汀月透子

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〈見えない未来へ〉

 離婚届を折らないように透明なクリアファイルへ滑り込ませ、カバンにしまう。
 役所を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を刺した。深い呼吸が喉の奥で震え、長く重たかった時間がようやくほどけ始める。

 結婚してから住んだのは、私の実家から二十分程度のところだった。
 子どもが生まれたら母に手を貸してもらえるように──“そうなるはずの未来”を疑いもせずに描いていた。
 でも未来は一度も私たちのほうを向いてはくれなかった。

──

 夫への違和感は、些細な日常の継ぎ目から漏れた。
 遅くなることが増えた帰宅。増えていく「今日は出張で泊まる」という連絡。帰宅後すぐに浴室へ向かう足早な背中。浴室から聞こえてくる、ひそやかに返信する気配。
 問いただす前に、確かな形を集めようと私は静かに動いた。

 夫が無防備にごみ箱に捨てていたクレジット明細。見覚えのないレストランの名前。日付も時間も、夫の言う出張と一致しない。
 出張の夜のスマホの位置情報は、県外にも職場にもない場所に灯りをともしていた。

 そして深夜、夫が寝たあとに画面に残っていた短い通知。「早く会いたい」。
 そこまで揃えば、もう見なかったことにはできない。私はもう目をそらさず、スマホで探偵事務所を検索した。

──

 対峙したのは、雨の音が強くなり始めた土曜の夕方だった。不倫相手のところにも、内容証明が届いている頃だ。

 夫がリビングでTVをつけたままぼんやりしていたので、私は窓際のテーブルに探偵事務所からの報告書やクレジット明細、夫のスマホ画面を撮影した画像を静かに並べた。

「話したいことがあるの」

 その言い方だけで、夫は何かを察したのだろう。リモコンを置き、姿勢を正すでもなく、ただ少しだけ眉が動いた。

「これ、見てくれる?」

 私が証拠を差し出すと、夫は一枚ずつ目を通した。
 表情は、変わらなかった。驚きも、言い訳の気配も見せなかった。ただ、逃げ場を探すように視線だけが揺れた。

「……誰?」
 静かに問いかけると、ほんの一拍ののち、夫は小さな声で言った。

「……会社の人だ」
 報告書に書かれていることとは違う。ため息が出る。

「その“会社の人”と、この店に行ったんだよね。それから──ここ。」

 私はスマホの画面を示した。

 不倫相手の住所に夫の位置情報の点が記された地図、そして短い通知の文。夫は視線を逸らし、両手を膝の上で組んだ。

「いつから?」
「……去年の秋くらい」

 あまりにも淡々とした声だった。
 その瞬間、胸の奥で何かが静かに切れた気がした。もう戻れないところまで来ているのだと腑に落ちた。

「妊活を始めた頃だよね」

 泣きそうになるのを懸命にこらえ、夫の表情を伺いながら尋ねる。

「私たち、子どものこと、ずっと頑張ってたよね。
 あなたも“欲しい”って言ってたよね」

 夫は黙ったまま俯き、答えは返ってこなかった。
 その沈黙こそが、私たちの関係の終点を告げていた。

「……離婚しよう。
 何をどう取り繕われても、もう一緒には歩けない」

 ふたりの間に、雨の音が落ちていく。
 夫はほんの少し肩を震わせ、そしてあきらめたように目を閉じた。

「……悪かった」

 その謝罪は、不思議なほど軽かった。
 軽さが悪いのではなく、そこに“戻りたい”という意思が一つも含まれていなかった。その事実を、私は静かに受け入れた。

──

 役所を出たあと、気がつけば私は川のそばまで歩いていた。

 ここは子どものころ、友達と石を投げ、水切りをして遊んだ場所だ。夕暮れの光に照らされる水面が、懐かしい記憶を鮮やかに呼び起こす。

 あの頃の私は、未来は無限に続いていると思っていた。結婚して、家族が増えて、笑い声に満ちた生活を築くと疑いもしていなかった。

 “幸せな未来”を当然のように描いていた自分が、今の私を見たらどう言うだろう。
「よく頑張ったね」か。「早く逃げて」か。それとも、黙って抱きしめるだけか。
 どれでもいい。どれも正しい気がした。

 川面に視線を落としていたときだった。

「……薫、だよな?」

 ふり返ると、そこには修平が立っていた。小学校の同級生。
 互いに距離を保ちながら、軽い挨拶を交わす。

「久しぶり。こんなとこ来るんだな」
「修平こそ」

 沈黙が気まずくなく、むしろ落ち着いた。
 私はふと、今の自分を隠す気になれなくなっていた。

「……離婚するのよ。今、届けもらってきたところ」

 修平は驚きすぎず、同情しすぎず、ただ受け止めるように頷いた。

「大変だったな」

 その一言に、肩の力が抜けた。

「俺も最近、会社辞めたところ。
 ブラックな会社で消耗してて、未来なんて全然見えないよ」
「そうなんだ」
「まあ……そういう時もあるよな」

 互いに踏み込みすぎない距離。けれど十分に温度のある言葉。

 夕陽が沈みきるころ、修平がふと空を見上げて言った。

「薫。落ち着いたらでいいけど……どっかでコーヒーでも飲もうか。話したくなったらでいい」
「この辺に住んでる奴らを誘って、飲み明かすんでもいい」

 期待も圧もない、静かな提案だった。

「……うん。落ち着いたら」

 そう返すと、修平は一度だけ頷き、去っていった。

 残された私は、カバンの中のクリアファイルが鳴る音を聞きながら歩き出す。
 未来はまだ見えない。でも、見えないからこそ選び直せる。
 夫の不倫相手との”バトル”も待っているから、立ち止まっている場合ではない。むしろ、その事実が私の背筋を伸ばす。

 “見えない未来へ”。
 その言葉が、少しだけ前向きに胸の中で灯った。

──────

もっとドロドロしたり長期化するかもしれないけど、ほら読後感すっきりするために、淡々としないと。
(表現力のなさを露呈する

11/20/2025, 11:53:29 PM