汀月透子

Open App

〈tiny love〉

 姉が赤ちゃんを連れてきた。生まれてまた一週間、しばらくうちで過ごす。
 居間の空気が少し甘く、どこか粉ミルクの匂いが混じっている。姉は少しやつれて見えたけれど、腕の中の赤ちゃんを見つめる目だけはとても優しい。

 「ほら、これがあんたの姪っ子」
 白く柔らかなおくるみに包まれたその子は、ほんのり桜色をしている。まだ人間というより“芽”のようだった。
 私はただ「ちっちゃい……」とつぶやくしかなかった。

 その夜、私はなかなか寝つけなかった。
 三時間おきに、決まったように赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるからだ。
 ぎゃーぎゃー泣く訳じゃない。小さな小さな声は、子猫のようだった。
「おなか、すいたんだね」
 隣の部屋から母の声がして、少し遅れて姉の足音。私はトイレに行くふりをして、様子を見に行った。
 姉は寝ぼけたまま赤ちゃんを抱き上げ、よろよろと座布団に腰を下ろす。薄暗いスタンドの光の中、姉はシャツのボタンを外し、まだ慣れない手つきで胸に赤ちゃんの口元を導く。そしてそのままそのまま目を閉じ、うつらうつらと船をこぐ。
 髪は少し乱れ、顔には疲れが刻まれている。それでも、腕の中の命を離そうとしない姿が、妙にまぶしかった。
 私は戸口から見ているだけだった。何か言うと空気を壊してしまいそうで、声を出せなかった。
「眠れない?」
 私に気づいた母がささやく。私は横に首を振る。
「トイレに起きただけ」
「ふふ……まだまだ静かな方よ。懐かしいわね」
 母は小さく笑った。きっと私たちが赤ん坊だったころを思い出しているのだろう。

 部屋に戻り、ベッドにもぐり込む。さっきの姉の顔を思い出す。
 あんなに優しい顔、できるのか……私が知らない、「母」の顔だった。

 翌朝、姉は「あんた、全然寝てないでしょう」と笑いながら朝ご飯を食べていた。すごい食欲だ。
 赤ちゃんが傍らの布団の中でむずかり始める。
「抱っこしてみる?」
 姉に言われて、私は戸惑った。けれど、昨日の夜の光景が頭に浮かんで、思い切って抱き上げる。
 軽い。けれど、確かな重みがある。ミルクと石けんの匂い。
 人形のような小さな手に、恐る恐る指をのばす。細い指が、私の人差し指をぎゅっとつかむ。
 その小さな力に、心の奥で何かが動いた。怖いというより、守りたくなるような気持ち。
 そんな私に応えるように、あくびともため息ともつかないような、小さな声が唇からこぼれる。
「にぎやかなんだって、この子。沐浴のときももぐもぐ何かしゃべってるって、看護師さんにも評判だったよ」
 姉が笑う。
「抱っこして、おっぱいあげて……ちゃんと生きてるんだなって思う」

 ふと、白湯を飲む手を止めて、姉がつぶやく。
「ねえ、この子の名前考えてよ」
「え、まだ決めてなかったの?」
 母が目を丸くする。
 驚いた、生まれて一週間以上経つのに。
「生まれる前から考えていた候補はいくつかあるけど、しっくりこなくて。
 あんたなら、どんなの思いつく?」

 私は驚きながらも、赤ちゃんの寝顔を見つめた。
 「……“芽”って字、どう? なんか、始まりの感じがしていいかも」
 「芽、か。いいね」
 「たとえば“芽衣(めい)”とか、“芽生(めい)”とか……“萌芽”……これはちょっと読みづらいかぁ」
 姉が笑って、「名づけ会議だね」と言いながらメモ帳を取り出した。

 夕方、お義兄さんに電話をかけて、私が考えた名前を伝える。スピーカー越しに、「“芽生”っていいな。今の季節にちょうどいい」と言うと、姉の顔がふっとやわらいだ。
 「うん……“芽生”にしようか」
 そう言って、姉はそっと赤ちゃんのほっぺに指を触れた。
 「ようこそ、めいちゃん」

 それからの日々、家は三時間ごとのリズムで回った。泣き声が合図のように響き、姉が半分寝たまま授乳する。母が支え、私は洗濯を担う。
 父はほとんど戦力外、おろおろしながら見守るだけ。お義兄さんが週末こちらに来たときは、二人して大騒ぎしながら沐浴させていた。
 そんな単純な繰り返しの中で、私は少しずつこの小さな命を好きになっていった。

 木々が新緑をたたえ、ゴールデンウィークが終わる頃、姉が「そろそろ帰るね」と言った。
 姉に抱かれるめいちゃんに、私は小さく手を振った。
 またすぐ会えるのに、胸の奥がぎゅっと痛む。

 tiny love──小さな小さな、愛。
 これが、愛なんだと思う。

──────

引き続き体調不良です。
脳内で「めーいちゃーん」と、かんたのおばあちゃんが叫んでいます。(トトロ

10/30/2025, 8:27:56 AM