汀月透子

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11/7/2025, 3:52:41 AM

〈冬支度〉

 夫が玄関で「行ってくる」と声をかけ、娘と息子を連れて公園へ出かけた。
 ここ二週間、週末にずっと天気が悪かった。雨の日曜日に、娘が窓に張り付いて「晴れないかなあ」と呟いていたのを思い出す。子供たちは外に出られずストレスを溜めていた。

 今日はようやく晴れた。こんな日にやらずして、いつやるのか。私の年中行事、冬支度だ。
 「俺もやるよ」と夫は言ってたけれど、5歳と1歳を連れて公園へ出かけてもらった。晴れ間が嬉しくて、子どもたちは大喜びだ。
 家は静まり返り、ひとりの作業に没頭できる。
 私は深く息を吸った。よし、始めよう。まずは二階から。

 まず毛布をベランダに広げる。秋特有の透明な光は夏に比べたら弱ったものだが、湿度が低くて爽やかに晴れている。
 冬用の布団カバーやシーツも朝一番に洗濯し、干してある。家族の分全部だと物干し竿のほとんどを占領するから、通常の洗濯にも苦労する。

 厚手の羽毛布団を押し入れから引っ張り出す。去年少し背伸びして買ったもの。これがあると冬が来るのが嬉しい。
 季節の変わり目に、小さなご褒美がひとつあると、家事も儀式めく。

 子ども部屋に入り、娘のタンスを開ける。去年の冬物は明らかに丈が足りない。
 息子用は、お下がりを混ぜてもまだ足りないから、新たに買うようだ。
 成長って、この瞬間やけに可視化される。タンスの中身を入れ替えつつ、姉の子供のおさがりは今年ももらえるかしら?と思わず皮算用してしまう。
 サイズアウトした服をまとめ、空気清浄機をかける。とりあえず、子供服はおしまい。

 腕が悲鳴を上げ始めた頃、リビングで一休み。朝のコーヒーがそのまま残っている。
 カップを持ちながらしばし休憩。遠くから子供たちの歓声が聞こえる気がする。どこの家も、今日は外遊びなんだろう。
 娘もきっと、久しぶりに思いきり走り回っている。息子は転んでは立ち、また転んで──その相手をしている夫の姿を想像すると、感謝と申し訳なさが混ざる。

 毛布を軽くはたいて取り込むと、途端にくしゃみ。子供部屋から空気清浄機を移動して、最強モードで稼動させる。
 家族分の布団カバーをつけかえるだけで汗だくた。着ていた長袖が暑くてTシャツ1枚になる。
 そういえば、実家では気づけば冬物が出してあった。母がいつもひとりでやっていたのだろう、今さらありがたみを感じる。

 玄関のマットを厚手に替える。これが終わると、私は毎年「よし」と声に出す。
 今年も言った。小さな達成感。

 ちょうどその時、玄関がガラッと開いた。

「ママ、肉まん売ってたよー!」

 娘が両手で袋を持ってる。頬はりんごみたいに赤い。夫が苦笑いで靴を脱ぎ、腕の中の息子はすでに眠そうに目をこすっている。

 ああ、いよいよ冬が来るのだ。
 私は笑って、袋を受け取りながら言う。

「じゃあココアも作ろうか」

 夏をしまい、家族の時間をひとつ重ねた。
 それを確かめるのが、私の冬支度だ。

──────
淡々と語句を並べていくのはネタがない証拠です(

うちはまだ衣替えが中途半端です……
冬がーはーじまるよー

11/6/2025, 12:42:09 AM

〈時を止めて〉

「おばあちゃん、チャンネル変えていい?
 昭和歌謡特集だって」
 中学生の孫が問いかけてくる。

「いいよ、好きなのかけな」
 このところ、昭和レトロとかで孫世代では古い歌謡曲がブームになっているらしい。
 娘も「やだ懐かしい~」とアイドルの曲を一緒になって口ずさんでいる。

 やがて、さらに古い歌が流れ始める。娘にもわからないだろう、私が中学生の頃に流行った曲だ。
 その歌手はもうだいぶ前に亡くなって久しい。当時はテレビなどなく、ラジオから流れるのを聴いて覚えたものだ。
 こうして当時の歌ってる姿をテレビで見るのは、最近になってからかもしれない。

─行かないでと、願ったのに─

 その歌詞に、時を引き戻される。私は十五のあの春を思い出していた。

──

 三月の午後。山の風はまだ冷たく、吐く息が白い。
 道端の雪は黒ずみながらもしつこく残っていて、陽射しの中でもなかなか溶けようとしなかった。

 うちの店──バスの停留所前にある小さな雑貨屋の軒先には、雪解けの水が滴っていた。
 店を手伝う合間に、私はバスの時刻表を何度も見上げた。
 今日は綾子が東京へ行く日だった。

 綾子の集団就職の話を聞いたとき、頭の中でがらがらと何かが壊れるような音がした。うれしいのか、寂しいのか、自分でもわからなかった。
 村の子が外に出ることは滅多にない。特に女の子なら、家の手伝いをして、いずれ誰かの家に嫁ぐのが当たり前。
 でも綾子は違った。
 親を早くに亡くしたあの子は、いつも空の向こうを見ていた。村の風景のどこにも収まりきらないような目をしていた。

 出発の日、私は店を母に任せて、川沿いの停留所へ先に立っていた。綾子に渡そうと、駄菓子をいくつかこっそりと持ってきた。
 風は冷たかったけれど、川面はゆるやかに光っている。
 綾子が坂を下りてくるのが見えたとき、胸が痛くなった。
 薄いコートの裾が揺れて、鞄を握る手が少し震えているのが見えた。

 駄菓子を綾子の鞄に入れながら、私は聞いた。
「……綾子、東京は遠い?」
 そう問いかけながら、すでに答えは知っていた。遠いに決まっている。私の手が届かないほどに。

「どうだろう。すごく遠い気がしてる」
 綾子の声は静かだったけれど、その奥に光る希望の粒を私は見逃さなかった。
 ここにひとりでいても先が見えない、綾子が希望を持って旅立つのはうれしい。
──けれど、どうしようもなく寂しい。胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 マフラーを口元まで上げながら、私はつぶやいた。
「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」

 綾子は黙って、道端の雪を指でなぞった。
「溶けないと、春にならないのかな」
 そう言った声は、私自身の心の底から漏れたような気がした。

 坂の上からバスの音が聞こえる。
 綾子に何か言わなきゃと、気が急く。
 なのに口から出た言葉は、たった一つだった。

「行かないで……綾子」

 泣きたくなんてなかったのに、涙は勝手に流れた。
 綾子は驚いたように目を見開いたけれど、何も言わずに、バスに乗り込んだ。
 ドアが閉まり、エンジンがうなる。
 私は咄嗟に手を伸ばしたけれど、もう遅かった。

「綾ぁ……」
 声は風に、エンジン音に、かき消された。
 バスが角を曲がり、姿が見えなくなる。

─行かないでと、願ったのに─
 あの曲が店先のラジオから流れてくる。
 空から落ちてきた雪の粒が、頬に触れて溶けた。

──

 綾子が上京して、三年ほど経ったころ。
 父が人に騙されて借金を背負った。保証人になっただけのつもりだったのに、夜のうちに家財をまとめて逃げるしかなかった。
 停留所の前の雑貨屋は、もう誰もいない。
 バタバタと看板が風に鳴るのを、私は背中で聞いた。

 行き先を綾子に知らせたくて、何度も手紙を書いた。
 けれど、宛先の東京の会社名を何度書き直しても、封筒の口を閉じられなかった。
 何度も転居したのもあるが、「こんな自分を見せたくない」と思った。
 だから、その手紙は出せないまま、古いトランクの底に眠っている。

──

 今、私は故郷から遠く離れた別の地方で暮らしている。
 住み込みで働いた先で夫と出会い、結婚して子どもも孫もできて、苦労もしたけどそれなりに幸せに生きている。

 春になると、どうしても山の匂いが懐かしくなる。
 日差しは温かくても、つんと鼻の奥に冷たさを感じる季節。
 あの日、川沿いで水切りをして、笑い転げた午後。
 その笑顔を思い出すたびに、時間がふっと止まる。
──あの瞬間だけは、そのままでいてほしい。
 そう願う気持ちが、私を支えてきたのかもしれない。

 雪が溶けて春が来ても、私の中の「十五の春」は、まだ残っている。
 時を止めたまま、あの停留所の片隅で、静かに光っている。

──────

「行かないでと、願ったのに」のB面ストーリーです。
孫が「うちのばあちゃんこの曲好きなんだ」とかSNSで書き込んで、そこからつながって再会……とかできたらまた面白そう。

11/5/2025, 3:50:00 AM

〈キンモクセイ〉

 夕方の帰り道、空気の温度が一段さがってきた。
 私は買い物袋を提げて歩きながら、その香りに気づいた。キンモクセイだ。
 見上げると、隣家の庭から枝を伸ばした木に、小さなオレンジ色の花が無数に咲いている。そして足元には、昨夜の雨に打たれて落ちたのだろう、誰かがまき散らした砂糖菓子みたいに、花が点々と落ちていた。

 足元に散らばる小さな花を見つめながら、私は深くため息をつく。

 昨夜もまた、息子の翔太と口論になった。夜十時を過ぎてもスマホをいじっているから、勉強のことを注意した。それだけのはずなのに。
 それなのに、「うるさい」「放っといてくれ」と扉を閉められた。
 夫は単身赴任中で、相談する相手もいない。四十三歳の私には、反抗期真っ只中の息子との向き合い方が分からなかった。

 グループLINEでママ友たちは、受験の話、部活の話、塾の話、次々に書いている。
「うちは部屋に閉じこもりっぱなし」
「話しかけると怒鳴られる」
 反抗期なのはどこも同じらしい。

 玄関でドアを開けようとすると、学校帰りの翔太が制服姿で歩いてくる。ヘッドホンをつけて、私には気づいていない様子だった。

「おかえり」

 声をかけると、翔太は顔を上げた。いつもの無表情。

「……ただいま」

 ぶっきらぼうに答えて、翔太は私の横を通り過ぎようとする。でも、その制服の肩のあたりに、オレンジ色の小さな花がいくつかついているのが見えた。キンモクセイだ。帰り道、あの木の下を通ってきたのだろう。
 私は思わず声をかけていた。

「翔太、制服に花がついてるよ」
「え?」

 翔太は立ち止まり、自分の肩を見た。そして、少し照れくさそうに花を払おうとする。

 その仕草を見て、私の中で何かが弾けた。

 あれは翔太が三歳ぐらいの頃だっただろうか。
 今日と同じような秋の日、この道を通りかかった幼い翔太が、落ちているキンモクセイの花に目を輝かせたのだ。

「ママ、見て! きれいなお花!」

 小さな手で花を一つつまんで、私に見せてくれた。「いいにおい!」と言って、何度も何度も嗅いでいた。そして自分の服のポケットに、大事そうに花を入れた。家に帰ってからも、ポケットから花を出しては眺めて、満足そうに笑っていた。

 あの笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。

 イヤイヤ期の翔太に振り回され、食事も遊びも思い通りにいかない日々。
 夫は仕事で忙しく、実家も遠い。一人で抱え込んで、「私は母親失格なんじゃないか」と泣いた夜もあった。
 公園で翔太が走り回るのを見ながら、疲れ果てて、「いつまでこんな日々が続くんだろう」と途方に暮れていた。

 今また、私は同じように途方に暮れている。

「……なに、じっと見てんの」

 翔太の声に我に返った。息子は不思議そうな顔で私を見ている。

「ううん、何でもない」

 そう答えて、私はドアを開ける。翔太は黙って靴を脱ぎ、二階へ上がろうとした。

「翔太」

 私は思わず呼び止めていた。翔太が階段の途中で振り返る。

「今日、ハンバーグにしようと思うんだけど」

 翔太の好物だ。息子の顔が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

「……うん」

 それだけ言って、翔太は部屋に入っていった。

 私はキッチンに立ち、買ってきた材料を出し始めた。窓を開けると、外からキンモクセイの香りが流れ込んでくる。

 翔太は今、自分の世界を築こうとしている。親から離れて、自分の足で立とうともがいている。それは成長の証なのだと、頭では分かっている。でも、心がついていかない。

 形は変わっても、息子は息子なのだ。

 あの頃の悩みも、今の悩みも、きっと母親になれば誰もが通る道なのだろう。花は散っても、また来年咲く。子育ても同じだ。悩みは尽きないけれど、季節は巡り、子どもは育つ。

 ハンバーグのたねをこねながら、私は小さく微笑んだ。翔太の制服についていた花。あれを払う時の、少し照れた表情。まだあどけなさの残る横顔。

 きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせた。

 夕方、階段を降りてきた翔太が、リビングに入ってきた。

「いいにおい」

 ぼそっと呟いた声が聞こえた。ハンバーグのことを言っているのか、それとも窓から入ってくるキンモクセイのことを言っているのか、私には分からなかった。

「もうすぐできるから、手を洗ってきて」
「うん」

 翔太は素直に洗面所へ向かった。

 その後ろ姿を見送りながら、私の胸の奥が少し軽くなった。
 今日はこれでいい。明日はまた、明日の悩みがあるだろう。でも今は、この小さな変化を喜びたい。

 窓の外から、キンモクセイの香りが優しく流れ込んでくる。
 私は静かに、深呼吸をした。

──────

キンモクセイ、枝を梳かないと木全体がものすごいことになるんですよねぇ。我が家のキンモクセイは蔦も絡まっちゃって全然咲きません……

11/4/2025, 3:54:04 AM

〈行かないでと、願ったのに〉

 三月の夕方、冷たい雨上がり。東京の空気は春の匂いをはらんでいるのに、吸い込んだ冷たさに山の冷気が戻ってくる。
 スーパーで買い物かごを押していたら、天井のスピーカーから古い歌謡曲が流れてきた。
 タイトルは思い出せない。けれど、サビのひと節だけ、印象に残っている。
“行かないでと、願ったのに”
 その部分で、私は立ち止まってしまう。

──

 十五の春の手前。集団就職で東京の会社の枠に受かった私は、中学卒業後すぐ上京することが決まっていた。
 両親はもうすでに亡い。育ててくれた親戚は、悪い人というわけでもなかったが、分家の小娘ひとり親身になって育てる義理はないのだろう。
 いずれはどこかの農家に嫁がされる。ここで暮らし、見てきてわかったことだ。
 だから、東京へ行けるというのは、私にとって救いの手だった。

 卒業式も終わり、出発の日。
 見送りもなく、私は小さな旅行鞄に最低限の荷物を詰め込んでバス停まで歩く。
 昼間は春めいていても、山の影には、黒くなった雪がずっと残っていた。溶けきらない雪の塊は、冬から離れがたいのか、砂利を抱えたまま道端に貼りついている。

 多江が川沿いの停留所で待っていた。彼女もまた、十五だった。
 残ることが決まっている人の顔、という言い方があるなら、あのときの多江の横顔は、それに近かった。家のこと、親戚のしきたり、そういうものに守られずに、逆に縛られていた。

「綾子、東京は遠い?」
「どうだろう。すごく遠い気がしてる」

 手袋はしないで来た。指先に冷たい風が刺さった。多江は長いマフラーを口元まで上げて、声をくぐもらせた。

「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」
 多江は視線を落とした。私は答えられず、道端の残雪を指先で少しだけ触った。
 多江の声はますますくぐもる。
「溶けないと、春にならないのかな」

 バスのエンジン音が坂の上から聞こえる。近づいてくる気配だけが先に届く。
 多江は、絞り出すような声で言った。

「行かないで……綾子」

 涙がにじんで、声に重さがあった。私は驚いた。
 だって、あのときの私は喜びと希望しか持っていなかったのだ。この閉鎖的な環境で出口を手に入れたこと、それだけだった。自分だけ。

『多江も……一緒に行こう』

 心の中でそう思った。けれど、声にはならなかった。
 親身になる人がいない私に許されたのは、ここから出ていくことだけ。
 多江に許されたのは、ここに残ることだけ。それ以外が、存在していないみたいだった。
 十五歳は、残酷なほど選択肢がない。

 多江の泣き顔に、別れの言葉が出なかった。どうしたらいいんだろう。考えあぐねているうちに、バスのドアが閉まる。

 多江を残し、バスは走り始める。
「綾ぁ……」
 多江の声はエンジンの音にかき消されて聞こえない。
 そのまま、多江の姿が遠ざかる。私は声も上げられず、バスの座席で泣くだけだった。

──

 “行かないでと、願ったのに”

 歌のその部分だけが、刺さる。今も。

 買い物袋は軽かった。バスの窓に映った私は総白髪だ。
 十五で故郷を出てきて六十年以上同じ東京で生き続け、ここまで歳を重ねたなんて、たまに信じられなくなる。

 育ててくれた親戚が亡くなって以来、故郷には帰っていない。
 多江の消息も知らない。探そうと思えばできるのかもしれない。でも、まず返すべき言葉が思いつかなかった。
「あれからどうですか」なんて言ったら、十五の私が泣いてしまう。

 でも今夜は、歌の余韻のままに、ひとつだけ許されたい。あの停留所の脇に残っていた残雪の冷たさを、もう一度だけ思い出したい。
 それが、あの町の、最後の冬の温度だった。

──────

だらだら書いてもなぁということでここまで。もっとエピソード盛り込みたい気もしますけど。
後でこっそり更新するかもしれません。

11/2/2025, 3:50:30 PM

〈秘密の標本〉

「父さん、元気?」
 電話口から娘の声が聞こえる。

「週末、時間あるか。少し話したいことがあるんだ」
「うん、大丈夫。土曜の午後なら行けるよ。どうしたの?」
「いや、大したことじゃない。顔を見たくなっただけだ」

 娘は少し笑って、わかったと言った。電話を切ると、私は書斎の棚を見上げた。
 そこには背表紙に年号だけが記された黒いノートが、五十三冊並んでいる。「秘密の標本」とも呼ぶべきコレクションだ。

 医師から余命を告げられた日から、私はこのノートたちの処分について考え続けている。

──

 最初の一冊は、大学時代に始まった。親友が酔った勢いで漏らした告白──好きな女性の名前、抱えていた借金、父親への憎しみ。
 翌朝、彼はきっと忘れているだろう。でも私は忘れられなかった。だからノートに書き留めた。それが始まりだった。

 教師として三十年。隣人として、友人として、私は人々の秘密を「聞いてしまった」。
 職員室での同僚の愚痴、保護者面談での家族の事情、喫茶店で偶然耳にした他人の会話。
 人は私に秘密を打ち明けたがった。

 ノートには日付とイニシャル、そして秘密が几帳面に記録されている。
 それは私なりの「人間理解」だった。秘密を知ることで、人の本質が見えると信じていた。

──

 しかし今、これらをどうすべきか。

 燃やすべきだろうか。だがこれは私の人生そのものでもある。
 誰かに託すべきか。それは秘密の裏切りになる。

 迷いながら、私は一冊のノートを手に取った。一九九五年と書かれている。
 ページを繰っていくと、妻のイニシャルが目に入った。

「M.T.は言った──
 あなたは人の秘密ばかり集めて、自分のことは何も話してくれない。私はあなたの妻なのに、あなたを知らない」

 指が震えた。これは秘密ではなかった。妻の訴えだった。
 なのに私は、それを一つの「標本」として記録し、理解した気になっていた。そして何も変わらなかった。

 あの夜の台所の光景が蘇る。

「ねえ、あなた。人の話ばかり覚えてるけど、私のことは覚えてる?」
「覚えてるよ。そんなことしつこく言うな」
「覚えてるって言うけどね、私には“あなた自身”が見えないの」

 妻はそう言って、少し笑った。
 私にはその笑顔の意味が分からなかった。いや、分かろうとしなかったのだろう。

 妻は五年前に亡くなった。最期まで、私は自分を見せることができなかった。

 私は最後の一冊、二〇二五年と記された新しいノートを開いた。白いページに初めて「自分自身の秘密」を書く。

「私は人を愛する方法を知らなかった。
 秘密を集めることで人に近づいた気がしていたが、それは一方的な覗き見だった。
 私自身は、誰にも触れられない場所で標本を眺めていただけだ」

 深く息をついてペンを置き、私はすべてのノートを庭に持ち出した。

 火種を入れた焼却炉に、ノートを一冊一冊投げ込む。ノートは、ゆっくりと炎に包まれていく。
 人々の秘密が、煙となって消えていく。

 五十二冊まで投げ込んだ後、ただ一冊、最後のノートだけは残した。

──

「明日行くけど、何か必要なものない? 買い物してから向かうよ」
「ああ、そうだな。牛乳が切れていたかもしれない」
「わかった。他には?」
「いや、それだけで十分だ」

 明日、娘が来たときにこのノートを渡そう。私の唯一の、本当の標本として。

 秘密のコレクションは終わる。初めて、誰かに自分を見せることができる。
 遅すぎたかもしれないが、それでも。

──────

この話を考えていて、妻視点や娘視点で書いても面白そうだなと思いました。
「秘密」が標本なのか、標本が秘密なのか、どちらに軸を置いてみてもいいかもしれません。

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