汀月透子

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〈夢の断片(かけら)〉

 夫が逝って半年ほど経った頃、私は自分の終活を始めることにした。

 五歳年上だった夫は几帳面な人で、自分の死後の書類や手続きもきちんと整理していた。その姿をそばで見ていたから、私も同じようにしなければと思ったのだ。
 けれど、押し入れの奥から取り出した古いノートを開いた瞬間、私は手を止めた。

 表紙には「レシピ帳」と書かれている。中学生の頃の、少し背伸びした丸文字だ。

 ページをめくると、ショートケーキ、モンブラン、シュークリーム。黄ばんでしまった雑誌の切り抜きの横に、丁寧に書き写したレシピが並んでいる。
 高校生になると、ミルフィーユなど新しめの名前も出てくる。雑誌でしか見たことがないケーキでも、材料や作り方を推測して書いている。
 定番のレシピにも自分なりのアレンジが加わっていた。
「レモンの皮を入れたら爽やかになるかも」
「クリームにラム酒を少し」
──その頃の私の声が、そのまま閉じ込められていた。

 大学ノートに変わったページには、製菓学校の資料請求先がメモされている。その下に、小さな文字で「無理だよね」とあった。


「おばあちゃん、何見てるの?」
 振り返ると、部屋の入り口から孫の由真がのぞき込んでいる。高校二年生の彼女は、スマートフォンを手に私の隣へとやって来た。

「昔のレシピノートを見てたのよ。懐かしくてね」
「すごい……おばあちゃん、こんなにいっぱい」

 由真が珍しそうに古びたページをめくる。

「若い頃はね。ケーキ屋さんになりたかったの」
「え、本当に?
 パパが冗談で言ってたけど、あれ本当だったんだ」

 私は笑って首を振った。

「冗談よ。ただの夢。
 でもね、七歳の誕生日に叔母が都会のお店で生クリームのケーキを買ってきてくれて……
 あの頃はバタークリームが普通だったから、あの味は魔法みたいだったの」

「それで、ケーキ屋さんになりたいって?」

「ええ。でも高校を卒業する頃には家計が厳しくてね。弟たちもいたし……
 製菓学校なんて夢のまた夢だったわ」

 由真はノートを愛おしそうに撫でた。

「でも、おばあちゃんのケーキ、プロ級だよ。
 この前焼いてくれたパウンドケーキ、友達と食べたら“どこのお店の?”って聞かれたくらい」
「お世辞でしょう」
「本当だよ。
 小さい頃からパパがずっと「おばあちゃんはケーキ屋さんだった」って言ってたの、ずっと信じていたもん」

 息子の優しい嘘が、こんなふうに由真の中で育っていたなんて。
 胸が少しあたたかくなった。

 そこへ、買い物から帰ってきた由香さんが紙袋を抱えて入ってきた。

「由真、進路調査のプリント書いたの?」
「まだだよ。そんなに早く決められないって」
「面談までには決めなさいよ」

 由真は、わかってるよとでも言いたげに唇を尖らせた。

「お義母さん、駅前でモンブラン買ってきたので、お茶にしましょう」
「あら、アベなんとかってお店?」
「『アヴェニール ラディユー』ですよ」

 私と由香さんは、よく一緒に新しい店のスイーツを味わっては感想を言い合っていた。
 由香さんは私のお菓子作りをいつも喜んでくれる、気の合う嫁だ。

「これ、栗の風味が濃厚ね」
「本当ですね。でも私、お義母さんのモンブランも大好きですよ」
「栗の初物も出てきたし、作ろうかしら」

 モンブランを見つめていた由真が、ふいに顔を上げた。

「ねえ、おばあちゃん。一緒に動画作ろうよ」
「動画?」
「そのノートのレシピでケーキ作って、動画サイトにあげるの。
 絶対ウケるって」

 由真がスマホでケーキ動画を見せてくれる。画面の中では、様々なケーキがきびきびと作り上げられていく。

「そんな、私なんか……」
「やろう? お願い」
 由真のまっすぐな瞳に押されて、私は小さく頷いていた。


 翌週、撮影を始める。

「はい、じゃあ始めます。ともえです」
「ゆまぴーです!」

 カメラに向かって手を振るなんて初めてで、私は少し恥ずかしかった。

「今日は、昔のレシピノートから、いちごのショートケーキを作ります」

 私はゆっくりとスポンジを焼き、生クリームを泡立てた。手が震えてデコレーションに時間がかかると、由真が笑いながら言う。

「焦らなくて大丈夫だよ。ゆっくりでいいし、失敗しても編集しちゃうから」

 最後に、由香さんがマジパンで作ってくれた“私”と「チャンネル登録してね」のプレートを飾ると、画面越しでも嬉しくなるような一皿になった。

「美味しそう!」

 撮影を終え、由真が親指を立てる。
 私たちは紅茶でささやかな打ち上げをした。

「動画、編集できたよ。アップしていい?」
「え、もう?」
「うん。絶対、みんな喜んでくれるよ」

 数日後、最初の動画は千回再生を超え、コメント欄は優しさでいっぱいになった。

「おばあちゃんの手つきが丁寧で癒されます」
「レシピ、真似して作ってみます!」

 由真は撮影の角度を研究し、BGMを選び、編集の技術をどんどん磨いていった。
 私は、忘れていた記憶を拾い集めるようにレシピ帳をめくり続けた。

 三ヶ月後、チャンネル登録者数は一万人を突破した。
 相変わらず、コメント欄は優しい。
「ともえさんケーキ、どこに行けば食べられますか!w」
「ゆまぴー、ウラヤマシス」
 一つ一つ読むたびに、頬が緩む。

 動画サイトを見ている私の横で、由真がぽつりと呟く。

「私、勉強したいことが見えてきた気がする」
「えっ?」
「フードコーディネーターっていうのかな。
 それだけ目指すのも難しいけどさ」

 由真は、色んな学校の資料をテーブルの上に並べる。

「ケーキをどう撮るか、どう見せるかを考えるの、すっごく楽しくて……
 最初はただバズらせたいだけだったけど、色々研究するうちにやりたいことが見えてきたっていうか」

 私は驚きながらも、胸の奥が熱くなった。

「おばあちゃんが夢を完全には捨ててなかったから、私も気づけたの。
 ありがとう」
 照れながら笑う由真の瞳は、未来に向けて輝いていた。

 画面の向こうで、誰かが私のレシピで笑顔になっている。
 私はケーキ屋にはならなかった。けれど、私の夢のかけらが由真の道しるべになり、ケーキで誰かを幸せにできた──
 それは、七歳の私が思い描いた夢よりも、ずっと大きな幸せだった。

 世の中は、新しいケーキが増え続けている。私もまた、新しくレシピノートを作ろう。
 ノートの最初のページに、私は万年筆を走らせた。
「夢は、かけらのままでも光を放つことができる」

──────

またおばあちゃんと孫です。同居してお嫁さんと仲がいいシリーズです。
ファンタジー()でいいの、私が読みたいんだから(

つーか、こういうの書くとケーキ食べたくなるのよねぇ……

11/22/2025, 4:22:00 AM