〈キンモクセイ〉
夕方の帰り道、空気の温度が一段さがってきた。
私は買い物袋を提げて歩きながら、その香りに気づいた。キンモクセイだ。
見上げると、隣家の庭から枝を伸ばした木に、小さなオレンジ色の花が無数に咲いている。そして足元には、昨夜の雨に打たれて落ちたのだろう、誰かがまき散らした砂糖菓子みたいに、花が点々と落ちていた。
足元に散らばる小さな花を見つめながら、私は深くため息をつく。
昨夜もまた、息子の翔太と口論になった。夜十時を過ぎてもスマホをいじっているから、勉強のことを注意した。それだけのはずなのに。
それなのに、「うるさい」「放っといてくれ」と扉を閉められた。
夫は単身赴任中で、相談する相手もいない。四十三歳の私には、反抗期真っ只中の息子との向き合い方が分からなかった。
グループLINEでママ友たちは、受験の話、部活の話、塾の話、次々に書いている。
「うちは部屋に閉じこもりっぱなし」
「話しかけると怒鳴られる」
反抗期なのはどこも同じらしい。
玄関でドアを開けようとすると、学校帰りの翔太が制服姿で歩いてくる。ヘッドホンをつけて、私には気づいていない様子だった。
「おかえり」
声をかけると、翔太は顔を上げた。いつもの無表情。
「……ただいま」
ぶっきらぼうに答えて、翔太は私の横を通り過ぎようとする。でも、その制服の肩のあたりに、オレンジ色の小さな花がいくつかついているのが見えた。キンモクセイだ。帰り道、あの木の下を通ってきたのだろう。
私は思わず声をかけていた。
「翔太、制服に花がついてるよ」
「え?」
翔太は立ち止まり、自分の肩を見た。そして、少し照れくさそうに花を払おうとする。
その仕草を見て、私の中で何かが弾けた。
あれは翔太が三歳ぐらいの頃だっただろうか。
今日と同じような秋の日、この道を通りかかった幼い翔太が、落ちているキンモクセイの花に目を輝かせたのだ。
「ママ、見て! きれいなお花!」
小さな手で花を一つつまんで、私に見せてくれた。「いいにおい!」と言って、何度も何度も嗅いでいた。そして自分の服のポケットに、大事そうに花を入れた。家に帰ってからも、ポケットから花を出しては眺めて、満足そうに笑っていた。
あの笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。
イヤイヤ期の翔太に振り回され、食事も遊びも思い通りにいかない日々。
夫は仕事で忙しく、実家も遠い。一人で抱え込んで、「私は母親失格なんじゃないか」と泣いた夜もあった。
公園で翔太が走り回るのを見ながら、疲れ果てて、「いつまでこんな日々が続くんだろう」と途方に暮れていた。
今また、私は同じように途方に暮れている。
「……なに、じっと見てんの」
翔太の声に我に返った。息子は不思議そうな顔で私を見ている。
「ううん、何でもない」
そう答えて、私はドアを開ける。翔太は黙って靴を脱ぎ、二階へ上がろうとした。
「翔太」
私は思わず呼び止めていた。翔太が階段の途中で振り返る。
「今日、ハンバーグにしようと思うんだけど」
翔太の好物だ。息子の顔が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「……うん」
それだけ言って、翔太は部屋に入っていった。
私はキッチンに立ち、買ってきた材料を出し始めた。窓を開けると、外からキンモクセイの香りが流れ込んでくる。
翔太は今、自分の世界を築こうとしている。親から離れて、自分の足で立とうともがいている。それは成長の証なのだと、頭では分かっている。でも、心がついていかない。
形は変わっても、息子は息子なのだ。
あの頃の悩みも、今の悩みも、きっと母親になれば誰もが通る道なのだろう。花は散っても、また来年咲く。子育ても同じだ。悩みは尽きないけれど、季節は巡り、子どもは育つ。
ハンバーグのたねをこねながら、私は小さく微笑んだ。翔太の制服についていた花。あれを払う時の、少し照れた表情。まだあどけなさの残る横顔。
きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせた。
夕方、階段を降りてきた翔太が、リビングに入ってきた。
「いいにおい」
ぼそっと呟いた声が聞こえた。ハンバーグのことを言っているのか、それとも窓から入ってくるキンモクセイのことを言っているのか、私には分からなかった。
「もうすぐできるから、手を洗ってきて」
「うん」
翔太は素直に洗面所へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、私の胸の奥が少し軽くなった。
今日はこれでいい。明日はまた、明日の悩みがあるだろう。でも今は、この小さな変化を喜びたい。
窓の外から、キンモクセイの香りが優しく流れ込んでくる。
私は静かに、深呼吸をした。
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キンモクセイ、枝を梳かないと木全体がものすごいことになるんですよねぇ。我が家のキンモクセイは蔦も絡まっちゃって全然咲きません……
11/5/2025, 3:50:00 AM