汀月透子

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〈時を止めて〉

「おばあちゃん、チャンネル変えていい?
 昭和歌謡特集だって」
 中学生の孫が問いかけてくる。

「いいよ、好きなのかけな」
 このところ、昭和レトロとかで孫世代では古い歌謡曲がブームになっているらしい。
 娘も「やだ懐かしい~」とアイドルの曲を一緒になって口ずさんでいる。

 やがて、さらに古い歌が流れ始める。娘にもわからないだろう、私が中学生の頃に流行った曲だ。
 その歌手はもうだいぶ前に亡くなって久しい。当時はテレビなどなく、ラジオから流れるのを聴いて覚えたものだ。
 こうして当時の歌ってる姿をテレビで見るのは、最近になってからかもしれない。

─行かないでと、願ったのに─

 その歌詞に、時を引き戻される。私は十五のあの春を思い出していた。

──

 三月の午後。山の風はまだ冷たく、吐く息が白い。
 道端の雪は黒ずみながらもしつこく残っていて、陽射しの中でもなかなか溶けようとしなかった。

 うちの店──バスの停留所前にある小さな雑貨屋の軒先には、雪解けの水が滴っていた。
 店を手伝う合間に、私はバスの時刻表を何度も見上げた。
 今日は綾子が東京へ行く日だった。

 綾子の集団就職の話を聞いたとき、頭の中でがらがらと何かが壊れるような音がした。うれしいのか、寂しいのか、自分でもわからなかった。
 村の子が外に出ることは滅多にない。特に女の子なら、家の手伝いをして、いずれ誰かの家に嫁ぐのが当たり前。
 でも綾子は違った。
 親を早くに亡くしたあの子は、いつも空の向こうを見ていた。村の風景のどこにも収まりきらないような目をしていた。

 出発の日、私は店を母に任せて、川沿いの停留所へ先に立っていた。綾子に渡そうと、駄菓子をいくつかこっそりと持ってきた。
 風は冷たかったけれど、川面はゆるやかに光っている。
 綾子が坂を下りてくるのが見えたとき、胸が痛くなった。
 薄いコートの裾が揺れて、鞄を握る手が少し震えているのが見えた。

 駄菓子を綾子の鞄に入れながら、私は聞いた。
「……綾子、東京は遠い?」
 そう問いかけながら、すでに答えは知っていた。遠いに決まっている。私の手が届かないほどに。

「どうだろう。すごく遠い気がしてる」
 綾子の声は静かだったけれど、その奥に光る希望の粒を私は見逃さなかった。
 ここにひとりでいても先が見えない、綾子が希望を持って旅立つのはうれしい。
──けれど、どうしようもなく寂しい。胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 マフラーを口元まで上げながら、私はつぶやいた。
「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」

 綾子は黙って、道端の雪を指でなぞった。
「溶けないと、春にならないのかな」
 そう言った声は、私自身の心の底から漏れたような気がした。

 坂の上からバスの音が聞こえる。
 綾子に何か言わなきゃと、気が急く。
 なのに口から出た言葉は、たった一つだった。

「行かないで……綾子」

 泣きたくなんてなかったのに、涙は勝手に流れた。
 綾子は驚いたように目を見開いたけれど、何も言わずに、バスに乗り込んだ。
 ドアが閉まり、エンジンがうなる。
 私は咄嗟に手を伸ばしたけれど、もう遅かった。

「綾ぁ……」
 声は風に、エンジン音に、かき消された。
 バスが角を曲がり、姿が見えなくなる。

─行かないでと、願ったのに─
 あの曲が店先のラジオから流れてくる。
 空から落ちてきた雪の粒が、頬に触れて溶けた。

──

 綾子が上京して、三年ほど経ったころ。
 父が人に騙されて借金を背負った。保証人になっただけのつもりだったのに、夜のうちに家財をまとめて逃げるしかなかった。
 停留所の前の雑貨屋は、もう誰もいない。
 バタバタと看板が風に鳴るのを、私は背中で聞いた。

 行き先を綾子に知らせたくて、何度も手紙を書いた。
 けれど、宛先の東京の会社名を何度書き直しても、封筒の口を閉じられなかった。
 何度も転居したのもあるが、「こんな自分を見せたくない」と思った。
 だから、その手紙は出せないまま、古いトランクの底に眠っている。

──

 今、私は故郷から遠く離れた別の地方で暮らしている。
 住み込みで働いた先で夫と出会い、結婚して子どもも孫もできて、苦労もしたけどそれなりに幸せに生きている。

 春になると、どうしても山の匂いが懐かしくなる。
 日差しは温かくても、つんと鼻の奥に冷たさを感じる季節。
 あの日、川沿いで水切りをして、笑い転げた午後。
 その笑顔を思い出すたびに、時間がふっと止まる。
──あの瞬間だけは、そのままでいてほしい。
 そう願う気持ちが、私を支えてきたのかもしれない。

 雪が溶けて春が来ても、私の中の「十五の春」は、まだ残っている。
 時を止めたまま、あの停留所の片隅で、静かに光っている。

──────

「行かないでと、願ったのに」のB面ストーリーです。
孫が「うちのばあちゃんこの曲好きなんだ」とかSNSで書き込んで、そこからつながって再会……とかできたらまた面白そう。

11/6/2025, 12:42:09 AM