〈君の隠した鍵〉
結婚式を三か月後に控えた春のある日、私は母の恵美子と婚姻届を囲んでいた。
証人欄の名前を書かずにいる私に、母がふと尋ねる。
「恵夢(えむ)、証人って誰に頼むの?」
「……めぐちゃんがいい。
ずっと相談に乗ってもらってたし」
ペンを置き、私は息をつく。
「めぐちゃん、退院いつかな……
式には出席してほしいんだけど」
私がそう言った瞬間、母の表情がわずかに強張った。
その表情に何かいやな気配がして、私も息を呑む。
「めぐみ……
もう、先が長くないのよ」
「……え?」
母か苦しそうに目を伏せる。
「ずっと隠していたけれどね……
あなたが悲しむと思って言えなかった」
その言葉が耳の奥で何度も反響した。
めぐみ姉さんが、先が長くない。
私は震える手を膝の上に置いた。
──会わなきゃ。
会って、伝えなきゃ。
──
めぐみ姉さんは、私が物心つく前から姉のように接してくれていた。
ずっと「めぐちゃん」って呼んでいた、十六歳年上の従姉。だけど、歳の差なんて関係ないくらい近かった。
幼い頃、私はよく名前をからかわれた。女の子の友だちは「えむちゃん」とかわいく呼んでくれるけど、男子は「えむってヘンな名前」「Mサイズのえむ~」なんてふざけて呼ぶ。
「どうしたの、恵夢ちゃん」
泣いて帰った私を、遊びに来ていためぐみ姉さんは膝に抱き上げてくれた。
「名前がヘンだって言われたぁ……」と泣きながら訴えると、彼女は私を抱きしめて、カバンからメモ帳とペンを取り出した。
「見て。えむちゃんの『恵夢』って、こう書くでしょう」
大きく、丁寧に二つの漢字を書いた。
「“すてきな夢に恵まれるように”ってお名前でしょ?
とっても素敵だと思うよ」
めぐみ姉さんは、私の頭をなでながら言う。
「……ほんとに?」
「うん。ね、恵美子おばさんも“恵”って字が入ってるでしょ?」
母もその場にいて、笑いながら言った。
「私の“恵美子”の“恵”ね。めぐちゃんの“恵”と同じ漢字よ」
「めぐちゃんと一緒?」
私が顔を上げると、めぐみ姉さんは嬉しそうに頷いた。
「そう。一緒だよ」
めぐみ姉さんは、三人の名前を並べて書く。
──恵夢。恵美子。恵。
そのとき胸に広がった温かさを、優しげなめぐみ姉さんのまなざしを、今でも覚えている。
ほんの一瞬、何か言いたげな光が宿ったことも。
母が仕事で忙しい時は、めぐみ姉さんが私を預かってくれた。
めぐみ姉さんの家で一緒にご飯を作って食べ、一緒にお風呂に入り、一緒に眠った。
休日には映画館や動物園に行き、ちょっと高いパフェを食べさせてくれたのもめぐみ姉さんだ。
私は、中学、高校、大学……恋愛のことも進路のことも、誰より先にめぐみ姉さんに話した。
年の差なんて気にならないほど、彼女は私の人生の波長にいつもぴたりとはまる存在だった。
──
私が自分の生まれに疑問を抱くきっかけは、高校二年の冬だった。
親戚が集まった母方の法事の席のこと。
めぐみ姉さんと二人で、手伝いから戻ろうと廊下を歩いていたときに、その会話が聞こえてきた。
「恵美子さん、もう体はいいの?
あの頃は大変だったのよね、子宮を取っちゃうほどの大病をして……もう20年近くになるの?」
「いやもう大分前のことですから」という母の声を遮るように会話が続く。
「それでもね、あの子を立派に育ててる。
生さぬ仲なのに、愛情は本物よ」
私の足はそこで止まった。
母は子供を産めない体になった?
20年前?
生さぬ仲って誰のこと?
“あの子”という言葉が、頭の中に反響している。
固まっている私の横で、めぐみ姉さんはわざと大きな音を立てて障子を開けた。
「失礼しまーす、片づけるものまだあります?」
にこやかにしているが、目は笑っていない。
親戚のおばさん達が一気に静かになる中、めぐみ姉さんは手早くテーブルの上を片付けていく。
私も黙ってテーブルをふきながら、さっき聞こえてきた言葉を反芻していた。
その日の集合写真を後で見たとき、私は愕然とした。
めぐみ姉さんと並んで写っている私。目元、頬の線、笑ったときの表情。
──あまりにも似すぎている。
父や母と私は似ていない。
なら私は誰の──
疑問は、消えないどころか膨らんでいった。
──
大学に入ってから、私は図書館で“特別養子縁組”の項目を読んだ。
出生から六歳未満。
戸籍上、実子と同じ。
親子の法的なつながり以外は、すべて新しい家族として再構築される。
ページをめくる手が止まり、私はゆっくり息を吸った。
──私、そうなんだ。
その確信は不思議と冷静で、痛みでも怒りでもなかった。
ただ、ひとつの鍵が音を立ててはまった感覚だけがあった。
私の名は、めぐみ姉さんが名付けたのではないか。「恵の夢」──めぐみ姉さんの夢。
めぐみ姉さんは結婚しなかった。恋愛の話も聞いたことがない。
ときどき、私を見つめる眼差しに、言葉にできない何かが宿っているように感じた。愛情、そして少しの寂しさ。
でも、答え合わせをしようとは思わなかった。聞いたら壊れてしまう気がした。
私と母とめぐみ姉さんの関係が。
だから胸の奥にそっと鍵をしまい、大学生活を過ごし、恋をし、二十四歳になった。
──
それから、私は仕事や式の準備の合間に、こまめにめぐみ姉さんを見舞った。
めぐみ姉さんは痩せていたけれど、相変わらず穏やかな目をしていた。
「恵夢ちゃん……」
そっと体を起こす。日に日に、細くなっていくのがわかる。
「……前撮り写真できたんだ。めぐちゃんに、一番に見せたかった」
婚約者の雅人に事情を話して、急いで撮影したウェディング写真。
少し写真の表情は硬かったけど、めぐみ姉さんはどれも嬉しそうに眺めている。
「ふふ……本番はもっときれいよね」
そう笑う顔はどこか懐かしくて、胸が締めつけられる。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
──
めぐみ姉さんの容態は日に日に悪化した。意識が朦朧とする時間が増えていった。
そして今日、伯母─めぐみ姉さんの母から「今日が峠かも」と連絡が入った。
病室に駆けつけると、めぐみ姉さんは目を閉じていた。呼吸は浅く、不規則だった。母や伯母も駆けつけていた。みんな泣いていた。
私はベッドに近づき、めぐみ姉さんの手を握る。すると、めぐみ姉さんがゆっくりと目を開け、焦点の定まらない目が私を探すように動いた。
「えむ……?」
「ここにいるよ」
私はめぐみ姉さんの耳元に顔を近づけた。もう時間がない。そう直感した。
私は小さく、でもはっきりと囁いた。
「……ねえ、めぐちゃん」
言葉が震える。
「ずっと、言いたかったんだ……ありがとう」
それでも足りない。
二十四年間、隠してくれた鍵。でも、その鍵はずっとそこにあった。「恵夢」という名前に。
あの日、紙に書いてくれた「恵」の文字に。そっくりな容姿に。特別な愛情に。
胸の奥にしまってきた鍵が、もう扉を開けたがっている。
「……お母さん」
めぐみ姉さんの目が、一瞬大きく開いた。そして、これまで見たことのないほど穏やかな、満ち足りた表情が浮かんだ。
──ああ、この人は、この言葉をずっと待っていてくれたんだ。
唇が微かに動いた。声にはならなかったけれど、その形は「ありがとう」と言っているようだった。
めぐみ姉さんは私の手をぎゅっと握り返し、静かに目を閉じる。
永遠にも思えた時間、私はその力が少しずつ消えていくのを感じていた。
心音モニターの音が一定のトーンに変わった。
医師が臨終を告げる声も、はるか遠くに聞こえる。
私はめぐみ姉さんの手を握ったまま、しばらく動けなかった。
──
母がそっと肩に手を置いた。私は振り返り、母の目を見た。
母は何も言わない。けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
──私はこれからも、あなたの母でいる。と。
私もまた、言葉にはしなかった。
鍵は開けないままでいい。
胸の奥でそっと光るその鍵は、これから先も私を導き続けてくれる。
この胸の奥にしまっておけば、きっとめぐみ姉さんはこれからも私の中で生き続ける。
結婚しても、子どもを授かっても、私はきっとあの人の面影を探してしまうだろう。
だけど、それでいい。
めぐみ姉さんが夢見た人生を、私はこれから歩いていく。
そしていつか、私にも子どもが生まれたら──名前に“恵”の字を入れよう。
その子が幸せな夢を見られるように。
めぐみ姉さんが私につけてくれた“鍵”は、今、私の胸の奥で静かに光っている。
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前日の分を夜中にこっそり貼り付けます(
短編のつもりが、何故いつも長くなるんですかねぇ……
このお話を考えるうちに、めぐみさん視点・恵美子さん視点だとどうなる?と思考がとっちらかります。
3部構成……何かの機会に書こうかしらねぇ。
11/25/2025, 8:01:54 AM