〈行かないでと、願ったのに〉
三月の夕方、冷たい雨上がり。東京の空気は春の匂いをはらんでいるのに、吸い込んだ冷たさに山の冷気が戻ってくる。
スーパーで買い物かごを押していたら、天井のスピーカーから古い歌謡曲が流れてきた。
タイトルは思い出せない。けれど、サビのひと節だけ、印象に残っている。
“行かないでと、願ったのに”
その部分で、私は立ち止まってしまう。
──
十五の春の手前。集団就職で東京の会社の枠に受かった私は、中学卒業後すぐ上京することが決まっていた。
両親はもうすでに亡い。育ててくれた親戚は、悪い人というわけでもなかったが、分家の小娘ひとり親身になって育てる義理はないのだろう。
いずれはどこかの農家に嫁がされる。ここで暮らし、見てきてわかったことだ。
だから、東京へ行けるというのは、私にとって救いの手だった。
卒業式も終わり、出発の日。
見送りもなく、私は小さな旅行鞄に最低限の荷物を詰め込んでバス停まで歩く。
昼間は春めいていても、山の影には、黒くなった雪がずっと残っていた。溶けきらない雪の塊は、冬から離れがたいのか、砂利を抱えたまま道端に貼りついている。
多江が川沿いの停留所で待っていた。彼女もまた、十五だった。
残ることが決まっている人の顔、という言い方があるなら、あのときの多江の横顔は、それに近かった。家のこと、親戚のしきたり、そういうものに守られずに、逆に縛られていた。
「綾子、東京は遠い?」
「どうだろう。すごく遠い気がしてる」
手袋はしないで来た。指先に冷たい風が刺さった。多江は長いマフラーを口元まで上げて、声をくぐもらせた。
「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」
多江は視線を落とした。私は答えられず、道端の残雪を指先で少しだけ触った。
多江の声はますますくぐもる。
「溶けないと、春にならないのかな」
バスのエンジン音が坂の上から聞こえる。近づいてくる気配だけが先に届く。
多江は、絞り出すような声で言った。
「行かないで……綾子」
涙がにじんで、声に重さがあった。私は驚いた。
だって、あのときの私は喜びと希望しか持っていなかったのだ。この閉鎖的な環境で出口を手に入れたこと、それだけだった。自分だけ。
『多江も……一緒に行こう』
心の中でそう思った。けれど、声にはならなかった。
親身になる人がいない私に許されたのは、ここから出ていくことだけ。
多江に許されたのは、ここに残ることだけ。それ以外が、存在していないみたいだった。
十五歳は、残酷なほど選択肢がない。
多江の泣き顔に、別れの言葉が出なかった。どうしたらいいんだろう。考えあぐねているうちに、バスのドアが閉まる。
多江を残し、バスは走り始める。
「綾ぁ……」
多江の声はエンジンの音にかき消されて聞こえない。
そのまま、多江の姿が遠ざかる。私は声も上げられず、バスの座席で泣くだけだった。
──
“行かないでと、願ったのに”
歌のその部分だけが、刺さる。今も。
買い物袋は軽かった。バスの窓に映った私は総白髪だ。
十五で故郷を出てきて六十年以上同じ東京で生き続け、ここまで歳を重ねたなんて、たまに信じられなくなる。
育ててくれた親戚が亡くなって以来、故郷には帰っていない。
多江の消息も知らない。探そうと思えばできるのかもしれない。でも、まず返すべき言葉が思いつかなかった。
「あれからどうですか」なんて言ったら、十五の私が泣いてしまう。
でも今夜は、歌の余韻のままに、ひとつだけ許されたい。あの停留所の脇に残っていた残雪の冷たさを、もう一度だけ思い出したい。
それが、あの町の、最後の冬の温度だった。
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だらだら書いてもなぁということでここまで。もっとエピソード盛り込みたい気もしますけど。
後でこっそり更新するかもしれません。
11/4/2025, 3:54:04 AM