汀月透子

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〈ささやかな約束〉

 すっかり秋の空気になった土曜日の午後。
 縁側のガラス戸越しに、直人と花菜が庭を駆け回る姿が見える。マンション暮らしの孫たちにとって、この庭は格好の遊び場だ。
 二人とも汗ばんだ顔で、バケツとスコップを手に何やら真剣な表情で穴を掘っている。

「お母さん、これでお茶にしよう」

 娘の菜穂子が洋菓子店の紙袋から焼き菓子を取り出した。
 週末の午後、娘と孫たちが遊びに来るのはもう習慣のようなものだ。

 キッチンで湯を沸かしながら、居間から聞こえてくる菜穂子のため息が気になった。
 庭を走り回る子どもたちの声が窓越しに聞こえてくる。その賑やかさに紛れて、菜穂子はぽつりと口を開いた。

 「……ねえ、お母さん。智人のことなんだけど」

 私は湯飲みにお茶を注ぎながら娘を見た。
 菜穂子は、子どもたちがいないのを確認してから、少し困り顔で言葉を続けた。

「週に一度くらい、一緒に買い物に行きたいんだけどね。
 なんだか最近、夜は遅いし休みの日になるともうぐったりしたみたいに寝てばかりで。家族の時間って、どう作ればいいんだろうって」

「智人さん、仕事忙しいのね」
 娘婿の智人は真面目な人だ。それだけに、仕事の負担も大きいのだろう。

「週に一度でいいから、家族みんなで買い物に行きたいのよ。
 子供たちも、お父さんと一緒に出かけるの楽しみにしてるのに」

 菜穂子の声には疲れが滲んでいた。

「仕事が忙しいのはもちろんわかってる。無理させたいわけじゃないし。
 だけど…何か“家族の時間”ってものがほしいの。子どもたちだって、パパとどこか行きたいって思ってるはずだし」

 娘の声が、少しだけ震えた。
 私はどう返せば良いのか迷った。
「そうね……」

 どう言葉をかけたものか。働き盛りの男性が疲れているのも理解できる。
 でも、娘の気持ちもわかる。子供たちと過ごす時間は、あっという間に過ぎていくものだから。   
 ただ慰めるだけでは足りない。でも、具体的な解決策なんて簡単に思い当たらない。

 ふと、自分の子供時代が頭をよぎった。

──

 父は小さな印刷工場を営んでいた。母も一緒に働いていて、二人とも毎日遅くまで機械の音に囲まれていた。
 休日といえば、父は居間の布団で昼過ぎまで寝ていた。母は溜まった家事に追われていた。友達の家のように、毎週どこかへ出かけることなんてなかった。

 でも。

 月に一度だけは、必ず家族で出かけた。動物園だったり、デパートだったり。
 それが我が家の約束事だった。

 帰り道、駅前のフルーツパーラーへ行く。
 あの店の、ショーケースに並ぶ色とりどりの食品サンプル。
 レモン、オレンジ、メロン、いちご……どれにしようか迷う時間さえ、特別だった。

 冷たいシャーベットが口の中で溶けるたび、私は幸せだと思った。父と母の優しい笑顔。
 三人でテーブルを囲む、あの静かな時間。普段は忙しくて構ってもらえなくても、あのささやかな約束事があったから、私は愛されていると信じることができた。寂しくなかったのだと、大人になってわかった。

──

「菜穂子、あのね……」

 私が口を開きかけたとき、庭から子供たちの声が聞こえた。

「おばあちゃん、のど乾いたー」
「お茶ちょうだい!」

 縁側の戸が勢いよく開いて、直人と花菜が駆け込んできた。二人とも顔を真っ赤にして、息を弾ませている。

「はいはい、今持ってくるわ。手を洗っておいで」

 私は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。二人はそれを一気に飲み干す。

「ねえ、おばあちゃん」と、花菜が言った。「パパ、何時に来るの?」
「パパは今日は来ないでしょう」と菜穂子が答える。
「疲れてるから、お家で休んでるのよ」

 直人がテーブルのお菓子をつまみながら、思い出したように言った。

「そういえばさ、パパとの“アイスの日”って、いつにするの?」

 菜穂子の手がぴたりと止まった。
「……え? なに、それ」

 花菜が口の周りにクッキーの粉砂糖をつけながら続けた。
「この前、パパにお願いしたの。パパ、ちょっと考えてたよ?」

 直人もうなずき、得意げに説明を始めた。

「この前ね、パパが休みの日にずっと寝てたでしょ?
 で、ママがちょっとさみしそうだったからさ。パパに言ったんだよ。
『休みの日に何するか、決めればいいんじゃない?』って」
「そしたらね!」
 花菜が身を乗り出す。
「“月に一度なら、公園のベンチでアイスくらい食べに行けるかも”って言ったんだよ!」

 私は思わず微笑んでしまった。
 なんて無理のない、かわいらしい提案だろう。
 そして何より──子どもたちが、自分たちなりに家族のことを考えていることに胸を打たれた。

 菜穂子は驚いたように二人を見つめ、それから小さく息を呑んだ。

「……そんな話、してたの?」
「うん!」
 直人が胸を張る。
 花菜が続ける。
「“アイスの日”って名前つけるの。
 月に一回だけの、特別な日!」

 菜穂子は言葉を失ったまま、二人の頭をなでた。
 その目は少し潤んでいるように見えた。

 私は静かに言った。

「良かったじゃない。無理しなくていい、小さな約束。
 そういうものがね、一番長く続くのよ」

 菜穂子はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「……うん。そうだね。アイスの日、いいね」

 二人は庭に戻っていった。残された居間で、菜穂子と私は顔を見合わせた。

「……あの人、子どもたちと約束してたのね」
 菜穂子が小さく呟く。

「智人さんなりに、考えてくれてるんじゃないかしら」
 私は娘の肩にそっと手を置いた。
「毎週じゃなくても、月に一度の約束事。
 それだけで、子供の心には残るものよ。私もそうだった」

 菜穂子の目に、じんわりと涙が浮かんでいた。

「お母さん……」
「きっと智人さんも、精一杯やろうとしてるのよ。
 ただ疲れてるだけで」

 湯呑みを持つ手に、少し力を込める。

「たとえささやかでも、約束があるということ。
 それが子供にとっては、愛されている証になるの」

 庭では、孫たちの笑い声が響いている。

「そっか……」
 菜穂子が窓の外を見て、小さく笑った。
「毎週じゃなくても、いいのかもね。
 月に一度でも、確かな約束があれば」
「そう。あなたたち親子にとっての、約束ができればいいのよ」

 菜穂子は深く息を吐いて、ようやく穏やかな表情になった。

「ありがとう、お母さん。今夜、智人とちゃんと話してみる」

 私は頷いて、もう一度お茶を注いだ。庭からは、また子供たちの元気な声が聞こえてくる。
 ささやかな約束事は、時を超えて、親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。それは決して大げさなものでなくていい。ただ確かに、そこにあり続けることが大切なのだ。

 秋の午後の陽射しが、居間を優しく照らしていた。

──────

うちも週末家族でお出かけというのはない家庭でした。
私の思い出は、某パーラーのメロンシャーベットです。

11/15/2025, 7:59:38 AM