〈吹き抜ける風〉
風が冷たい。三月の終わりとはいえ、山あいの町はまだ冬を手放しきれずにいる。
私は古びた校門の前で立ち止まり、ゆっくり息を吸った。かつて朝の声が満ちていた場所。
今はただ、吹き抜ける風だけが通り過ぎていく。三十五年前、初めてこの学校に赴任したときと同じように。あの日も、こんな風が吹いていただろうか。
明日、この校舎は取り壊される。
「清原先生、鍵、開けますね」
隣には元木──私がこの中学校に初めて赴任した年、初めて担任したクラスにいた教え子が立っている。
今では立派な中年男性になって、市役所に勤めている。管理課の職員として、この廃校の最期を見届ける。
「忙しいのに、すまんな」
「いえ。先生の初任校ですから。
俺もやることあるんで」
しばらく開け閉めしていなかったせいか、少し錆びた鍵が重い音を立てて回る。扉が開き、冷えた校舎の空気が押し寄せてきた。
薄暗い校舎はかつての喧騒を失い、時を止めていた。
「少子化の影響もあるんですが、校舎自体がもう古くて耐震基準に見合わないんですわ。
再利用も検討したんですが」
市内の人口も減っている。時代の流れだ、仕方ない。
「先生はゆっくり回ってきてください。俺は設備の最終確認してきます」
そう言って、元木は事務室へ消えていく。
私は、ひとりになった廊下を歩き出した。埃と共に、ここでの記憶も舞い上がってくる。
最初に立ち寄ったのは、理科室。窓際に並んだ人体模型が、私を見下ろしている。
ここで若い理科教師と夜遅くまで教材研究をした。教科書だけでは学べない、興味から学びへ結びつけるためのアイデアを出し合った。
彼は今、どこで何をしているだろう。
音楽室。ピアノは撤去されたが、壁に貼られた作曲家の肖像画はそのままでひっそりと見守っている。
合唱コンクールの練習で、クラスが思うようにまとまらず指揮者の女子生徒が泣いていた。茶化していた男子生徒たちは彼女の涙に動じることはなかったが、最終的には女子たちにやりこめられ、まとまっていた。
コンクールで見事に歌い上げたあとには、達成感から感極まって泣く男子もいたくらいだ。
放課後の家庭科室では、思春期の女子たちがいつも小さく固まっておしゃべりをしていた。
テレビやドラマ、アイドルの話。人間関係、家族との付き合い方、秘密の恋……
もちろん、トラブルもあった。彼ら彼女らのキャパシティを超え、どうにもならなくて仲裁に入ったことも多かった。
「人を傷つける言葉は、思っているより長く残る。大人でも忘れられないことがある。
君たちは、それを知ったうえで選べる人になってほしい」
思春期の心の揺れは厄介だが、その分だけまっすぐだった。
若さの揺らぎ、その真っ只中で、不安や恥ずかしさと闘っている姿が愛おしかった。
階段を上がる。手すりは冷たく、滑らかだ。何千人もの子どもたちが、ここを駆け上がり、駆け下りた。
元木がどこかの窓を開けたのだろう、吹き抜ける風が廊下を渡り、私の頬をなでる。
私もまた、様々な学校を渡り歩いた。風のように、一つの場所に留まることなく。
この学校で過ごした数年間が、教師としての私を形作った。
風に流されるように、けれど確かに自分の足で歩きながら、いくつもの中学校を巡ってきた。
そのたび生徒たちと衝突し、笑い、泣き、また次の学校へ旅立っていった。
そんなことを思い出しながら、最後の教室の前に立った。
初めて担任を持ったクラス。元木もこの部屋で机を並べていた。
ドアに手をかけた瞬間、胸が強く締めつけられた。
だが、ゆっくりと開けると──
「せんせー、遅いよ!」
声が弾けた。
私は固まった。
整えられた机のほとんどに、大人になった教え子たちが座っていた。
卒業した年の生徒だけでなく、私がこの学校にいた数年の間の下級生たちまでいる。十数人、二十人……いや、それ以上だ。
最前列には元木が立っていた。どこか誇らしげに。
「三日前に先生から電話もらったとき、集まれるやつに声かけたんです。
来られないやつもいるけど……ほら」
何人かが、スマホやタブレットを持っている。ビデオ通話や会議システムの向こうで、何人もの顔が笑っていた。
「先生ぇ、聞こえる?」
「おーい、清原先生!」
「遅刻したら怒られるの、先生の方だな!」
思春期の頃と変わらない軽口が飛び交う。
笑い声が、風と一緒に胸の奥まで入り込んできて、言葉を奪った。
「……お前ら」
やっと出た言葉はそれだけ。
だが彼らは、あの頃と同じように嬉しそうに笑った。
私は教卓の前に立った。かつて何千回も立った場所。長い教師人生で、何度もした姿勢が自然と体に戻る。
黒板には、誰かが書いたのだろう、「最後の授業」という文字があった。
「最後の授業をしよう」
静まり返る教室。
胸が熱くなり、目が滲む。
「──私は教師として、君たちに何かを教えてきたつもりだった。
けれど、思春期の揺れる心と向き合い、学ばせてもらったのは、私の方だった。
ぶつかり、悩み、励まし合い……私がここまで来られたのは、君たちがいたからだ」
風がまた窓から吹き抜ける。
まるで私の言葉に応えるように、優しく、とてもあたたかく。
「ありがとう。私は幸せな教師だったよ。
今日まで歩いてこられたのは、間違いなく君たちのおかげだ」
拍手が、波のように広がった。
画面の向こうからも、遠い街からも、同じ音が響いた。
「先生、最後に一つだけ、いいですか」
元木が言った。
「この学校は明日なくなります。
でも、先生がここで教えてくれたことは、俺たちの中に残ってる。それって、すごいことですよね」
そうだそうだと、生徒たちが皆思い出を語り始める。忘れがたい、セピア色に変わり始めている思い出たち──
私はそっと目を閉じる。
吹き抜ける風の中に、自分の歩いてきたすべての季節があった。
私は風だった。一つの場所に留まらず、様々な学校を巡った。
でも今、改めて認識する。
風として私が運んでいたのは、ここで学んだすべてだったのだと。この教室で初めて「先生」と呼ばれたときの、あの感動だったのだと。
そして今、この教室いっぱいの笑顔が、私の最後の授業を照らしていた。
吹き抜ける風の中で、私は最後の礼をした。
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夢路行氏「あの山越えて」という作品があります。
リアルでもあるし、現代の学校ものとしてはある意味ファンタジーなのかもしれない作品です。
でも、親身になってくれる教師が奮闘するお話は、読んだあと自分の子供の頃の担任を思い出してしんみりします。
今は先生の負担が大きすぎますよね……
11/20/2025, 6:19:26 AM