〈君を照らす月〉
駅の改札に立ち、遠ざかっていく背中を見送った。
長年、当たり前のように隣の席にいた彼女が、あと一週間で去っていく。
──
この会社に入社して十五年。
気づけば周りの同期は家庭を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。自分だけが会社という場所に留まり続けているような気がしていた。
六年前、俺はまったく勝手の違う部署に異動した。まとめ役としての役割を期待されていたが、実際には右も左も分からず、不安ばかり抱えていた。
そんな新人同然の俺を、根気強く支えてくれたのが三つ年下の岡部さんだった。
書式の癖や過去の経緯、上層部の好む流れまで、彼女は一つひとつ丁寧に教えてくれた。
会議で資料の順番に迷っていると、何も言わずに必要な紙をそっと差し出してくれる。取引先への気遣いのメールも、俺が気づかないうちにフォローしていてくれた。
彼女のきめ細やかな配慮と段取りのおかげで、部署全体の業務は滞りなく回っていた。
だが、それは業績の数字には表れない。
会議で称賛されるのは成果を出した誰かで、彼女の存在がその成果を支えていることを、ほとんどの人は知らなかった。
それでも彼女は不満を言わず、淡々と仕事を整えていた。
そんな彼女から退職を告げられたとき、胸の奥で何かが静かに砕けた。
母の介護という理由に、周囲は一様に頷いていたが、俺にはそれだけではないように思えた。
十二年という年月は、彼女に多くを背負わせ過ぎてきた。
部署を越え、同性でなければ対応できない指導や、微妙な人間関係の調整など、業務とはかけ離れたものも多かった。
本来なら組織が担うべき役割を、上層部は当たり前のように彼女へ押しつけていたのだ。
会議室で資料を整える彼女の指先が、時折わずかに震えることがあった。
笑顔の奥で疲れを隠そうとしていることに、俺は気づいていた。
けれど誰も口にはしなかったし、彼女もまた、気づかれまいと微笑んでいた。
──
今夜は引き継ぎで遅くなった。会社を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
「今日も遅くなりましたね」
声をかけると、岡部さんは少し驚いたように振り向いた。
「引き継ぎで残業まで、すみません」
「謝ることじゃありませんよ。
僕も把握しておかないといけませんから」
並んで駅へ向かう。ビルの谷間を抜けていく風が、季節の変わり目を告げていた。
雲の切れ間から白い月がのぞいている。
「退職のこと、他の部署には話していなかったんですね」
信号の前で尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「ええ。……まだ口にするのが怖くて。
ギリギリまで黙っていようと思っていました」
その気持ちは分かる。
何かを手放す瞬間は、いつだって不安だ。
「僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えませんでした」
歩く先の信号が赤に変わる。足を停めるとともに、言葉も止まる。
信号の下で、ふたりして夜空を見上げた。
月が街灯より少しだけ強く、けれど刺すようではない光で浮かんでいる。
「……月が、綺麗ですね」
自分の口から漏れた言葉に、少し驚いた。
「ええ。なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」
彼女の声は、変わらず柔らかかった。
青に変わるのを待ちながら、俺は思った。
この十二年間、彼女はどんな思いを抱えてこの道を歩いてきたのだろう。
どんな夜に、どんな月を見上げてきたのだろう。
「……瀬尾さん」
呼ばれて振り向くと、岡部さんが少し照れたように笑った。
「私、この仕事嫌いじゃなかったです」
その言葉の重さが胸に落ちた。
「……知ってます」
それしか言えなかった。
けれど本当はもっと伝えたかった──あなたがいてくれて良かった。あなたの仕事をずっと尊敬していた。そして、これから先の人生も幸せであってほしい、と。
駅の入口で足が止まる。
「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」
彼女が頭を下げる。俺は静かにうなずいた。
彼女が改札へ進んでいく。振り返ったその顔に、軽く手を上げた。
月の光が、彼女の背中をそっと照らしている。
きっと、この光景を忘れない。
月は誰の上にも平等に輝く。
けれど今夜のこの瞬間だけは、彼女の歩き出す道を照らすために輝いているのだと思った。
その光が、これからの彼女の人生を少しでも明るくするようにと祈りながら。
俺は手を下ろし、別の路線へ歩き出した。
月を背に受けながら、自分もまた前へ進まなければならない。
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以前書いた「moonlight」、別視点のお話です。
恋愛ものじゃないんだよなぁと思いつつ、書いたり消したりでした。
その辺の細やかな情緒が描ききれないもどかしさよ……(文章力のせい
11/17/2025, 6:14:01 AM