汀月透子

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11/17/2025, 6:14:01 AM

〈君を照らす月〉

 駅の改札に立ち、遠ざかっていく背中を見送った。
 長年、当たり前のように隣の席にいた彼女が、あと一週間で去っていく。

──

 この会社に入社して十五年。
 気づけば周りの同期は家庭を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。自分だけが会社という場所に留まり続けているような気がしていた。

 六年前、俺はまったく勝手の違う部署に異動した。まとめ役としての役割を期待されていたが、実際には右も左も分からず、不安ばかり抱えていた。
 そんな新人同然の俺を、根気強く支えてくれたのが三つ年下の岡部さんだった。

 書式の癖や過去の経緯、上層部の好む流れまで、彼女は一つひとつ丁寧に教えてくれた。
 会議で資料の順番に迷っていると、何も言わずに必要な紙をそっと差し出してくれる。取引先への気遣いのメールも、俺が気づかないうちにフォローしていてくれた。

 彼女のきめ細やかな配慮と段取りのおかげで、部署全体の業務は滞りなく回っていた。
 だが、それは業績の数字には表れない。
 会議で称賛されるのは成果を出した誰かで、彼女の存在がその成果を支えていることを、ほとんどの人は知らなかった。
 それでも彼女は不満を言わず、淡々と仕事を整えていた。

 そんな彼女から退職を告げられたとき、胸の奥で何かが静かに砕けた。
 母の介護という理由に、周囲は一様に頷いていたが、俺にはそれだけではないように思えた。

 十二年という年月は、彼女に多くを背負わせ過ぎてきた。
 部署を越え、同性でなければ対応できない指導や、微妙な人間関係の調整など、業務とはかけ離れたものも多かった。
 本来なら組織が担うべき役割を、上層部は当たり前のように彼女へ押しつけていたのだ。

 会議室で資料を整える彼女の指先が、時折わずかに震えることがあった。
 笑顔の奥で疲れを隠そうとしていることに、俺は気づいていた。
 けれど誰も口にはしなかったし、彼女もまた、気づかれまいと微笑んでいた。

──

 今夜は引き継ぎで遅くなった。会社を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。

「今日も遅くなりましたね」

 声をかけると、岡部さんは少し驚いたように振り向いた。

「引き継ぎで残業まで、すみません」

「謝ることじゃありませんよ。
 僕も把握しておかないといけませんから」

 並んで駅へ向かう。ビルの谷間を抜けていく風が、季節の変わり目を告げていた。
 雲の切れ間から白い月がのぞいている。

「退職のこと、他の部署には話していなかったんですね」

 信号の前で尋ねると、彼女は小さくうなずいた。

「ええ。……まだ口にするのが怖くて。
 ギリギリまで黙っていようと思っていました」

 その気持ちは分かる。
 何かを手放す瞬間は、いつだって不安だ。

「僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えませんでした」

 歩く先の信号が赤に変わる。足を停めるとともに、言葉も止まる。
 信号の下で、ふたりして夜空を見上げた。
 月が街灯より少しだけ強く、けれど刺すようではない光で浮かんでいる。

「……月が、綺麗ですね」

 自分の口から漏れた言葉に、少し驚いた。

「ええ。なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」

 彼女の声は、変わらず柔らかかった。

 青に変わるのを待ちながら、俺は思った。
 この十二年間、彼女はどんな思いを抱えてこの道を歩いてきたのだろう。
 どんな夜に、どんな月を見上げてきたのだろう。

「……瀬尾さん」

 呼ばれて振り向くと、岡部さんが少し照れたように笑った。

「私、この仕事嫌いじゃなかったです」

 その言葉の重さが胸に落ちた。

「……知ってます」

 それしか言えなかった。
 けれど本当はもっと伝えたかった──あなたがいてくれて良かった。あなたの仕事をずっと尊敬していた。そして、これから先の人生も幸せであってほしい、と。

 駅の入口で足が止まる。

「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」

 彼女が頭を下げる。俺は静かにうなずいた。

 彼女が改札へ進んでいく。振り返ったその顔に、軽く手を上げた。
 月の光が、彼女の背中をそっと照らしている。

 きっと、この光景を忘れない。

 月は誰の上にも平等に輝く。
 けれど今夜のこの瞬間だけは、彼女の歩き出す道を照らすために輝いているのだと思った。
 その光が、これからの彼女の人生を少しでも明るくするようにと祈りながら。

 俺は手を下ろし、別の路線へ歩き出した。
 月を背に受けながら、自分もまた前へ進まなければならない。



──────

以前書いた「moonlight」、別視点のお話です。
恋愛ものじゃないんだよなぁと思いつつ、書いたり消したりでした。
その辺の細やかな情緒が描ききれないもどかしさよ……(文章力のせい

11/16/2025, 4:06:16 AM

〈木漏れ日の跡〉

 晩秋の午後、プラタナスの街路樹が作る木漏れ日の中を歩く。
 斜めに差し込む陽射しは、もう夏のように眩しくはない。枝の隙間から漏れる光がアスファルトにゆらゆらと模様を描き、その上を、前を行く親子連れの少女が軽いステップで踏み越えてゆく。
 父親と母親、そして小学生くらいの女の子。三人で何かを話しながら笑っている。女の子が跳ねるように歩くたび、母親が優しく手を引き直す。

──もし違う人生を選んでいたら、私にもこんな光景があったのだろうか。
 ふと、そんなことを考えてしまった。四十二歳の今、私の人生にその選択肢はもうない。いや、正確には、私が選ばなかった道だ。
 でも、そんな「もし」は、秋の光のせいでふいに色を帯びて蘇る。

──

 十五年前。私は亮と結婚を考えていた。大学時代からの付き合いで、趣味も価値観も合っていると思っていた。
 休日は木漏れ日の道を歩いて美術館を巡り、同じ銘柄のコーヒーを気に入る。映画の好みも似ていて、夜遅くまで作品について語り合った。
 当然、結婚も自然な流れとして視野に入れていた。この人と共に歩いていくのだと、本気で信じていた。

 けれど、あの日。
「そろそろ、結婚しようか」
 亮はいつもの穏やかな笑みを浮かべてそう言った。私は嬉しかった。ようやく二人の未来が具体的な形になるのだと。
 でも、続く言葉は予想外だった。

「結婚して子供ができたら、仕事は辞めてもいいよな?」
 唐突なその言葉で、未来は別々のものになった。

 私の仕事は、辞める前提なのか。家庭に入るのが当然なのか。
 当時、私は仕事に就いて四年目。ようやくひとりで任される案件も増え、やりがいを感じ始めていた頃だった。

「君には家で子育てに専念してもらいたい。それが家族のためだと思うんだ」
「母さんもそうだったし、それが一番いい形だと思う」

 亮の母親は専業主婦だった。それは彼女の選択であり、それ自体を否定するつもりはない。
 でも、それを私にも当てはめようとする彼の考え方に、初めて違和感を覚えた。

「家庭はこうあるべき」という固定観念。
 男性が外で働き、女性が家を守る。そういう役割分担が当然だという考えを、亮が譲ることはなかった。
 話し合いを重ねるたび、私たちの間にある溝は深くなっていった。

──結局、私たちは別れた。
 彼は理解できないという顔をしていたが、私も説明することに疲れていた。

 そして後悔したことは一度もない。
 木漏れ日が、また揺れた。

──

 街路樹の先、美術館に入る。好きな画家の回顧展が開かれていると知り、久しぶりに時間を作ってここに来たのだ。
 印象派の繊細な光の表現に見入っていると、背後から声がかかった。

「詠美?」

 振り返ると、そこに亮がいた。

「亮……」

 十五年ぶりの再会だ。少し白髪が混じり、顔に皺も増えたけれど、あの頃の面影は残っている。

「やっぱり君だった。
 君がこの画家を好きだったこと、思い出してね。もしかしたら来ているんじゃないかと思って」

 亮は少し照れたように笑う。
「少し、話さない?」
 彼の左手の薬指には、指輪はなかった。

 美術館のカフェで、私たちは庭が見える席に座る。亮と並ぶのはなんとも居心地がよくない。私は運ばれてきた紅茶に口をつける。

「……二回、結婚したんだけどね」
と亮が言った。
「どちらもダメだった。子供も二人いるけど」

 私は驚いて彼を見た。

「俺の稼ぎだけで十分なはずなのに、二人ともわからないことを言う。
 子供が生まれても仕事を続けたいとか、もっと家事を手伝ってほしいとか──
 子育ては母親がするものだろう? 俺は一生懸命働いて、家族を養っていたのに」

 彼の言葉を聞きながら、私はゆっくりとティーカップを置いた。

「亮、あなたは何も変わっていないのね」

「え?」

「あなたは自分の考えだけを押し付けているのよ。結婚も子育ても、相手を尊重してこそ成り立つものなの。
 お金を稼ぐことだけが夫の役割じゃない。パートナーとして対等に向き合い、一緒に家庭を作っていくという意識がなければ、誰とも上手くいかないわ」

「でも、俺は……」

「あなたは『こうあるべき』という枠に相手をはめようとする。
 でも人はそれぞれ違う。あなたの奥さんたちも、きっと自分の人生を大切にしたかっただけよ」
 私は言葉を区切り、彼の目をまっすぐに見た。
 亮は言葉を失い、ゆっくりコーヒーカップに視線を落とした。

 店内の静けさが、ふたりのあいだの十五年の距離を際立たせる。
 少しの沈黙の後、亮はぽつりと言った。

「……もしあのとき、俺がもっと違う考え方ができていたらさ……
 俺たち、別れずに済んだのかな」

「どうかしらね。
 少なくとも私は“私の人生”を大切にしたかった。それは今も変わらない」
 そう言った後、小さくため息をつく。

「俺たち、もう一度やり直せないかな」
 亮の声には、迷いと期待が入り混じっていた。

 けれど、私は首を横に振った。

「私たちは街路樹みたいなものだと思う」
「街路樹?」
「私たちは、あの街路樹みたいなものよ。
 道を隔てて平行に立っている。根は絡まないし、枝も交わらない。
 その先でも、交わることはないの」

 亮は静かに目を伏せた。
 その横顔は、痛みというより受け入れに近かった。

 私は席を立ち、カフェを出る。亮は呼び止めなかった。
 もう、振り返らなかった。

 街路樹の下をひとり歩く。風が強くなり、枯れた葉がいくつも舞い落ちてくる。季節は冬へと向かっている。
 見上げると、すっかり葉が落ちた枝を透かして夕陽が空を染めている。

「もうあの日の木漏れ日はない」

 そう呟きながら、私は前を向いて歩き続けた。 舗道に残る木漏れ日の記憶を踏みしめながら。
 それは確かに美しかった。でも、もう戻れない過去だ。

 私には私の道がある。それでいいのだと、今なら言える。

11/15/2025, 7:59:38 AM

〈ささやかな約束〉

 すっかり秋の空気になった土曜日の午後。
 縁側のガラス戸越しに、直人と花菜が庭を駆け回る姿が見える。マンション暮らしの孫たちにとって、この庭は格好の遊び場だ。
 二人とも汗ばんだ顔で、バケツとスコップを手に何やら真剣な表情で穴を掘っている。

「お母さん、これでお茶にしよう」

 娘の菜穂子が洋菓子店の紙袋から焼き菓子を取り出した。
 週末の午後、娘と孫たちが遊びに来るのはもう習慣のようなものだ。

 キッチンで湯を沸かしながら、居間から聞こえてくる菜穂子のため息が気になった。
 庭を走り回る子どもたちの声が窓越しに聞こえてくる。その賑やかさに紛れて、菜穂子はぽつりと口を開いた。

 「……ねえ、お母さん。智人のことなんだけど」

 私は湯飲みにお茶を注ぎながら娘を見た。
 菜穂子は、子どもたちがいないのを確認してから、少し困り顔で言葉を続けた。

「週に一度くらい、一緒に買い物に行きたいんだけどね。
 なんだか最近、夜は遅いし休みの日になるともうぐったりしたみたいに寝てばかりで。家族の時間って、どう作ればいいんだろうって」

「智人さん、仕事忙しいのね」
 娘婿の智人は真面目な人だ。それだけに、仕事の負担も大きいのだろう。

「週に一度でいいから、家族みんなで買い物に行きたいのよ。
 子供たちも、お父さんと一緒に出かけるの楽しみにしてるのに」

 菜穂子の声には疲れが滲んでいた。

「仕事が忙しいのはもちろんわかってる。無理させたいわけじゃないし。
 だけど…何か“家族の時間”ってものがほしいの。子どもたちだって、パパとどこか行きたいって思ってるはずだし」

 娘の声が、少しだけ震えた。
 私はどう返せば良いのか迷った。
「そうね……」

 どう言葉をかけたものか。働き盛りの男性が疲れているのも理解できる。
 でも、娘の気持ちもわかる。子供たちと過ごす時間は、あっという間に過ぎていくものだから。   
 ただ慰めるだけでは足りない。でも、具体的な解決策なんて簡単に思い当たらない。

 ふと、自分の子供時代が頭をよぎった。

──

 父は小さな印刷工場を営んでいた。母も一緒に働いていて、二人とも毎日遅くまで機械の音に囲まれていた。
 休日といえば、父は居間の布団で昼過ぎまで寝ていた。母は溜まった家事に追われていた。友達の家のように、毎週どこかへ出かけることなんてなかった。

 でも。

 月に一度だけは、必ず家族で出かけた。動物園だったり、デパートだったり。
 それが我が家の約束事だった。

 帰り道、駅前のフルーツパーラーへ行く。
 あの店の、ショーケースに並ぶ色とりどりの食品サンプル。
 レモン、オレンジ、メロン、いちご……どれにしようか迷う時間さえ、特別だった。

 冷たいシャーベットが口の中で溶けるたび、私は幸せだと思った。父と母の優しい笑顔。
 三人でテーブルを囲む、あの静かな時間。普段は忙しくて構ってもらえなくても、あのささやかな約束事があったから、私は愛されていると信じることができた。寂しくなかったのだと、大人になってわかった。

──

「菜穂子、あのね……」

 私が口を開きかけたとき、庭から子供たちの声が聞こえた。

「おばあちゃん、のど乾いたー」
「お茶ちょうだい!」

 縁側の戸が勢いよく開いて、直人と花菜が駆け込んできた。二人とも顔を真っ赤にして、息を弾ませている。

「はいはい、今持ってくるわ。手を洗っておいで」

 私は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。二人はそれを一気に飲み干す。

「ねえ、おばあちゃん」と、花菜が言った。「パパ、何時に来るの?」
「パパは今日は来ないでしょう」と菜穂子が答える。
「疲れてるから、お家で休んでるのよ」

 直人がテーブルのお菓子をつまみながら、思い出したように言った。

「そういえばさ、パパとの“アイスの日”って、いつにするの?」

 菜穂子の手がぴたりと止まった。
「……え? なに、それ」

 花菜が口の周りにクッキーの粉砂糖をつけながら続けた。
「この前、パパにお願いしたの。パパ、ちょっと考えてたよ?」

 直人もうなずき、得意げに説明を始めた。

「この前ね、パパが休みの日にずっと寝てたでしょ?
 で、ママがちょっとさみしそうだったからさ。パパに言ったんだよ。
『休みの日に何するか、決めればいいんじゃない?』って」
「そしたらね!」
 花菜が身を乗り出す。
「“月に一度なら、公園のベンチでアイスくらい食べに行けるかも”って言ったんだよ!」

 私は思わず微笑んでしまった。
 なんて無理のない、かわいらしい提案だろう。
 そして何より──子どもたちが、自分たちなりに家族のことを考えていることに胸を打たれた。

 菜穂子は驚いたように二人を見つめ、それから小さく息を呑んだ。

「……そんな話、してたの?」
「うん!」
 直人が胸を張る。
 花菜が続ける。
「“アイスの日”って名前つけるの。
 月に一回だけの、特別な日!」

 菜穂子は言葉を失ったまま、二人の頭をなでた。
 その目は少し潤んでいるように見えた。

 私は静かに言った。

「良かったじゃない。無理しなくていい、小さな約束。
 そういうものがね、一番長く続くのよ」

 菜穂子はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「……うん。そうだね。アイスの日、いいね」

 二人は庭に戻っていった。残された居間で、菜穂子と私は顔を見合わせた。

「……あの人、子どもたちと約束してたのね」
 菜穂子が小さく呟く。

「智人さんなりに、考えてくれてるんじゃないかしら」
 私は娘の肩にそっと手を置いた。
「毎週じゃなくても、月に一度の約束事。
 それだけで、子供の心には残るものよ。私もそうだった」

 菜穂子の目に、じんわりと涙が浮かんでいた。

「お母さん……」
「きっと智人さんも、精一杯やろうとしてるのよ。
 ただ疲れてるだけで」

 湯呑みを持つ手に、少し力を込める。

「たとえささやかでも、約束があるということ。
 それが子供にとっては、愛されている証になるの」

 庭では、孫たちの笑い声が響いている。

「そっか……」
 菜穂子が窓の外を見て、小さく笑った。
「毎週じゃなくても、いいのかもね。
 月に一度でも、確かな約束があれば」
「そう。あなたたち親子にとっての、約束ができればいいのよ」

 菜穂子は深く息を吐いて、ようやく穏やかな表情になった。

「ありがとう、お母さん。今夜、智人とちゃんと話してみる」

 私は頷いて、もう一度お茶を注いだ。庭からは、また子供たちの元気な声が聞こえてくる。
 ささやかな約束事は、時を超えて、親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。それは決して大げさなものでなくていい。ただ確かに、そこにあり続けることが大切なのだ。

 秋の午後の陽射しが、居間を優しく照らしていた。

──────

うちも週末家族でお出かけというのはない家庭でした。
私の思い出は、某パーラーのメロンシャーベットです。

11/13/2025, 11:22:37 PM

〈祈りの果て〉

 ニュースをつけると、またどこかで戦争が始まった。
 誰かが死んで、誰かが泣いて、誰かが「正義」を叫んでいる。
 母が小さくつぶやく。「もうやめてほしいね」
 父は何も言わず、ただ画面を見つめている。
 どちらも、何もできないことに気づいているくせに。

 「ねえ、志帆。そろそろ進路のこと、考えなさいよ」
 母の声が、背中越しに聞こえた。
 考えろと言われても、どうせこの世界で何を選んだって、大した違いなんてない。努力しても、真面目に生きても、誰かが戦争を始めて、誰かが死ぬ。
 そんな世界のどこに、希望なんてあるんだろう。
 SNSのタイムラインも、怒りと絶望で埋め尽くされていた。

──どうして、こんな世界に生まれたんだろう。

 部屋に戻った私は、ベッドに寝転び天井のシミを見つめた。
 昨日までは雲の形に見えていたそれも、今日は銃口みたいに見える。

 中学二年の秋。
 文化祭が終わって、クラスの空気もどこか抜け殻みたいになっている。
 私は放課後の教室に残って、ぼんやり窓の外を見ていた。
 夕焼けがオレンジ色に燃えて、鉄棒の影が地面を伸びていく。グラウンドではサッカー部の声が響いていた。

「またひとり?」
 そう言って隣に座ったのは、図書委員の恭子だ。彼女は鞄から本を取り出して、机の上に置く。
 『祈りの果てに』というタイトルが目に入った。

「なんか、すごいタイトルだね」
「うん。戦場の医師の話。最後まで読むと、泣けるよ」
「──祈っても、戦争ってなくならないんじゃない?」
 私の言葉に、恭子は少し黙って、それから言った。
 「それでも祈るのは、自分が人間でいたいから、だと思う」

 その言葉が静かに響いた。
 私はうなずくことも笑うこともできず、ただ彼女の横顔を見つめる。
 夕陽が窓から差し込んで、恭子の髪を赤く染めていた。

 その夜、私は机に向かってノートを開いた。
 勉強なんて手につかないから、代わりに文字を書いた。
──この世界が少しでもやさしくなりますように。
 意味なんてないかもしれない。でも、それでも。

 次の日の朝、空が澄んでいて、風がやけに冷たかった。
 登校途中の神社の前で、私は立ち止まった。
 誰もいない境内。鈴を鳴らすと、音が吸い込まれていく。
 私は両手を合わせて、昨日のノートに書いた言葉を心の中で繰り返した。

──どうか、誰かが誰かを憎まずにすみますように。
──どうか、明日も朝が来ますように。

 祈ることに意味はない。
 でも、何も祈らなければ、もっと何もなくなってしまう気がした。

 帰り道、空き地の草むらに、小さな花が咲いていた。
 その花の名前を私は知らないけれど、それは雑草の中で一輪だけ白く光っていた。
 なぜか「ありがとう」と言いたくなった。


 今日も悲しいニュースがまた流れている。昨日よりも多くの人が死んだ戦いを伝えている。
 私はそっと手を組む。

──祈りは届かない。
──祈りは、世界を変えない。

 でも、私は祈る。
 この無力さの中で、それでも人でありたいから。
 たぶん、それ以上を望んではいけない。祈りの果てに残るのは、希望ではなく覚悟だ。

 私は、明日の朝、もう一度神社で手を合わせるだろう。
 空が、きっと今日と同じように、冷たく澄んでいるとしても。


──────

not宗教。

上手く言葉にできないけど、悲しみと不安に満ちた今の世で生きるには、心の平穏が一番だと思うですよ。
祈りは自分自身のためかもしれません。

祈っただけでは何もならない、欺瞞だのなんだの言われる方もいましょうが、誰かの幸せを願う祈りは未来への灯りとも思います。

11/12/2025, 11:45:33 PM

〈心の迷路〉

 定年を迎えて三ヶ月。
 家の中に、時間が余るというのはこういうことかと、最近ようやく実感している。

 午前の光が差し込むリビングで、コーヒーを飲みながら求人誌を眺める。
 仕事を探しているというより、ただページをめくっているだけだ。
 何をしたいのか、何ができるのか、自分でも分からない。

「また見てるの?」

 妻の声がした。
 とっさに顔を上げると、冷ややかな視線が突き刺さった。
 笑ってごまかしたが、その笑いがどんな意味を持つのか、彼女にはもう見透かされている気がする。

「いや、まだ決めかねていて」
「あなたの好きにすればいいじゃない」

 そう言い残して、妻は庭へ出ていった。小さく閉まるドアの音が、胸に響く。
──この家にいるのに、妻との距離が昔より遠く感じる。

 働いているあいだ、家庭は妻に任せきりだった。
 単身赴任の間も、彼女は不満を言わなかった。いや、言わせなかったのだろう。自分は家族のために働いている、そう信じて疑わなかった。
 けれど今思えば、あれは「逃げ」だったのかもしれない。仕事という名の言い訳に身を置いていれば、心の不安を考えずに済んだからだ。

 窓越しに、庭のバラを剪定する妻の姿が見える。
 細い枝を切る白い手。いつの間にか小さくなった後ろ姿に、彼女が背負ってきた年月を見る。

 俺たちはいつから、こうしてすれ違うようになったのだろう。同じ家にいながら、別々の時間を生きてきた。
「仕事が落ち着いたら」「子どもが大きくなったら」
 そう言い訳しながら、約束の旅も、何度も先送りにしてきた。

 リビングの時計の音だけが響く。
 求人誌を閉じて立ち上がるが、なかなか声が出ない。
──話しかける。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。

「なあ」

 ようやく声を出すと、妻が振り返らずに答えた。

「何」
「もう一度、旅の計画を立てないか。
 あの頃、行きたいって言ってた場所——」

 返事はすぐには返ってこなかった。代わりに、切り取られた枝が小さく地面に落ちる音だけがした。
 次の瞬間、彼女の声が震えていた。

「ずっと私は待っていたのよ。
 でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
 今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」

 言葉が見つからなかった。胸の奥が、締めつけられる。
 彼女の声は怒りではなく、長い年月を積もらせた悲しみそのものだった。

 俺は何をしてきたのか。
「家族のために」という言葉の影で、心の距離を広げてきただけじゃないのか。
 仕事に逃げ、責任を盾にして、愛情を後回しにしてきた。その迷路の出口を、見失ったまま立っている。

 何かを言わなければと思った。けれど、どんな言葉も軽く響くだけだ。
 それでも、口を開いた。

「……旅じゃなくていい。一緒にできることを考えてくれないか。
 庭の手入れとか、そんな小さなことでも」

 彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かに言った。

「じゃあ、草むしりから始めましょうか」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけた気がした。
 たぶん、まだ許されたわけじゃない。
 けれど、迷路の中にも、光が射す瞬間はある。
 そこからまた歩き出せばいい。

 振り返ると、バラの枝越しに見えた妻の横顔が、ほんの少し柔らかかった。
 その表情を、長い間見逃してきたことに気づく。

 風が庭を抜け、バラの花びらが一枚、俺の肩に飛んできた。
 拾い上げると、指先にほのかな香りが残った。

 人生の後半に入っても、人の心は簡単にはわからない。
 けれど、分かろうとすることはできる。それが、迷路を抜けるための最初の一歩なのかもしれない。
 心の迷路は、まだ続く。だがその奥に、もう一度出会える道がある気がした。

──────

以前書いた「旅は続く」の夫側ストーリーです。
妻側か夫側か悩んで、夫側はボツにしてました。

どうしたらいいのかわからない夫さんの扱い、妻さん側も迷うもんですよ……

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