〈凍える朝〉
スマホのアラームで目を覚ます。午前六時。
カーテンの隙間から差し込む光は冬らしく白く冷たい。布団から出ると、ワンルームの空気が刺すように寒い。エアコンをつけたい衝動に駆られるが、電気代が頭をよぎって指が止まる。
社会人一年目の給料は思ったよりも心許ない。月末はいつも、ぎりぎりだ。
洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、学生の頃より幾分か疲れて見える。昨日も残業だったし、今日も朝から会議がある。
キッチンでコーヒーを淹れ、小さなベランダを見ると、手すりに薄い霜が張り付いていた。
その白さを眺めていたら、あの朝の光景がよみがえった。
──
実家の冬の朝は、とてつもなく寒い。
布団の外に出た瞬間、肌を刺すような冷気に身震いする。吐く息が白い。大学の寮では冬でも暖房が効いていたから、実家にいるんだとしみじみ思う。
時計を見ると午前六時。スマホでSNSを眺めると、サークル仲間の飲み会写真や、先輩の就活愚痴が流れている。指で画面をスクロールしながら、布団に戻って二度寝しようか迷っていた。
そのとき、庭から微かな音が聞こえた。カーテンを開けると、白く凍った庭に、人影がある。
祖父だ。分厚いジャンパーを着込み、剪定鋏を手に庭木を整えている。白い息が煙のように立ち上り、芝生は霜で真っ白に凍りついている。
「じいちゃん、何してんの。寒いから中入ってよ」
玄関を飛び出し、庭に出ると、冷気が頬に刺さった。祖父はこちらを向き、笑った。
「 こんなん、寒いうちに入らんだに。
この時期に切っとかんと、春に困るだよ」
俺は父の古いジャンパーを引っ張り出し、庭に戻った。祖父が差し出した小さな鋏を受け取り、低い枝を頼まれる。
かじかんだ手はうまく動かないが、作業を続けているうちに、少しずつ体が温まってくる。
「大学はどうだい」
「まあ、普通」
「友達はできたか」「それなりに」
素っ気ない返事をしながら枝を切る。
祖父は余計な口を挟まず、黙々と鋏を動かす。沈黙が気まずくて、俺はつい口を開いた。
「最近、体調どう?」
「ぼちぼちだな。歳は取りとうねえ」
祖父は笑った。だけど、その笑顔は去年より少しだけ細く見えた。
「この庭、お前が生まれる前からだ。もう三十年以上だか」
祖父は目を細めて庭を見回した。
「春には梅が咲くし、お前が好きだった椿ももうすぐつぼみが膨らむずら」
忘れていた。椿が好きだったなんて。
椿は花ごと落ちる。小さな頃、その花をたくさん拾って並べて遊んだような──微かに思い出せる。
空が明るくなり、凍った芝生が溶け始める。
作業を終えると、祖父は「助かったわい」と俺の肩を叩いた。その手は驚くほど軽かった。
母が淹れた熱い緑茶を飲む。祖父はこたつで目を細めている。
「また帰ってきたとき、庭仕事手伝うよ」
そう言うと、祖父は一瞬目を丸くする。その後ふふっと嬉しそうに笑った。
「ああ、待ってるずらよ」
──
あれから三年が経った。
就活が始まり、帰省の暇もなくなり、内定、卒業、就職。気づけば三年が過ぎていた。
祖父が倒れたと連絡が来たのは、去年の秋。慌てて帰ったが、祖父はもう眠ったまま反応がなく、その一週間後、静かに息を引き取った。
葬儀の日、庭を見た。木々は伸び放題で、雑草が生い茂っていた。
あのときの梅や椿は、今年も咲いたのだろうか。霜の庭に立つ祖父の姿が、鮮明に思い出される。
──
コーヒーが冷めていく。時計を見ると、もう出発の時間だ。スーツを着てコートを羽織り、ドアを開けると冷たい風が吹きつける。
駅へ向かう道を歩きながら、俺は思う。あの日、もっと話せばよかった。素っ気ない返事じゃなく、ちゃんと言葉を交わせばよかった。そして約束を守ればよかった。
満員電車に揺られていると、スマホに母からメッセージが届く。
「今度の週末、暇だったら帰ってこない?
お父さんと庭の手入れをしようと思う。手伝ってくれたら嬉しい」
少し考えて、返信する。
「わかった。帰る」
電車が止まり、ホームに降りる。今日も長い一日が始まる。
でも今は、週末が待ち遠しい。
実家の庭で、父と剪定をする。手はかじかむだろう。でも動いているうちに温まる。今度こそ、約束を守る。
凍える朝は、いつか温かい朝に変わる。祖父がそうしてくれたように、今度は俺が温もりを手渡す番だ。
雲の切れ間から青空が覗く。冬は長いけれど、春はきっと来る。
何気ない冬の朝。祖父との、たぶん特別でもない時間を思い出しながら、俺は歩き続けた。
──────
一気に冬が来ちゃいます?w
とりあえず放置してた庭の剪定してきます……
〈光と影〉
私がイラストレーターになって、12年が経った。
どんなキャラクターでも柔らかな光に包まれているように描く。そんな画風が支持され、フォロワーに支えられて長い間絵を続けている。
穏やかな表情、やさしい色、あたたかな光。見た人が少しでも癒やされるように──そう願いながら描き続けてきた。
いつしか「光の魔術師」と呼ばれるようになり、企業案件も絶えない。
けれど、誰も知らない。私が対人恐怖症で、人と直接目を合わせて話せないことを。
家族と話すのが精いっぱい、買い物はネット通販と深夜のスーパーだ。今はセルフレジを導入する店が増えたので助かる。
打ち合わせはすべてオンライン。モニター越しなら笑顔も作れるし、声も落ち着いて出せる。
けれど、実際に人と向き合うとなると、喉の奥がぎゅっと縮まり、言葉が出なくなる。だから私は、インターネットという「壁」に守られて生きていた。
そんなある日、久しぶりにギャラリーへ足を運んだ。SNSのおすすめで流れてきて以来、ずっと気になっていた一人のイラストレーター、「K」の個展だった。
展示されていたのは、すべて“影”を描いた作品。水彩、アクリル絵の具、鉛筆……様々な画材を用い、描かれたものだ。
人の影、建物の影、木々の影──光そのものはほとんど描かれていないのに、不思議と温度があった。黒と灰色の濃淡の中、モチーフの一点だけ色がついている。そこだけ世界が呼吸しているようだった。
「……影の方が、本当のことを語ると思って描いてます」
背後から声がして、私は身を固くした。
振り返ると、黒いシャツを着た三十代くらいの女性が立っていた。「K」本人──烏丸ケイだった。
彼女は穏やかな目をしていたが、どこか深いところで何かを見つめているような視線だった。
「光は嘘をつく。でも、日下部さんの光は、優しい嘘だと思う」
不意に自分の名前を呼ばれ、息をのんだ。
「私のこと、ご存知でしたか」
「もちろん。以前、あなたの記事を書いたことがあります。
Webニュースで“光の絵師”として紹介した特集、覚えていませんか?」
「あの……“手をつなぐ光”ってタイトルの?」
「そう。それを書いたのが私。」
彼女はギャラリーの椅子に腰を下ろす。どうぞ、と促される。
「あの記事を書く前、あなたのイラストを見て三日間泣きました」
「……泣いた?」
「ええ。あの頃の私は人の苦しみを記事にすることしかできなくて。書くほど心が削れていく気がしてた。そこにあなたの特集記事の話が来て……
あなたの光を見た瞬間、少しだけ“生きてていいのかも”って思えたんです」
彼女の言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。そんな風に誰かを救えるなんて、考えたこともなかった。
「あなたの光は嘘かもしれない。
でも、誰かを照らすなら、それは真実ですよ」
その日を境に、私たちは連絡を取り合うようになった。
最初はメッセージだけだったが、やがてケイが「会って話しませんか」と言ってきた。私は迷った。けれど、不思議と怖くはなかった。
カフェで会ったケイは、イメージ通り静かな人だ。お互い人の目を見られず、話すときは少し視線を外していた。
けれど、その沈黙は心地よかった。
「こうしてお話していると、晶さんがなぜ直接取材を受けないのか、わかった気がします」
見透かされ、私は観念して話し出す。
「……人が怖いんです。
目を合わせると、心の奥を覗かれる気がして」
「わかります。私は逆に、見ないようにしてた。
書くことで、自分の中の何かを見ないようにしてたんです」
否定されることなく、私は安堵した。
「ケイさんは……今も、ライターを?」
「やめました。五年前に。
もう人の痛みを文字にするのが怖くなって」
彼女はカップを手の中で転がしながら、遠くを見るように言った。
「言葉じゃ救えない人を、たくさん見てきました。
だから、逃げたんです。絵なら、何も言わずに寄り添える気がしたから」
ふぅとついたため息に、彼女のそれまでの苦悩が目に見えるようだ。
この人は共感し過ぎるのだろう。痛みをその身に受けすぎたのだ。
私とは違う、心の傷を抱えている。
「……逃げることって、悪いことですかね」
「いいえ。生き延びるためには、逃げることも必要だと思います。
あなたも、光に逃げたんでしょう?」
その通りだ。自分の闇を直視したくないが故の、光の表現。
図星すぎて、私は思わず笑ってしまった。ケイも笑った。
私たちはその夜、初めて互いを向きあい、笑い合えた。
それから何度も会って話すうちに、ケイの博識さに私は舌を巻いた。
美大を出て美術系雑誌のライティングをしていたが、取材能力と文の上手さに様々なところから声がかかったらしい。
「雑食ライターですよ」と言うが、取材前の下調べを欠かさないのだろう。
全く私が知らないことでも、彼女が話す内に興味が出てくるのだ。
──今までとは違うスタイルで、絵を描きたい。
彼女の話は、私の創造の翼を広げてくれるのだった。
ケイはぽつりと提案した。
「二人展をやりませんか。
あなたが光を描いて、私が影を描く。同じモチーフで、対になるように」
「……光と影、ですか」
「そう。片方だけじゃ、世界は立体にならない。
あなたの光は私の影を映し出すし、私の影はあなたの光を際立たせると思う」
「そんなふうに並べたら……私の光、偽物に見えちゃうかもしれません」
「偽物でもいいんです。本気で描けば、それがあなたの真実になります」
その言葉に、胸の奥が震えた。
準備の期間、私は初めて“影”を描いてみた。黒を塗るたびに胸がざわつく。
「影は、光があった証なんです。あなたがここまで描いてきた光、その裏にちゃんと影があったはず」
ケイが、そっと言葉を添えてくる。
「……自分の影を見たくなかっただけかもしれません」
「でも、それを見られるようになったなら、それも光ですよ」
そのやりとりが、私を変えていった。
一年後の二人展は「Between Light and Shadow ― 光と影のあいだで ―」と題された。会場には、私の光の絵とケイの影の絵が並んだ。
来場者たちは、二つの絵を行き来しながら静かに佇んでいた。
最後のエリアでは、意図的に二人の絵を並べた。光から影へ、影から光へとつながるような構図で描いたものだ。
大きな号数のキャンバス2枚、迫力のある作品になった。
「見てください。あの人、泣いてる」
ケイが小声でつぶやく。
「私たちの想いは届いたのかな」
「届いてますよ。光にも、影にも」
最終日、私は観客の前で短い挨拶をした。声は震えたけれど、ケイが横で小さくうなずいてくれた。
「光があるから影ができる。影があるから光を感じられる。
その両方を、私はこれからも描きたいです」
拍手の音が、胸の奥で柔らかく響いた。
私はまだ、人前では緊張する。でも今は、ケイと並んで立てる。
完璧な光である必要なんてない。影があるからこそ、光は生まれる。
「ねえ、晶さん」
帰り道、ケイが言った。
「あなたの光と私の影、原点は一緒ですよ」
「え?」
「どっちも、誰かを照らすために描いてる。だから、同じなんですよ」
私は笑った。
「じゃあ、これからも一緒に描きましょう。光と影の間で」
ケイがうなずいた。街灯の下、二人の影が並んで伸びた。
その影を見つめながら、私は思った。
光も影も、私の中にある。
それを受け入れて描いていけるなら、それがきっと、私の“真実”だ。
──
一時、誰にも会いたくなくて深夜や早朝に営業してるスーパーに通っていました。
早朝の某肉系スーパーは前日のパックに割引シールをガンガン貼ってくれましたねぇ。
ケイさんの「K」は、CMYKのKになぞらえてます。印刷の4色。
でも、Kのインクに少しMを加えると、深みのある黒になるんですよー。
〈そして、の先へ〉
「主任、プレゼンの予行演習、見てもらえませんか」
昼休み明け、大城が資料の束を抱えて俺の席にやってきた。入社三年目、真面目で素直なやつだ。少し頼りないが、こうして自分から声をかけてくるあたり、成長していると思う。
初めて一人で進める大型プロジェクトに向けて、相当気合いが入っている。
会議室のプロジェクターに資料を映し、大城が説明を始めた。
「そして、この新モデルは従来品より二〇パーセント軽量化されています。そして、コストも削減でき、そして……」
思わず手を挙げた。
「待て、大城。『そして』が三連発だ」
大城は肩をすくめる。
「あ、つい」
彼の資料はよくできている。話の流れも悪くない。ただ、つなぎが甘い。言葉の勢いに頼っている。
「客先では一言一言に重みが出る。『そして』で繋ぐと、どこも主語にならない」
「なるほど……」と頷く大城の額に、うっすら汗が光っていた。
「でも主任、間があると落ち着かないんですよ」
「わかるよ。けど、“間”もプレゼンの一部だ。相手に考える時間を渡すんだ」
大城は真剣に頷いた。その目が、昔の自分と重なる。
俺は少し意地悪く笑って言った。
「俺も学生の頃、似たようなこと言われたよ。レポートに『そして』を多用して、教授に『お前の文章はマラソンか』って怒られた」
大城が吹き出す。
「走り続けてたんですね」
「そう。止まるのが怖かったんだと思う。
話が途切れたら、相手が興味をなくすんじゃないかって」
俺は気づいた点をまとめたメモを大城に渡し、肩を叩く。
「全体の流れはいいぞ、言葉のつなぎ方を工夫するんだな」
「はい、ありがとうございました」
その日の帰り道、大城の練習映像を頭の中で再生する。
拙いが、彼の言葉には真面目さがあった。間を怖がりながらも、一生懸命つなげようとしていた。
新人時代の自分が重なる。沈黙を恐れ、空気を埋めるように喋っていたあの頃。
今は黙ることも、言葉のうちだと知った。教えてくれたのは、先輩達だ。
マニュアルでは伝えきれないことを、次の世代につないでいくのが今の俺の役目だが、彼らに伝わっているのかと不安が頭をよぎる。
翌朝、出社するとき、思いついて付箋を一枚書いた。
《“そして”を減らすと、言葉が締まる。でも、伝えたい気持ちは減らすな》
それを大城のデスクにそっと置いた。
本番の午後。
大城は少し硬い表情で顧客の前に立った。
「……この新モデルは、従来より二〇パーセント軽くなりました。」
そして、と言いかけて、口を閉じる。一瞬の沈黙のあと、落ち着いた声で続けた。
「その分、使いやすくなりました。是非ともお試しいただけますでしょうか」
その一言に、場の空気が変わった。
俺は心の中で小さくガッツポーズをした。
終わったあと、大城が照れたように笑った。
「途中で“そして”が出そうになって、止めました」
「いい判断だ。止める勇気ってのも必要だからな」
そう言いながら、俺も笑った。
そして──いや、その先はもう、言わなくてもいいだろう。彼自身が未来につないでいくことだ。
──────
「お前の文章はマラソンか」のくだりは、私が学生時代に言われた言葉です。
文章もプレゼンも、ペース配分大事。
〈tiny love〉
姉が赤ちゃんを連れてきた。生まれてまた一週間、しばらくうちで過ごす。
居間の空気が少し甘く、どこか粉ミルクの匂いが混じっている。姉は少しやつれて見えたけれど、腕の中の赤ちゃんを見つめる目だけはとても優しい。
「ほら、これがあんたの姪っ子」
白く柔らかなおくるみに包まれたその子は、ほんのり桜色をしている。まだ人間というより“芽”のようだった。
私はただ「ちっちゃい……」とつぶやくしかなかった。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
三時間おきに、決まったように赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるからだ。
ぎゃーぎゃー泣く訳じゃない。小さな小さな声は、子猫のようだった。
「おなか、すいたんだね」
隣の部屋から母の声がして、少し遅れて姉の足音。私はトイレに行くふりをして、様子を見に行った。
姉は寝ぼけたまま赤ちゃんを抱き上げ、よろよろと座布団に腰を下ろす。薄暗いスタンドの光の中、姉はシャツのボタンを外し、まだ慣れない手つきで胸に赤ちゃんの口元を導く。そしてそのままそのまま目を閉じ、うつらうつらと船をこぐ。
髪は少し乱れ、顔には疲れが刻まれている。それでも、腕の中の命を離そうとしない姿が、妙にまぶしかった。
私は戸口から見ているだけだった。何か言うと空気を壊してしまいそうで、声を出せなかった。
「眠れない?」
私に気づいた母がささやく。私は横に首を振る。
「トイレに起きただけ」
「ふふ……まだまだ静かな方よ。懐かしいわね」
母は小さく笑った。きっと私たちが赤ん坊だったころを思い出しているのだろう。
部屋に戻り、ベッドにもぐり込む。さっきの姉の顔を思い出す。
あんなに優しい顔、できるのか……私が知らない、「母」の顔だった。
翌朝、姉は「あんた、全然寝てないでしょう」と笑いながら朝ご飯を食べていた。すごい食欲だ。
赤ちゃんが傍らの布団の中でむずかり始める。
「抱っこしてみる?」
姉に言われて、私は戸惑った。けれど、昨日の夜の光景が頭に浮かんで、思い切って抱き上げる。
軽い。けれど、確かな重みがある。ミルクと石けんの匂い。
人形のような小さな手に、恐る恐る指をのばす。細い指が、私の人差し指をぎゅっとつかむ。
その小さな力に、心の奥で何かが動いた。怖いというより、守りたくなるような気持ち。
そんな私に応えるように、あくびともため息ともつかないような、小さな声が唇からこぼれる。
「にぎやかなんだって、この子。沐浴のときももぐもぐ何かしゃべってるって、看護師さんにも評判だったよ」
姉が笑う。
「抱っこして、おっぱいあげて……ちゃんと生きてるんだなって思う」
ふと、白湯を飲む手を止めて、姉がつぶやく。
「ねえ、この子の名前考えてよ」
「え、まだ決めてなかったの?」
母が目を丸くする。
驚いた、生まれて一週間以上経つのに。
「生まれる前から考えていた候補はいくつかあるけど、しっくりこなくて。
あんたなら、どんなの思いつく?」
私は驚きながらも、赤ちゃんの寝顔を見つめた。
「……“芽”って字、どう? なんか、始まりの感じがしていいかも」
「芽、か。いいね」
「たとえば“芽衣(めい)”とか、“芽生(めい)”とか……“萌芽”……これはちょっと読みづらいかぁ」
姉が笑って、「名づけ会議だね」と言いながらメモ帳を取り出した。
夕方、お義兄さんに電話をかけて、私が考えた名前を伝える。スピーカー越しに、「“芽生”っていいな。今の季節にちょうどいい」と言うと、姉の顔がふっとやわらいだ。
「うん……“芽生”にしようか」
そう言って、姉はそっと赤ちゃんのほっぺに指を触れた。
「ようこそ、めいちゃん」
それからの日々、家は三時間ごとのリズムで回った。泣き声が合図のように響き、姉が半分寝たまま授乳する。母が支え、私は洗濯を担う。
父はほとんど戦力外、おろおろしながら見守るだけ。お義兄さんが週末こちらに来たときは、二人して大騒ぎしながら沐浴させていた。
そんな単純な繰り返しの中で、私は少しずつこの小さな命を好きになっていった。
木々が新緑をたたえ、ゴールデンウィークが終わる頃、姉が「そろそろ帰るね」と言った。
姉に抱かれるめいちゃんに、私は小さく手を振った。
またすぐ会えるのに、胸の奥がぎゅっと痛む。
tiny love──小さな小さな、愛。
これが、愛なんだと思う。
──────
引き続き体調不良です。
脳内で「めーいちゃーん」と、かんたのおばあちゃんが叫んでいます。(トトロ
〈おもてなし〉
息子の大地が「今度、彼女を家に連れてくる」と言ったのは、夕食後の何気ない一言だった。
味噌汁をすする手が止まり、私は思わず聞き返した。
「えっ、いつ?」
「来週の日曜」
さらっと言って、彼は冷蔵庫から麦茶を取り出す。まるで天気の話でもするような調子に、拍子抜けする。
来週の日曜まで、たった一週間。私だけが浮き足立っていた。
家の中は散らかっていないかしら。玄関の花は枯れてなかった? 客用の茶碗はどこに仕舞ったっけ。お菓子は? お昼はどうしましょう。
頭の中で次々とリストが浮かぶ。まるで学生時代の試験前に戻ったようだ。
「佐和子さん、そんな顔しないの」
義母のふみさんが、湯呑を片手に笑っている。
「あなたも昔、初めてうちに来たとき、緊張でガチガチだったじゃない。
必死に笑顔作って」
確かに。
三十年前、初めてこの家を訪れたとき、私は完璧な「良い娘」を演じていた。料理上手、礼儀正しく、控えめで。
本当の私は、そんなに器用な人間じゃないのに。
「お義母さんだって、最初は優しい姑を演じてたでしょう」
私は負けじと返す。
「あら、バレてた?」
ふみさんはケラケラと笑った。
初めて会った時のふみさんは、今よりもずっと上品だった気がする。出てきた料理はまるで高級割烹のようで、畏れおののいたものだ。
今ではすっかり本性を現して、私と漫才のようなやりとりをする仲になってしまったけれど。
「まーたふたりでじゃれてる……」
読んでいた新聞をたたんで、一雄がため息をついた。こんな調子で三十年、嫁姑漫才も見飽きたという顔だ。
「お父さんだって、初めてうちに来たとき、猫かぶってたくせに」
「やめてくれよ、もう三十年も前の話だ」
ふみさんは、ふふんと鼻を鳴らして湯呑を置く。
「私が三十年前に味わった気持ち、あなたも味わいなさい」
「……それ、脅しに聞こえます」
「母親ってそういうものよ。
息子の“彼女”が来るとなったら、誰だってそわそわするでしょう」
「楽しみでもあり、怖くもあり、ですね」
私は笑いながらも、心の中でふみさんの言葉を反芻した。
実のところ、非常に複雑な気持ちだ。嬉しいような、寂しいような。息子が大人になって、自分の人生を歩み始めている。
ふみさんも同じだったんだろう。愛する息子を他人に盗られるんだ。
でも、ふみさんは私を実の子のように扱ってくれた。叱るときは本気で叱る。私が言い返して夫がおろおろしていても、なぜ叱るのか、理由を述べる。
「嫁」ではなく、一人の大人として扱ってくれたのだ。
よその人と話していても、「うちの嫁」なんて言わない。必ず「佐和子さん」と言ってくれる。いわゆる嫁姑バトルとは縁遠いのかもしれない。
だから、私も「ふみさん」と呼ぶ。
「……おもてなしって、他人だからできるのよ」
「ですよねぇ」
“おもてなし”って、ただ掃除してご馳走を用意することじゃない。
息子が選んだ人を、息子の未来ごと受け入れること。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それでも不安は消えない。
どんな娘さんなんだろう。明るい子か、静かな子か。料理が得意? それともキャリア志向?
ふみさんは、もう結婚が決まったかのように目を輝かせた。
「どんな娘さんが来るのかしらねぇ。楽しみだわ」
私は苦笑いするしかなかった。
来週の日曜日。どんな「おもてなし」になることやら。
でも、ありのままの私たちを見てもらうのも、悪くないかもしれない。そう思えるようになったのは、三十年間、この家族で過ごしてきたからだろう。
窓の外では夕焼けがゆっくりと色を変えていた。
──────
体調不良です。上手くまとめられず、ふみさん佐和子さんもそれほど漫才になってません。
でもこのコンビはお気に入りなので、またそのうちどこかでお話を書きたいものです。