汀月透子

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〈木漏れ日の跡〉

 晩秋の午後、プラタナスの街路樹が作る木漏れ日の中を歩く。
 斜めに差し込む陽射しは、もう夏のように眩しくはない。枝の隙間から漏れる光がアスファルトにゆらゆらと模様を描き、その上を、前を行く親子連れの少女が軽いステップで踏み越えてゆく。
 父親と母親、そして小学生くらいの女の子。三人で何かを話しながら笑っている。女の子が跳ねるように歩くたび、母親が優しく手を引き直す。

──もし違う人生を選んでいたら、私にもこんな光景があったのだろうか。
 ふと、そんなことを考えてしまった。四十二歳の今、私の人生にその選択肢はもうない。いや、正確には、私が選ばなかった道だ。
 でも、そんな「もし」は、秋の光のせいでふいに色を帯びて蘇る。

──

 十五年前。私は亮と結婚を考えていた。大学時代からの付き合いで、趣味も価値観も合っていると思っていた。
 休日は木漏れ日の道を歩いて美術館を巡り、同じ銘柄のコーヒーを気に入る。映画の好みも似ていて、夜遅くまで作品について語り合った。
 当然、結婚も自然な流れとして視野に入れていた。この人と共に歩いていくのだと、本気で信じていた。

 けれど、あの日。
「そろそろ、結婚しようか」
 亮はいつもの穏やかな笑みを浮かべてそう言った。私は嬉しかった。ようやく二人の未来が具体的な形になるのだと。
 でも、続く言葉は予想外だった。

「結婚して子供ができたら、仕事は辞めてもいいよな?」
 唐突なその言葉で、未来は別々のものになった。

 私の仕事は、辞める前提なのか。家庭に入るのが当然なのか。
 当時、私は仕事に就いて四年目。ようやくひとりで任される案件も増え、やりがいを感じ始めていた頃だった。

「君には家で子育てに専念してもらいたい。それが家族のためだと思うんだ」
「母さんもそうだったし、それが一番いい形だと思う」

 亮の母親は専業主婦だった。それは彼女の選択であり、それ自体を否定するつもりはない。
 でも、それを私にも当てはめようとする彼の考え方に、初めて違和感を覚えた。

「家庭はこうあるべき」という固定観念。
 男性が外で働き、女性が家を守る。そういう役割分担が当然だという考えを、亮が譲ることはなかった。
 話し合いを重ねるたび、私たちの間にある溝は深くなっていった。

──結局、私たちは別れた。
 彼は理解できないという顔をしていたが、私も説明することに疲れていた。

 そして後悔したことは一度もない。
 木漏れ日が、また揺れた。

──

 街路樹の先、美術館に入る。好きな画家の回顧展が開かれていると知り、久しぶりに時間を作ってここに来たのだ。
 印象派の繊細な光の表現に見入っていると、背後から声がかかった。

「詠美?」

 振り返ると、そこに亮がいた。

「亮……」

 十五年ぶりの再会だ。少し白髪が混じり、顔に皺も増えたけれど、あの頃の面影は残っている。

「やっぱり君だった。
 君がこの画家を好きだったこと、思い出してね。もしかしたら来ているんじゃないかと思って」

 亮は少し照れたように笑う。
「少し、話さない?」
 彼の左手の薬指には、指輪はなかった。

 美術館のカフェで、私たちは庭が見える席に座る。亮と並ぶのはなんとも居心地がよくない。私は運ばれてきた紅茶に口をつける。

「……二回、結婚したんだけどね」
と亮が言った。
「どちらもダメだった。子供も二人いるけど」

 私は驚いて彼を見た。

「俺の稼ぎだけで十分なはずなのに、二人ともわからないことを言う。
 子供が生まれても仕事を続けたいとか、もっと家事を手伝ってほしいとか──
 子育ては母親がするものだろう? 俺は一生懸命働いて、家族を養っていたのに」

 彼の言葉を聞きながら、私はゆっくりとティーカップを置いた。

「亮、あなたは何も変わっていないのね」

「え?」

「あなたは自分の考えだけを押し付けているのよ。結婚も子育ても、相手を尊重してこそ成り立つものなの。
 お金を稼ぐことだけが夫の役割じゃない。パートナーとして対等に向き合い、一緒に家庭を作っていくという意識がなければ、誰とも上手くいかないわ」

「でも、俺は……」

「あなたは『こうあるべき』という枠に相手をはめようとする。
 でも人はそれぞれ違う。あなたの奥さんたちも、きっと自分の人生を大切にしたかっただけよ」
 私は言葉を区切り、彼の目をまっすぐに見た。
 亮は言葉を失い、ゆっくりコーヒーカップに視線を落とした。

 店内の静けさが、ふたりのあいだの十五年の距離を際立たせる。
 少しの沈黙の後、亮はぽつりと言った。

「……もしあのとき、俺がもっと違う考え方ができていたらさ……
 俺たち、別れずに済んだのかな」

「どうかしらね。
 少なくとも私は“私の人生”を大切にしたかった。それは今も変わらない」
 そう言った後、小さくため息をつく。

「俺たち、もう一度やり直せないかな」
 亮の声には、迷いと期待が入り混じっていた。

 けれど、私は首を横に振った。

「私たちは街路樹みたいなものだと思う」
「街路樹?」
「私たちは、あの街路樹みたいなものよ。
 道を隔てて平行に立っている。根は絡まないし、枝も交わらない。
 その先でも、交わることはないの」

 亮は静かに目を伏せた。
 その横顔は、痛みというより受け入れに近かった。

 私は席を立ち、カフェを出る。亮は呼び止めなかった。
 もう、振り返らなかった。

 街路樹の下をひとり歩く。風が強くなり、枯れた葉がいくつも舞い落ちてくる。季節は冬へと向かっている。
 見上げると、すっかり葉が落ちた枝を透かして夕陽が空を染めている。

「もうあの日の木漏れ日はない」

 そう呟きながら、私は前を向いて歩き続けた。 舗道に残る木漏れ日の記憶を踏みしめながら。
 それは確かに美しかった。でも、もう戻れない過去だ。

 私には私の道がある。それでいいのだと、今なら言える。

11/16/2025, 4:06:16 AM