〈心の迷路〉
定年を迎えて三ヶ月。
家の中に、時間が余るというのはこういうことかと、最近ようやく実感している。
午前の光が差し込むリビングで、コーヒーを飲みながら求人誌を眺める。
仕事を探しているというより、ただページをめくっているだけだ。
何をしたいのか、何ができるのか、自分でも分からない。
「また見てるの?」
妻の声がした。
とっさに顔を上げると、冷ややかな視線が突き刺さった。
笑ってごまかしたが、その笑いがどんな意味を持つのか、彼女にはもう見透かされている気がする。
「いや、まだ決めかねていて」
「あなたの好きにすればいいじゃない」
そう言い残して、妻は庭へ出ていった。小さく閉まるドアの音が、胸に響く。
──この家にいるのに、妻との距離が昔より遠く感じる。
働いているあいだ、家庭は妻に任せきりだった。
単身赴任の間も、彼女は不満を言わなかった。いや、言わせなかったのだろう。自分は家族のために働いている、そう信じて疑わなかった。
けれど今思えば、あれは「逃げ」だったのかもしれない。仕事という名の言い訳に身を置いていれば、心の不安を考えずに済んだからだ。
窓越しに、庭のバラを剪定する妻の姿が見える。
細い枝を切る白い手。いつの間にか小さくなった後ろ姿に、彼女が背負ってきた年月を見る。
俺たちはいつから、こうしてすれ違うようになったのだろう。同じ家にいながら、別々の時間を生きてきた。
「仕事が落ち着いたら」「子どもが大きくなったら」
そう言い訳しながら、約束の旅も、何度も先送りにしてきた。
リビングの時計の音だけが響く。
求人誌を閉じて立ち上がるが、なかなか声が出ない。
──話しかける。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
「なあ」
ようやく声を出すと、妻が振り返らずに答えた。
「何」
「もう一度、旅の計画を立てないか。
あの頃、行きたいって言ってた場所——」
返事はすぐには返ってこなかった。代わりに、切り取られた枝が小さく地面に落ちる音だけがした。
次の瞬間、彼女の声が震えていた。
「ずっと私は待っていたのよ。
でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」
言葉が見つからなかった。胸の奥が、締めつけられる。
彼女の声は怒りではなく、長い年月を積もらせた悲しみそのものだった。
俺は何をしてきたのか。
「家族のために」という言葉の影で、心の距離を広げてきただけじゃないのか。
仕事に逃げ、責任を盾にして、愛情を後回しにしてきた。その迷路の出口を、見失ったまま立っている。
何かを言わなければと思った。けれど、どんな言葉も軽く響くだけだ。
それでも、口を開いた。
「……旅じゃなくていい。一緒にできることを考えてくれないか。
庭の手入れとか、そんな小さなことでも」
彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かに言った。
「じゃあ、草むしりから始めましょうか」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけた気がした。
たぶん、まだ許されたわけじゃない。
けれど、迷路の中にも、光が射す瞬間はある。
そこからまた歩き出せばいい。
振り返ると、バラの枝越しに見えた妻の横顔が、ほんの少し柔らかかった。
その表情を、長い間見逃してきたことに気づく。
風が庭を抜け、バラの花びらが一枚、俺の肩に飛んできた。
拾い上げると、指先にほのかな香りが残った。
人生の後半に入っても、人の心は簡単にはわからない。
けれど、分かろうとすることはできる。それが、迷路を抜けるための最初の一歩なのかもしれない。
心の迷路は、まだ続く。だがその奥に、もう一度出会える道がある気がした。
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以前書いた「旅は続く」の夫側ストーリーです。
妻側か夫側か悩んで、夫側はボツにしてました。
どうしたらいいのかわからない夫さんの扱い、妻さん側も迷うもんですよ……
11/12/2025, 11:45:33 PM