汀月透子

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〈おもてなし〉

 息子の大地が「今度、彼女を家に連れてくる」と言ったのは、夕食後の何気ない一言だった。
 味噌汁をすする手が止まり、私は思わず聞き返した。
「えっ、いつ?」
「来週の日曜」
 さらっと言って、彼は冷蔵庫から麦茶を取り出す。まるで天気の話でもするような調子に、拍子抜けする。

 来週の日曜まで、たった一週間。私だけが浮き足立っていた。
 家の中は散らかっていないかしら。玄関の花は枯れてなかった? 客用の茶碗はどこに仕舞ったっけ。お菓子は? お昼はどうしましょう。
 頭の中で次々とリストが浮かぶ。まるで学生時代の試験前に戻ったようだ。

「佐和子さん、そんな顔しないの」
 義母のふみさんが、湯呑を片手に笑っている。
「あなたも昔、初めてうちに来たとき、緊張でガチガチだったじゃない。
 必死に笑顔作って」

 確かに。
 三十年前、初めてこの家を訪れたとき、私は完璧な「良い娘」を演じていた。料理上手、礼儀正しく、控えめで。
 本当の私は、そんなに器用な人間じゃないのに。

「お義母さんだって、最初は優しい姑を演じてたでしょう」
 私は負けじと返す。
「あら、バレてた?」
 ふみさんはケラケラと笑った。

 初めて会った時のふみさんは、今よりもずっと上品だった気がする。出てきた料理はまるで高級割烹のようで、畏れおののいたものだ。
 今ではすっかり本性を現して、私と漫才のようなやりとりをする仲になってしまったけれど。

「まーたふたりでじゃれてる……」
 読んでいた新聞をたたんで、一雄がため息をついた。こんな調子で三十年、嫁姑漫才も見飽きたという顔だ。
「お父さんだって、初めてうちに来たとき、猫かぶってたくせに」
「やめてくれよ、もう三十年も前の話だ」

 ふみさんは、ふふんと鼻を鳴らして湯呑を置く。
「私が三十年前に味わった気持ち、あなたも味わいなさい」
「……それ、脅しに聞こえます」
「母親ってそういうものよ。
 息子の“彼女”が来るとなったら、誰だってそわそわするでしょう」
「楽しみでもあり、怖くもあり、ですね」

 私は笑いながらも、心の中でふみさんの言葉を反芻した。

 実のところ、非常に複雑な気持ちだ。嬉しいような、寂しいような。息子が大人になって、自分の人生を歩み始めている。

 ふみさんも同じだったんだろう。愛する息子を他人に盗られるんだ。
 でも、ふみさんは私を実の子のように扱ってくれた。叱るときは本気で叱る。私が言い返して夫がおろおろしていても、なぜ叱るのか、理由を述べる。
 「嫁」ではなく、一人の大人として扱ってくれたのだ。
 よその人と話していても、「うちの嫁」なんて言わない。必ず「佐和子さん」と言ってくれる。いわゆる嫁姑バトルとは縁遠いのかもしれない。
 だから、私も「ふみさん」と呼ぶ。

「……おもてなしって、他人だからできるのよ」
「ですよねぇ」
 “おもてなし”って、ただ掃除してご馳走を用意することじゃない。
 息子が選んだ人を、息子の未来ごと受け入れること。
 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 それでも不安は消えない。
 どんな娘さんなんだろう。明るい子か、静かな子か。料理が得意? それともキャリア志向?
 ふみさんは、もう結婚が決まったかのように目を輝かせた。
「どんな娘さんが来るのかしらねぇ。楽しみだわ」
 私は苦笑いするしかなかった。

 来週の日曜日。どんな「おもてなし」になることやら。
 でも、ありのままの私たちを見てもらうのも、悪くないかもしれない。そう思えるようになったのは、三十年間、この家族で過ごしてきたからだろう。

 窓の外では夕焼けがゆっくりと色を変えていた。

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体調不良です。上手くまとめられず、ふみさん佐和子さんもそれほど漫才になってません。
でもこのコンビはお気に入りなので、またそのうちどこかでお話を書きたいものです。

10/29/2025, 3:59:18 AM