汀月透子

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〈記憶のランタン〉

 その夜、私はいつもより遅くまでテレビの前にいた。

 夜空にゆっくりと昇っていく、たくさんのランタン。オレンジ色の光が、まるで星のように輝いているのをプリンセスが見ている場面だった。
 風にあおられながら、ふわりと昇っていく光の粒たち。すごくきれい。

「……ああ、懐かしいねえ」

 隣の座椅子に座っていたひいばあが、ぽつりと言った。

 私は驚いて顔を向ける。
 いつもは「あらきれいねえ」とか「最近の映画は難しくてねえ」なんて言うだけなのに。

「懐かしいの?」
「ああ……」

 ひいばあは、テレビの向こう側の、もっと遠くを見ているようだった。

「ひいばあ、この映画見たことあるの?」
 私が聞くと、パパが教えてくれた。

「台湾のランタンかなぁ……
 ひいばあは子供の頃、ひいばあのお父さんの仕事で台湾に住んでいたんだよ。
 その頃に見たんだろうね、ランタンを」

 私は目を丸くした。ひいばあが台湾に?
 同じ家で暮らしているのに、そんな話、聞いたことがなかった。

 映画の光景が、急に本物の景色みたいに思える。私は胸がわくわくして、もっと知りたいと思った。
 ひいばあは何も言わずに、ただ画面を見つめていた。

──

 次の日、私はタブレットで調べてみた。
 台湾。地図で見たことはあるけれど、よく知らない場所。
「台湾 ランタン」──検索すると、夜空に舞う光の祭りの写真がたくさん出てきた。お祭りみたいできれいだった。ひいばあが見たのも、こんな景色だったんだろうか。

 でもスクロールする指が止まった。
「台湾 昔 日本」と調べていくうちに、私は知らなかったことをたくさん知った。

「……太平洋戦争……?」
 関連ページには、戦争、終戦、引き揚げという言葉が並んでいた。

 太平洋戦争。日本が台湾を統治していたこと。そして終戦。引き揚げという言葉。着の身着のまま帰ってきた人たちのこと。戦後の食べ物のない暮らし。

 学校では習わなかった。いや、習ったのかもしれないけれど、それが自分の家族のことだとは思わなかった。

 読んでいると、胸がぎゅっとしめつけられた。 ランタンのある思い出がきれいな分だけ、そのあとにあったものが、余計に重く感じられた。

──

 夕方、夜ご飯の支度をしているばあちゃん—ひいばあの娘—に聞いてみた。

「ばあちゃん、ひいばあが台湾から帰ってきた時のこと、知ってる?」
「あら、パパから聞いたの?」
 ばあちゃんは少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと話してくれた。

「私が生まれたのは、戦争終わってから十年経っていたし、直接は知らないけれど……
 お母さんが引き揚げてきた後は大変だったみたいよ。何も持たずに帰ってきて、食べるものもなくて。
 あまり昔のことを話さなかったの。つらい思い出だったんでしょうね」

 物語のように思っていた「戦争」、身近な人にが体験してたこと。
 氷を背中に入れられたように、寒くなる。

「……そんなの、学校じゃ習わないよ」
「そうね。
 でもね、家族の中にだけ残っていく歴史もあるのよ」

 ばあちゃんの声は静かだった。
 私は、ひいばあにそんな“秘密みたいな歴史”があったことに胸がざわついた。

──

 夜ご飯のあと、私はひいばあの部屋へ行った。
 ひいばあはベッドで横になりながら、ラジオを聴いていた。

「ひいばあ、台湾のこと教えて」
「あらあら、そんな昔のこと」
「イヤだったら話さなくていいよ」
 少し考えたあと、ひいばあはよっこいしょと体を起こして、ちょっとずつ話してくれた。

 ひいばあのお父さんが台湾の会社で働いていたこと。
 暖かい気候のこと。
 市場で食べたマンゴーの甘さ。
 隣に住んでいた女の子、おさげ髪の佳玲ちゃんのこと。一緒に遊んだ路地。
 そして、ランタン祭りの夜。

 私は、タブレットで見たランタン祭りの光景を思い浮かべる。

「きれいだった?」

 ひいばあはゆっくり目を細めて笑った。
「きれいだったよ。空がね、光の花でいっぱいになるんだよ。
 ひとつひとつにね、願いが込められてるんだ」

「ひいばあは、何をお願いしたの?」

 問いかけると、ひいばあは天井を見上げて、遠い昔に呼びかけるように言った。

「……家族が無事でありますようにって。
 戦争のことが聞こえてきてね、毎日が不安でいっぱいで……だから、そう願ったんだよ」

 私は息をのんだ。
 ランタンは、ただきれいなだけの光じゃなかった。

 ひいばあは、その後のことも話してくれた。

 ある日突然、帰国命令が出たこと。
 佳玲ちゃんに会えなくなったこと。
 船に乗って帰ってきたこと。
 日本に着いても、家はなく、食べ物もなく、毎日が必死だったこと。

 佳玲ちゃんと別れたときの話で、ひいばあは悲しそうな顔をした。
 私もつられて泣きそうになる。

「怖くなっちゃったかね」
 あわてて、ひいばあが私の頭をなでる。

「つらいことばかりじゃなかったよ、結婚して子供が生まれて、孫が生まれて。
 こんな可愛い幸ちゃんも生まれてきた」

「向こうでの暮らしは、本当に楽しかった。
 佳玲ちゃんと遊んだことも、あのランタンの光も、ひいばあの中でいい思い出なんだよ。
 忘れたくないこともたくさんある」
「ひいばあ……」

 私の目から、涙がこぼれた。

「幸ちゃん」
 ひいばあは私の手を取った。
「覚えていてくれる? ひいばあの昔のこと」

 私はひいばあの手をそっと握った。しわくちゃで、でもとてもあたたかい手。

「忘れないよ……
 ひいばあの思い出を、私が消さないようにする」

 そう言ったら、ひいばあは目を細めて笑った。

「ありがとう。
 あなたが覚えていてくれるなら、ひいばあの人生も、無駄じゃなかったわね」

 ひいばあが見上げたランタンは、消えてしまったわけじゃない。
 ひいばあの小さな願いが、空へ昇っていった証だったんだ。
 ひいばあの思い出の中で、私の中で受け継がれている。

 私は記憶のランタンをひとつ受け取ったような気がした。

──

 それから私は決めた。少しずつ、ひいばあの話を書いていこうって。
 ひいばあは最初おろおろしてたけど、
「忘れないうちに、幸ちゃんに伝えないとね」
 と、色んなことを話してくれるようになった。

 そして、教えてもらった地名で検索して、今の画像をタブレットで見る。
「母さんばっかり幸奈に色々教えてもらって」と、ばあちゃんも一緒になって見るようになった。

 いつか、その空に、本物のランタンが浮かぶところを見てみたい。ひいばあと一緒に。
 ひいばあは「もっと長生きしなくちゃねぇ」と笑ってる。

 歴史の教科書には、年号と出来事しか書いていない。でも、その一つ一つに、ひいばあみたいに生きた人がいる。笑って、泣いて、大切な思い出を持っている人が。

 私も、ひいばあの大切な思い出を誰かに伝えたい。
 記憶という名のランタンを、未来へつないでいくために。

──────

ランタンと言えばあのプリンセスらしいんですが、どうも原作とランタンが結びつかない……(映画未見

おばあちゃんの記憶と言えば、しわしわで柔らかい手です。

11/19/2025, 7:00:35 AM