった。
 私は、忘れていた記憶を拾い集めるようにレシピ帳をめくり続けた。

 三ヶ月後、チャンネル登録者数は一万人を突破した。
 相変わらず、コメント欄は優しい。
「ともえさんケーキ、どこに行けば食べられますか!w」
「ゆまぴー、ウラヤマシス」
 一つ一つ読むたびに、頬が緩む。

 動画サイトを見ている私の横で、由真がぽつりと呟く。

「私、勉強したいことが見えてきた気がする」
「えっ?」
「フードコーディネーターっていうのかな。
 それだけ目指すのも難しいけどさ」

 由真は、色んな学校の資料をテーブルの上に並べる。

「ケーキをどう撮るか、どう見せるかを考えるの、すっごく楽しくて……
 最初はただバズらせたいだけだったけど、色々研究するうちにやりたいことが見えてきたっていうか」

 私は驚きながらも、胸の奥が熱くなった。

「おばあちゃんが夢を完全には捨ててなかったから、私も気づけたの。
 ありがとう」
 照れながら笑う由真の瞳は、未来に向けて輝いていた。

 画面の向こうで、誰かが私のレシピで笑顔になっている。
 私はケーキ屋にはならなかった。けれど、私の夢のかけらが由真の道しるべになり、ケーキで誰かを幸せにできた──
 それは、七歳の私が思い描いた夢よりも、ずっと大きな幸せだった。

 世の中は、新しいケーキが増え続けている。私もまた、新しくレシピノートを作ろう。
 ノートの最初のページに、私は万年筆を走らせた。
「夢は、かけらのままでも光を放つことができる」

──────

またおばあちゃんと孫です。同居してお嫁さんと仲がいいシリーズです。
ファンタジー()でいいの、私が読みたいんだから(

つーか、こういうの書くとケーキ食べたくなるのよねぇ……

11/20/2025, 11:53:29 PM

〈見えない未来へ〉

 離婚届を折らないように透明なクリアファイルへ滑り込ませ、カバンにしまう。
 役所を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を刺した。深い呼吸が喉の奥で震え、長く重たかった時間がようやくほどけ始める。

 結婚してから住んだのは、私の実家から二十分程度のところだった。
 子どもが生まれたら母に手を貸してもらえるように──“そうなるはずの未来”を疑いもせずに描いていた。
 でも未来は一度も私たちのほうを向いてはくれなかった。

──

 夫への違和感は、些細な日常の継ぎ目から漏れた。
 遅くなることが増えた帰宅。増えていく「今日は出張で泊まる」という連絡。帰宅後すぐに浴室へ向かう足早な背中。浴室から聞こえてくる、ひそやかに返信する気配。
 問いただす前に、確かな形を集めようと私は静かに動いた。

 夫が無防備にごみ箱に捨てていたクレジット明細。見覚えのないレストランの名前。日付も時間も、夫の言う出張と一致しない。
 出張の夜のスマホの位置情報は、県外にも職場にもない場所に灯りをともしていた。

 そして深夜、夫が寝たあとに画面に残っていた短い通知。「早く会いたい」。
 そこまで揃えば、もう見なかったことにはできない。私はもう目をそらさず、スマホで探偵事務所を検索した。

──

 対峙したのは、雨の音が強くなり始めた土曜の夕方だった。不倫相手のところにも、内容証明が届いている頃だ。

 夫がリビングでTVをつけたままぼんやりしていたので、私は窓際のテーブルに探偵事務所からの報告書やクレジット明細、夫のスマホ画面を撮影した画像を静かに並べた。

「話したいことがあるの」

 その言い方だけで、夫は何かを察したのだろう。リモコンを置き、姿勢を正すでもなく、ただ少しだけ眉が動いた。

「これ、見てくれる?」

 私が証拠を差し出すと、夫は一枚ずつ目を通した。
 表情は、変わらなかった。驚きも、言い訳の気配も見せなかった。ただ、逃げ場を探すように視線だけが揺れた。

「……誰?」
 静かに問いかけると、ほんの一拍ののち、夫は小さな声で言った。

「……会社の人だ」
 報告書に書かれていることとは違う。ため息が出る。

「その“会社の人”と、この店に行ったんだよね。それから──ここ。」

 私はスマホの画面を示した。

 不倫相手の住所に夫の位置情報の点が記された地図、そして短い通知の文。夫は視線を逸らし、両手を膝の上で組んだ。

「いつから?」
「……去年の秋くらい」

 あまりにも淡々とした声だった。
 その瞬間、胸の奥で何かが静かに切れた気がした。もう戻れないところまで来ているのだと腑に落ちた。

「妊活を始めた頃だよね」

 泣きそうになるのを懸命にこらえ、夫の表情を伺いながら尋ねる。

「私たち、子どものこと、ずっと頑張ってたよね。
 あなたも“欲しい”って言ってたよね」

 夫は黙ったまま俯き、答えは返ってこなかった。
 その沈黙こそが、私たちの関係の終点を告げていた。

「……離婚しよう。
 何をどう取り繕われても、もう一緒には歩けない」

 ふたりの間に、雨の音が落ちていく。
 夫はほんの少し肩を震わせ、そしてあきらめたように目を閉じた。

「……悪かった」

 その謝罪は、不思議なほど軽かった。
 軽さが悪いのではなく、そこに“戻りたい”という意思が一つも含まれていなかった。その事実を、私は静かに受け入れた。

──

 役所を出たあと、気がつけば私は川のそばまで歩いていた。

 ここは子どものころ、友達と石を投げ、水切りをして遊んだ場所だ。夕暮れの光に照らされる水面が、懐かしい記憶を鮮やかに呼び起こす。

 あの頃の私は、未来は無限に続いていると思っていた。結婚して、家族が増えて、笑い声に満ちた生活を築くと疑いもしていなかった。

 “幸せな未来”を当然のように描いていた自分が、今の私を見たらどう言うだろう。
「よく頑張ったね」か。「早く逃げて」か。それとも、黙って抱きしめるだけか。
 どれでもいい。どれも正しい気がした。

 川面に視線を落としていたときだった。

「……薫、だよな?」

 ふり返ると、そこには修平が立っていた。小学校の同級生。
 互いに距離を保ちながら、軽い挨拶を交わす。

「久しぶり。こんなとこ来るんだな」
「修平こそ」

 沈黙が気まずくなく、むしろ落ち着いた。
 私はふと、今の自分を隠す気になれなくなっていた。

「……離婚するのよ。今、届けもらってきたところ」

 修平は驚きすぎず、同情しすぎず、ただ受け止めるように頷いた。

「大変だったな」

 その一言に、肩の力が抜けた。

「俺も最近、会社辞めたところ。
 ブラックな会社で消耗してて、未来なんて全然見えないよ」
「そうなんだ」
「まあ……そういう時もあるよな」

 互いに踏み込みすぎない距離。けれど十分に温度のある言葉。

 夕陽が沈みきるころ、修平がふと空を見上げて言った。

「薫。落ち着いたらでいいけど……どっかでコーヒーでも飲もうか。話したくなったらでいい」
「この辺に住んでる奴らを誘って、飲み明かすんでもいい」

 期待も圧もない、静かな提案だった。

「……うん。落ち着いたら」

 そう返すと、修平は一度だけ頷き、去っていった。

 残された私は、カバンの中のクリアファイルが鳴る音を聞きながら歩き出す。
 未来はまだ見えない。でも、見えないからこそ選び直せる。
 夫の不倫相手との”バトル”も待っているから、立ち止まっている場合ではない。むしろ、その事実が私の背筋を伸ばす。

 “見えない未来へ”。
 その言葉が、少しだけ前向きに胸の中で灯った。

──────

もっとドロドロしたり長期化するかもしれないけど、ほら読後感すっきりするために、淡々としないと。
(表現力のなさを露呈する

11/20/2025, 6:19:26 AM

〈吹き抜ける風〉

 風が冷たい。三月の終わりとはいえ、山あいの町はまだ冬を手放しきれずにいる。
 私は古びた校門の前で立ち止まり、ゆっくり息を吸った。かつて朝の声が満ちていた場所。
 今はただ、吹き抜ける風だけが通り過ぎていく。三十五年前、初めてこの学校に赴任したときと同じように。あの日も、こんな風が吹いていただろうか。
 明日、この校舎は取り壊される。
 
「清原先生、鍵、開けますね」

 隣には元木──私がこの中学校に初めて赴任した年、初めて担任したクラスにいた教え子が立っている。
 今では立派な中年男性になって、市役所に勤めている。管理課の職員として、この廃校の最期を見届ける。

「忙しいのに、すまんな」
「いえ。先生の初任校ですから。
 俺もやることあるんで」

 しばらく開け閉めしていなかったせいか、少し錆びた鍵が重い音を立てて回る。扉が開き、冷えた校舎の空気が押し寄せてきた。
 薄暗い校舎はかつての喧騒を失い、時を止めていた。

「少子化の影響もあるんですが、校舎自体がもう古くて耐震基準に見合わないんですわ。
 再利用も検討したんですが」
 市内の人口も減っている。時代の流れだ、仕方ない。

「先生はゆっくり回ってきてください。俺は設備の最終確認してきます」

 そう言って、元木は事務室へ消えていく。
 私は、ひとりになった廊下を歩き出した。埃と共に、ここでの記憶も舞い上がってくる。

 最初に立ち寄ったのは、理科室。窓際に並んだ人体模型が、私を見下ろしている。
 ここで若い理科教師と夜遅くまで教材研究をした。教科書だけでは学べない、興味から学びへ結びつけるためのアイデアを出し合った。
 彼は今、どこで何をしているだろう。

 音楽室。ピアノは撤去されたが、壁に貼られた作曲家の肖像画はそのままでひっそりと見守っている。
 合唱コンクールの練習で、クラスが思うようにまとまらず指揮者の女子生徒が泣いていた。茶化していた男子生徒たちは彼女の涙に動じることはなかったが、最終的には女子たちにやりこめられ、まとまっていた。
 コンクールで見事に歌い上げたあとには、達成感から感極まって泣く男子もいたくらいだ。

 放課後の家庭科室では、思春期の女子たちがいつも小さく固まっておしゃべりをしていた。
 テレビやドラマ、アイドルの話。人間関係、家族との付き合い方、秘密の恋……

 もちろん、トラブルもあった。彼ら彼女らのキャパシティを超え、どうにもならなくて仲裁に入ったことも多かった。
 
「人を傷つける言葉は、思っているより長く残る。大人でも忘れられないことがある。
 君たちは、それを知ったうえで選べる人になってほしい」

 思春期の心の揺れは厄介だが、その分だけまっすぐだった。
 若さの揺らぎ、その真っ只中で、不安や恥ずかしさと闘っている姿が愛おしかった。

 階段を上がる。手すりは冷たく、滑らかだ。何千人もの子どもたちが、ここを駆け上がり、駆け下りた。

 元木がどこかの窓を開けたのだろう、吹き抜ける風が廊下を渡り、私の頬をなでる。
 私もまた、様々な学校を渡り歩いた。風のように、一つの場所に留まることなく。

 この学校で過ごした数年間が、教師としての私を形作った。
 風に流されるように、けれど確かに自分の足で歩きながら、いくつもの中学校を巡ってきた。
 そのたび生徒たちと衝突し、笑い、泣き、また次の学校へ旅立っていった。

 そんなことを思い出しながら、最後の教室の前に立った。
 初めて担任を持ったクラス。元木もこの部屋で机を並べていた。

 ドアに手をかけた瞬間、胸が強く締めつけられた。
 だが、ゆっくりと開けると──

「せんせー、遅いよ!」

 声が弾けた。
 私は固まった。

 整えられた机のほとんどに、大人になった教え子たちが座っていた。
 卒業した年の生徒だけでなく、私がこの学校にいた数年の間の下級生たちまでいる。十数人、二十人……いや、それ以上だ。
 最前列には元木が立っていた。どこか誇らしげに。

「三日前に先生から電話もらったとき、集まれるやつに声かけたんです。
 来られないやつもいるけど……ほら」

 何人かが、スマホやタブレットを持っている。ビデオ通話や会議システムの向こうで、何人もの顔が笑っていた。

「先生ぇ、聞こえる?」
「おーい、清原先生!」
「遅刻したら怒られるの、先生の方だな!」

 思春期の頃と変わらない軽口が飛び交う。
 笑い声が、風と一緒に胸の奥まで入り込んできて、言葉を奪った。

「……お前ら」

 やっと出た言葉はそれだけ。
 だが彼らは、あの頃と同じように嬉しそうに笑った。

 私は教卓の前に立った。かつて何千回も立った場所。長い教師人生で、何度もした姿勢が自然と体に戻る。
 黒板には、誰かが書いたのだろう、「最後の授業」という文字があった。

「最後の授業をしよう」

 静まり返る教室。
 胸が熱くなり、目が滲む。

「──私は教師として、君たちに何かを教えてきたつもりだった。
 けれど、思春期の揺れる心と向き合い、学ばせてもらったのは、私の方だった。
 ぶつかり、悩み、励まし合い……私がここまで来られたのは、君たちがいたからだ」

 風がまた窓から吹き抜ける。
 まるで私の言葉に応えるように、優しく、とてもあたたかく。

「ありがとう。私は幸せな教師だったよ。
 今日まで歩いてこられたのは、間違いなく君たちのおかげだ」

 拍手が、波のように広がった。
 画面の向こうからも、遠い街からも、同じ音が響いた。

「先生、最後に一つだけ、いいですか」
 元木が言った。

「この学校は明日なくなります。
 でも、先生がここで教えてくれたことは、俺たちの中に残ってる。それって、すごいことですよね」

 そうだそうだと、生徒たちが皆思い出を語り始める。忘れがたい、セピア色に変わり始めている思い出たち──

 私はそっと目を閉じる。
 吹き抜ける風の中に、自分の歩いてきたすべての季節があった。

 私は風だった。一つの場所に留まらず、様々な学校を巡った。
 でも今、改めて認識する。
 風として私が運んでいたのは、ここで学んだすべてだったのだと。この教室で初めて「先生」と呼ばれたときの、あの感動だったのだと。

 そして今、この教室いっぱいの笑顔が、私の最後の授業を照らしていた。
 吹き抜ける風の中で、私は最後の礼をした。


──────

夢路行氏「あの山越えて」という作品があります。
リアルでもあるし、現代の学校ものとしてはある意味ファンタジーなのかもしれない作品です。

でも、親身になってくれる教師が奮闘するお話は、読んだあと自分の子供の頃の担任を思い出してしんみりします。

今は先生の負担が大きすぎますよね……

11/19/2025, 7:00:35 AM

〈記憶のランタン〉

 その夜、私はいつもより遅くまでテレビの前にいた。

 夜空にゆっくりと昇っていく、たくさんのランタン。オレンジ色の光が、まるで星のように輝いているのをプリンセスが見ている場面だった。
 風にあおられながら、ふわりと昇っていく光の粒たち。すごくきれい。

「……ああ、懐かしいねえ」

 隣の座椅子に座っていたひいばあが、ぽつりと言った。

 私は驚いて顔を向ける。
 いつもは「あらきれいねえ」とか「最近の映画は難しくてねえ」なんて言うだけなのに。

「懐かしいの?」
「ああ……」

 ひいばあは、テレビの向こう側の、もっと遠くを見ているようだった。

「ひいばあ、この映画見たことあるの?」
 私が聞くと、パパが教えてくれた。

「台湾のランタンかなぁ……
 ひいばあは子供の頃、ひいばあのお父さんの仕事で台湾に住んでいたんだよ。
 その頃に見たんだろうね、ランタンを」

 私は目を丸くした。ひいばあが台湾に?
 同じ家で暮らしているのに、そんな話、聞いたことがなかった。

 映画の光景が、急に本物の景色みたいに思える。私は胸がわくわくして、もっと知りたいと思った。
 ひいばあは何も言わずに、ただ画面を見つめていた。

──

 次の日、私はタブレットで調べてみた。
 台湾。地図で見たことはあるけれど、よく知らない場所。
「台湾 ランタン」──検索すると、夜空に舞う光の祭りの写真がたくさん出てきた。お祭りみたいできれいだった。ひいばあが見たのも、こんな景色だったんだろうか。

 でもスクロールする指が止まった。
「台湾 昔 日本」と調べていくうちに、私は知らなかったことをたくさん知った。

「……太平洋戦争……?」
 関連ページには、戦争、終戦、引き揚げという言葉が並んでいた。

 太平洋戦争。日本が台湾を統治していたこと。そして終戦。引き揚げという言葉。着の身着のまま帰ってきた人たちのこと。戦後の食べ物のない暮らし。

 学校では習わなかった。いや、習ったのかもしれないけれど、それが自分の家族のことだとは思わなかった。

 読んでいると、胸がぎゅっとしめつけられた。 ランタンのある思い出がきれいな分だけ、そのあとにあったものが、余計に重く感じられた。

──

 夕方、夜ご飯の支度をしているばあちゃん—ひいばあの娘—に聞いてみた。

「ばあちゃん、ひいばあが台湾から帰ってきた時のこと、知ってる?」
「あら、パパから聞いたの?」
 ばあちゃんは少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと話してくれた。

「私が生まれたのは、戦争終わってから十年経っていたし、直接は知らないけれど……
 お母さんが引き揚げてきた後は大変だったみたいよ。何も持たずに帰ってきて、食べるものもなくて。
 あまり昔のことを話さなかったの。つらい思い出だったんでしょうね」

 物語のように思っていた「戦争」、身近な人にが体験してたこと。
 氷を背中に入れられたように、寒くなる。

「……そんなの、学校じゃ習わないよ」
「そうね。
 でもね、家族の中にだけ残っていく歴史もあるのよ」

 ばあちゃんの声は静かだった。
 私は、ひいばあにそんな“秘密みたいな歴史”があったことに胸がざわついた。

──

 夜ご飯のあと、私はひいばあの部屋へ行った。
 ひいばあはベッドで横になりながら、ラジオを聴いていた。

「ひいばあ、台湾のこと教えて」
「あらあら、そんな昔のこと」
「イヤだったら話さなくていいよ」
 少し考えたあと、ひいばあはよっこいしょと体を起こして、ちょっとずつ話してくれた。

 ひいばあのお父さんが台湾の会社で働いていたこと。
 暖かい気候のこと。
 市場で食べたマンゴーの甘さ。
 隣に住んでいた女の子、おさげ髪の佳玲ちゃんのこと。一緒に遊んだ路地。
 そして、ランタン祭りの夜。

 私は、タブレットで見たランタン祭りの光景を思い浮かべる。

「きれいだった?」

 ひいばあはゆっくり目を細めて笑った。
「きれいだったよ。空がね、光の花でいっぱいになるんだよ。
 ひとつひとつにね、願いが込められてるんだ」

「ひいばあは、何をお願いしたの?」

 問いかけると、ひいばあは天井を見上げて、遠い昔に呼びかけるように言った。

「……家族が無事でありますようにって。
 戦争のことが聞こえてきてね、毎日が不安でいっぱいで……だから、そう願ったんだよ」

 私は息をのんだ。
 ランタンは、ただきれいなだけの光じゃなかった。

 ひいばあは、その後のことも話してくれた。

 ある日突然、帰国命令が出たこと。
 佳玲ちゃんに会えなくなったこと。
 船に乗って帰ってきたこと。
 日本に着いても、家はなく、食べ物もなく、毎日が必死だったこと。

 佳玲ちゃんと別れたときの話で、ひいばあは悲しそうな顔をした。
 私もつられて泣きそうになる。

「怖くなっちゃったかね」
 あわてて、ひいばあが私の頭をなでる。

「つらいことばかりじゃなかったよ、結婚して子供が生まれて、孫が生まれて。
 こんな可愛い幸ちゃんも生まれてきた」

「向こうでの暮らしは、本当に楽しかった。
 佳玲ちゃんと遊んだことも、あのランタンの光も、ひいばあの中でいい思い出なんだよ。
 忘れたくないこともたくさんある」
「ひいばあ……」

 私の目から、涙がこぼれた。

「幸ちゃん」
 ひいばあは私の手を取った。
「覚えていてくれる? ひいばあの昔のこと」

 私はひいばあの手をそっと握った。しわくちゃで、でもとてもあたたかい手。

「忘れないよ……
 ひいばあの思い出を、私が消さないようにする」

 そう言ったら、ひいばあは目を細めて笑った。

「ありがとう。
 あなたが覚えていてくれるなら、ひいばあの人生も、無駄じゃなかったわね」

 ひいばあが見上げたランタンは、消えてしまったわけじゃない。
 ひいばあの小さな願いが、空へ昇っていった証だったんだ。
 ひいばあの思い出の中で、私の中で受け継がれている。

 私は記憶のランタンをひとつ受け取ったような気がした。

──

 それから私は決めた。少しずつ、ひいばあの話を書いていこうって。
 ひいばあは最初おろおろしてたけど、
「忘れないうちに、幸ちゃんに伝えないとね」
 と、色んなことを話してくれるようになった。

 そして、教えてもらった地名で検索して、今の画像をタブレットで見る。
「母さんばっかり幸奈に色々教えてもらって」と、ばあちゃんも一緒になって見るようになった。

 いつか、その空に、本物のランタンが浮かぶところを見てみたい。ひいばあと一緒に。
 ひいばあは「もっと長生きしなくちゃねぇ」と笑ってる。

 歴史の教科書には、年号と出来事しか書いていない。でも、その一つ一つに、ひいばあみたいに生きた人がいる。笑って、泣いて、大切な思い出を持っている人が。

 私も、ひいばあの大切な思い出を誰かに伝えたい。
 記憶という名のランタンを、未来へつないでいくために。

──────

ランタンと言えばあのプリンセスらしいんですが、どうも原作とランタンが結びつかない……(映画未見

おばあちゃんの記憶と言えば、しわしわで柔らかい手です。

11/17/2025, 11:55:51 PM

〈冬へ〉

 進路アンケートって、なんであんなに白紙がまぶしいんだろう。テスト用紙もまぶしいけど。

 今日のホームルーム、とりあえず短大とか、専門でいいかーとかみんなサラッと書いてるふりして、実はめっちゃ迷ってるの知ってる。
 ウチは名前だけ書いて、時間切れのチャイムが鳴った。

 家に帰った瞬間、ママの探知機が作動する。
「まひる、進路の紙、出したんでしょ? 何書いたの?」
「……別に」
「別になんて言わないでよ。来年は三年なんだから、ちゃんと将来を」
 はい出ました、“将来”。見えるわけないじゃん。
 その言葉のトゲに耐えきれず、ウチは上着だけつかんで家を飛び出した。
 玄関を出た瞬間の冷たい空気、もう冬ってヤツ?胸のモヤモヤまで冷やしてくる。

 そのままバイト先のコンビニへ行くと、店長がレジ裏でおでん食べてた。

「まひるちゃん、新しい商品試食試食!
 若い子の意見聞かせて!」

 大学生の先輩はカップ麺。また昼抜きでここで食べてる?
 むすっとして、いつもの調子が出ない。店長はその辺に敏感だ。

「まひるちゃん、顔、今日いつもより険しいよ?」
「……親とさ。進路のこと言われて」

 店長の声に、つい弱音を吐いてしまった。
「考えられないよ。ウチ、頭悪いし、大学とかムリだし」
 言ってから、ちょっと泣きそうになった。自分でもびっくりするくらい。

「あー、あるあるそれ。冬ってそういう季節だし」
 先輩はマジで落ち着いてる。カップ麺すすりながら。

「俺なんか、高二の冬で方向転換して、高三の夏休み前までなんも決まってなかったもん」
「え、ウソ。先輩って優等生っぽいのに」
「いや、全然。迷って、逃げて、ギリギリで決めた。担任にはせかされ、親には怒られっぱなしだったよ俺」

 カップ麺の汁飲み干して、菓子パンに手を出しながら先輩は言った。
「“冬来たりなば春遠からじ”って知ってる?」
「それポエムっすか?」
「違うって。元はイギリスの詩人」
「へー、中国の故事だとか思ってた。さすが文学部」
 店長がちゃかすけど、先輩は続ける。

「冬はしんどいけど、そのあと春が来るんだよ。
 今つらくても、必ず越えられるって意味」

 “必ず越えられる”。
 そんなの簡単に言わないでよ、と思った瞬間、若者ふたりの会話を聞いていた店長が横でうんうん頷いてきた。

「まひるちゃんさ、気が利くじゃん。お年寄りにも人気あるし。向いてる仕事、きっといっぱいあるよ」
「……ウチの“向いてる仕事”って、なんなんですかね」
「それを探す時期なんだよ。進学でも就職でも、自分が何できるか知ってると強いからね」

 “自分が何できるか”。
 そんなの考えたことなかった。そもそも、考える価値ないと思ってた。

 バイト終わりの外は、空気が冷たくて、息が白くて、街路樹のイルミネーションがキラキラしてた。
 冬の夜って、なんか全部が透明になっちゃう感じがする。
 ごまかせないというか、悩みの形がそのまま空気に溶けるというか。

──冬来たりなば春遠からじ。

 先輩の声が、微妙にイケボで頭に残る。
 ほんとに来る? 春。
 ウチの人生にも?

 次のバイトの日。夕方の混雑が落ち着いたころ、常連のおばあちゃんが来た。
「まひるちゃん、今日も元気ねえ」
「まあまあっすよ」
 袋を渡すと、おばあちゃんはふわっと笑った。

「あなたね、本当に気が利くわよ。声も明るいし、丁寧だし。こういうお仕事、向いてるんじゃない?」
「え、ウチが……ですか?」
「そうよ。人の話をちゃんと聞ける子って、珍しいのよ。
 それとね、あの……ポップっていうの?まひるちゃんが書いたんでしょ?」
 おばあちゃんはニコニコ笑って、商品棚のポップを指差す。「若い子感覚で書いて~」と店長に言われて作ったヤツ。

「絵もあっていつもどんな商品なのかわかりやすいし、読むのを楽しみにしてるのよ」

 その瞬間、頭ん中で何かがカチッて音を立てた。
 凍ってた部分に、ちょっとだけ日が射したみたいな感覚。

 もしかして──
 ウチにも“向いてる道”ってあるの?
 なりたい自分、探せばどこかにあるの?

 外に出ると、冬の空気は相変わらず冷たかった。けど、不思議と胸のあたりは軽くなった気がする。
 吐いた白い息が広がって、その先で街の光がぼんやり揺れてる。

 冬はこれからやってくる。
 でも、昨日よりはちょっとだけ、未来の方向が明るい気がした。

「……春、来るんかな。まあ……さっさと来てくれてもいいけど」

 そんな小さなつぶやきが、白い息と一緒に夜に溶けていった。
 それだけで、今日のウチは少しだけ救われた気がした。

──────

若い子の話し言葉がわからんです……
高二の冬に決めてた進路希望をひっくり返し、ギリギリまで志望校決めなくて怒られたのは私です(真似しちゃいけません

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