汀月透子

Open App
10/28/2025, 4:20:06 AM

〈消えない焔〉

──夢って、どれくらいの温度で燃えるんだろう。
 ガラス越しに見える空港の滑走路はライトに照らされ、飛行機の機体が光っている。
 その光を見つめながら、私はそう思った。

 最終便の出発ロビーは、夜遅くにも関わらず行き交う人々の声とアナウンスが交じり合う。
 私はスーツケースを押すエリカの背中を見つめていた。
 彼女はまっすぐ前を向き、髪をひとつに束ね、迷いのない足取りでゲートへと向かう。

 あの背中を見送る日が来ることを、ずっと恐れていた。
 でも、今は──胸の奥で確かに燃えている何かを感じている。

──
 エリカと出会ったのは、十二年前、製菓学校の実習室だった。
 初めての授業の日、私たちは一緒にバターを焦がした。
 焦げた匂いを漂わせながら、講師に叱られたあと、二人で顔を見合わせて笑った。

「焦がしたけど、ちょっと香ばしくていい匂いしない?」
「こういうのを“怪我の功名”って言うんだよ」

 それが、私たちの最初の会話だった。
 その日から、放課後も休日もずっと一緒に過ごした。
 卒業したらそれぞれ別の店に就職したけれど、夢は同じ──「いつか本場フランスで学ぶこと」。

 仕事が終わったあと、深夜のカフェでレシピノートを広げながら語り合った。
「お金貯めて、一緒に行こうね」
「うん、絶対」

 休日返上で、深夜までの勤務も厭わなかった。指先に残る火傷の痕も、立ち仕事で痛む足も、すべては夢のためだった。
 あの頃の私たちは、焼きたてのシュー皮みたいに、熱くて張りがあって、壊れやすかった。

──

 父の病が見つかったのは、今年の春のことだった。
 進行が早く、手術しても長くはないと言われた。母は取り乱し、私は呆然とした。兄や姉がいたのが幸い、私だけで両親を支えるのは不可能に近い。
 それでも父は穏やかで、ベッドの上で笑って言った。

「手術してお前のケーキを食べられるようになれば、あと10年は生き延びられるだろうな」

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
──夢よりも、父を安心させたい。
 そう思うようになったのは、その日からだ。

 母や兄姉と交代で病院に向かう。
 毎日ではないにしろ、仕事と看護の両立は難しい。そんな時にも職場の先輩である尚人(なおと)はずっと支えてくれた。
 穏やかで、言葉よりも行動で寄り添ってくれる人だった。
 私が不安で立ちすくむ夜、何も言わずコーヒーを淹れてくれるような人。

 術後、父の容体が少し落ち着いた頃に尚人からプロポーズされた。
「君の人生を一緒に歩きたい」
 私は頷いた。
 父に安心してもらいたい一心だった。

──

 エリカからフランス留学の準備を始めたと聞いたのはその頃だった。勤め先からの推薦も決まり、二週間後に出発するという。
 私はその報告を聞きながら、胸の奥で焦げつくような痛みを感じた。

 カフェのテーブル越しに、私はカップを握りしめて言った。

「私、海外行くのやめようと思う」
「……どういう意味?」
「日本でもパティシエはできるし、わざわざ海外じゃなくてもいいかなって」

 エリカの目が、ゆっくりと細くなった。
「嘘でしょ? 彩名がそんなこと言うなんて」
「……私、もうすぐ結婚するの」
「結婚? 夢、諦めるの?」

 その声には、怒りと戸惑いと、悲しみが混ざっていた。
 私はきわめて平然を装う。

「変わったのよ、考えが。現実的になったっていうか」

 嘘だった。本当は、父を安心させたかった。結婚式で花嫁姿を見せたかった。
「諦めた」と言えば、楽になれると思った。

 けれど、その瞬間、彼女の顔からすっと光が消えた。
「諦められるほど、軽い夢だったの?」
 失望に満ちたエリカの声が重くのしかかる。私は何も言うことができない。

「……がっかりした」
 冷え切った口調が、心を切り裂く。エリカは席を立ち、そのまま出て行った。
 残された私は、カップの中で冷めていくカフェラテを見つめながら、しばらく立ち上がることができなかった。

 その夜、エリカのことを尚人に話した。
「私、あの子を傷つけた」
「本当のことを言ってないから?」
「うん……でも、言いたくなかった。
 エリカのことだから、留学やめるって言い出しそうで」

 尚人は少し黙って、それから言った。
「君はエリカさんを守るために夢を脇に置いた。
 でも、それを“諦めた”って言うのは違うんじゃない?」

 その言葉が、胸にしみる。
 でも、どうしたらいいんだろう。答えが見つからない。

──私は、夢を手放したわけじゃない。ただ、少し形を変えただけ。
 そう伝えるにはどうすればいいのだろう。

──

 父の病院からの帰り、尚人から連絡が入る。
 店じまい前の尚人の店に寄ると、エリカがここに来たと聞いた。
「今日の夜、フランスに行くとだけ伝えてください」と言ったらしい。
 そして私宛にと、小さな箱を手渡されたという。とても軽い。
 「Fragile!」と手書きの赤い文字。エリカの筆跡だ。そっと開ける。

──飴細工のブーケだ。細やかな花々を見事なプルドシュクレの赤いリボンがまとめている。
 卒業制作のピエスモンテで賞を取ったぐらいの、エリカの得意技。

「結婚祝いだから、くれぐれも壊さないようにと釘を刺されたよ。
 それから」
 コックコートを脱ぎながら、静かな口調で尚人が言う。

「──言ったよ、お義父さんのこと」
「何で……」
「勝手に伝えたのは謝る。
 でも、エリカさんを失望させたままでいいのかい?」

 諭す言葉が温かい。
「君の本音を伝えないと、エリカさんも重荷を背負ったままだよ」
 尚人も、私の中の“焔”を見抜いていたのだ。

「……謝らなきゃエリカに、私……ひどいことしちゃった……」

 その時、尚人のスマホが鳴る。メッセージを確認した尚人が顔を上げる。
「彩名、行こう。空港へ」
「羽田の最終便だ、エリカさんとこの店長から聞き出した。見送りはいいって断られたらしい」
 様々な想いがあふれすぎて身動きできない私を、尚人は半ば強引に車に押し込め、空港へと走り出した。

──

 車は首都高を通り、湾岸線に入っていく。ビルの灯りが窓の外を流れていき、少しずつ遠ざかっていく。ターミナルまであと少しだ。
 エリカはもう搭乗手続きに入っている頃だろう。

「間に合うかな」
「間に合わせよう、彩名の気持ちをきちんと伝えないと後悔するよ」

 尚人のその言葉に、私は強く頷いた。

 ターミナル前、車を尚人に任せて私は走り出す。

「パリ行き〇〇便、搭乗のご案内をいたします」

 アナウンスが響く。
 ゲート前で人混みをかき分けながら、私は彼女を探した。
 白いジャケットの背中が見えた瞬間、思わず叫んだ。

「エリカ!」

 エリカが振り返る。
 目を見開き、そして私を見つめた。

「彩名……」
「ごめん、あの日、本当のこと言えなかった」
 息が上がる。
「私、父のことでいっぱいいっぱいで、でも、夢を諦めたわけじゃない。諦められるはずがないの!」

 エリカの目に涙が光った。
 私は続けた。

「私も戦う。ここで、できることを全部やる。
 あなたに負けないパティシエになる」

 彼女は数歩近づき、私の肩を叩いた。
「バカ。そんなの、最初からわかってた。
 そんな顔するなら、最初からそう言ってよ」
「ごめん」
「謝らないで。私、向こうでちゃんと頑張る。
 だから、彩名も絶対に諦めないで」

 パーキングから走ってきた尚人が、うちの店の紙袋を渡す。
「うちのエースが作り上げたガトーです。
 どれも自信作ですよ、旅のお供にどうぞ」
 エリカが袋の中を見、私を見る。ドゥミセックやミニャルディーズ、レシピからすべて私が作り上げたものだ。
「嬉しい……彩名のフィナンシェ、絶品だもの。大事にいただくね」

 専門学校時代から、エリカは誉めてくれた。学校の屋上で、二人で食べながら見上げたあの空を思い出す。
 エリカも同じだろう、涙目になりながらも笑っている。

「パリ行き最終便、搭乗のご案内が始まっております──」
 再度、アナウンスが流れる。
 尚人は少し離れたところで微笑んでいる。
 その視線に背中を押されるように、私はエリカの手を握った。

 「いってらっしゃい」
 「うん。行ってくる!」

 エリカは手を挙げて、笑顔のままゲートをくぐった。

 その後ろ姿を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
 心の奥に灯った炎が、少しずつ熱を取り戻していく。
 尚人が隣で言った。
「いい顔してるよ、彩名も、エリカさんも」

 駐車場から空を見上げると、エリカを乗せた飛行機が夜空に向かって飛び立っていくのが見えた。
 私も歩き出そう。私の道を。

──私たちの夢は、決して消えない。
 たとえ離れていても、同じ焔が心の奥で燃え続けている。
 また会える日が来るそのときまで、この焔を絶やさずに。

──────

後半追加しました。読みづらいですね(
かなりエピソードを端折りました。これを足せばもっと奥深くなる?とかそーいう箇所を加えて、5000字ぐらいになるかな……
まぁ、いずれどこかで。

今はとても美味しいフィナンシェが食べたいです。

10/27/2025, 1:05:42 AM

〈終わらない問い〉

 取引先に間に合うように駅へ急ぎながら、ふとショーウィンドウに映った自分の顔を見て立ち止まった。
 スーツの襟は少しよれていて、ネクタイも朝より緩んでいる。
 新卒でこの営業職に就いて、もう五年目。最初の頃は、スーツを着るたびに気が引き締まったものだが、今ではただの制服みたいなものになってしまった。

 大学を出て、広告代理店の営業に入った。自分の企画が誰かの目に触れる世界に関われる──そう思っていた。
 でも現実は、数字と納期とメールの山。
アイデアを語るよりも、取引先の要望をどうまとめるか、上司にどう説明するかで一日が終わる。

 「お前はセンスがあるけど、それを通すには根回しが足りない」
 先週、上司に言われた言葉がまだ耳に残っている。
 センス。褒め言葉のようでいて、突き放されている気がした。

 思い描いていた「広告の仕事」とは、まるで違っていた。
 けれど、この業界が嫌いなわけじゃない。むしろ、好きなのだ。
 だからこそ苦しい。

 職場を出てから、しばらく夜風に当たっていた。
 通りを歩く人々の表情はみんな似ている。疲れているのに、歩みを止めない。
 その姿に自分を重ねてしまう。

 大学時代の友人が、去年、転職して教育系のベンチャーに入った。
「今さら営業なんて向いてなかった」と笑っていたが、今は楽しそうに講師をしている。
「伝える」ことが好きだと気づいたらしい。
SNSで彼の投稿を見るたびに、気持ちがざわめく。
 俺もどこかで、何かを「伝える」仕事をしたいと思っていたはずだ。
でも、何を伝えたかったのか。

 家に帰ると、机の上に置いたままのノートが目に入った。三年目の秋、取引先で大きな企画が流れた日に書き始めたノートだ。
「営業とは何か」「説得と共感の違い」「仕事の意味」──そんな問いが、走り書きで並んでいる。
 読んでも答えは見つからない。けれど、ページをめくると少し落ち着く。

 ──このまま営業を続けていいのだろうか。
 ──別の業界に飛び込んで、自分を試すべきなのか。

 何度もそう書いては消してきた。
けれど答えは、いまだにどこにもない。

 週末、取引先で知り合ったデザイナーに誘われて、久しぶりに会った。
 同い年だが、彼は独立して二年目。初めて事務所を訪れた時、小さな観葉植物と手作りのポスターが貼られ、クリエイティブな雰囲気を醸し出していた。

 酒を酌み交わすと、当然仕事の話ばかりになる。
 彼も独立して大変だろうが、苦労話も業界の愚痴もどこか楽しげだ。

「営業やってると、数字ばっか見ちゃうだろ?
 でも、俺らは数字じゃなくて、人を動かすために作ってるんだよ」

 彼の言葉がチクリと胸に刺さる。
 そうだ。俺も、人を物を、文化を動かしたくてこの業界に来たはずだった。

 帰り道、街灯の下でスマホを取り出す。
大学院のサイト、転職サイト、資格講座……いくつか開いてみては閉じた。
 どれも間違いじゃない気がするのに、どれも決定打にならない。

 ──俺が本当にやりたいのは、何だ?
 ──好きな業界にいるのに、なぜ満たされない?

 終わらない問いが、頭の中でぐるぐる回る。
 まだ何かを探している。まだあきらめていない。

 夜、ノートを開いて、新しいページに書く。

──今の自分が嫌いなわけじゃない。ただ、まだ終わりたくないだけだ。

 ペンを置いて、深く息をつく。窓の外では、どこかのネオンが点滅している。
 明日も同じように仕事をして、また数字を追う日が来るだろう。でもその中で、もう一度「好きだった理由」を思い出してみようと思う。

 この業界に入ったときの気持ち。初めて自分の提案が採用されたときの、あの小さな誇り。
 あの瞬間の熱が、まだ心のどこかに残っている気がする。

 終わらない問いを抱えたままでもいい。答えを出せないままでも、歩いていける。
 少なくとも今は、そう信じてみたいと思った。

10/25/2025, 8:50:35 PM

〈揺れる羽根〉

 リハーサルの音が体育館に響く。床に伝わる低音が足の裏をくすぐり、心臓の鼓動と重なる。
──これが、最後の舞台。
 そう思うだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 高校のダンス部に入ってから三年、ずっとこの文化祭のステージを目標にしてきた。舞台の上で踊るのは、これで最後だ。

 私がこの高校を選んだのは、中学三年のとき志望校の下見として来た文化祭がきっかけだった。
 照明が落ち、静まり返った体育館の中央に現れたのは、大きな羽根飾りのついた黒いハットをかぶったダンス部の先輩たち。音楽が始まると、羽根が光を受けて揺れた。
 裾が優雅に広がる衣裳をまとい軽やかに踊る姿は、鳥のように──いや、鳥以上に自由で美しく、私は息をするのを忘れて見入った。
『私も、あの中に入りたい』
 その時の想いが、この三年間のすべての始まりだった。

 けれど、入ってすぐに分かった。あの羽根のように軽やかに見える動きの裏には、信じられないほどの努力があった。
 放課後の体育館は、汗とスピーカーの音で満たされる。何度も同じ振りを繰り返し、足の皮は剥け、鏡の前で泣いた夜もある。
 「もう無理」と、仲間は次々に辞めていった。三年になった今、入部当初の半分以下しか残っていない。

 それでも私は続けた。
 憧れたあの舞台の、自分がその一員になれる日を信じて。

 ステージの袖では、仲間たちがメイクを整えている。羽根飾りのついたハットが並ぶ様子は、小さな鳥たちの巣のようだ。
「ひなた、緊張してる?」
 副部長の百音(ももね)が笑いながら声をかけてきた。
「うん、ちょっとね。でも、楽しみのほうが大きいかな」
「だよね。私たち、ここまで来たんだもん」

 舞台袖から覗くと、客席はあらかた埋まっている。部員の晴れ姿を撮ろうと、カメラを構える保護者が陣取る中(うちは祖母まで来ている!)、最前列に中学の制服を着た女の子が数人見えた。
 真剣なまなざしで舞台を見つめている。
 彼女たちの瞳の奥に、三年前の自分の姿が重なった。

 照明スタッフのカウントが聞こえる。ざわめいていた体育館が、少しずつ静まっていく。
 音が止まり、舞台の幕がゆっくりと上がる。

 眩しいライトの中、私はハットを深くかぶり、音楽の始まりを待った。
──ドン。
 重低音が響いた瞬間、体が自然に動き出す。

 練習で何度も刻んできたリズム。ステップ。ターン。
 体はもう考えなくても動く。観客の存在さえ忘れ、音の波の中に溶けていく。
 羽根が揺れるたび、ライトが反射して光の粒が舞う。
 私は思った。
──あの日の私も、こんな風に見えていたのかな。

 息を合わせて仲間とスピンする。汗が頬を伝う。
 もう苦しくても、止まりたくない。
 私たちは、この瞬間のために踊ってきた。

 曲が終盤に差しかかる。
 ラストのフォーメーションへと移動しながら、胸の奥が熱くなった。
 “誰かの心に残る踊りがしたい”
 その願いが、いま確かに形になっていく気がした。

 最後の一拍。
 全員で視線を合わせる。

──せーの。

 私たちは一斉にハットを投げた。
 羽根飾りが光を受け、宙を舞う。
 まるで、鳥たちが自由に空を翔けていくように。
 その光景を、私はきっと一生忘れないだろう。

 観客席から歓声が上がった。拍手の波が押し寄せる。
 私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
 重かった衣裳も、痛かった足も、もうどうでもいい。
 その瞬間、私は確かに“あの日憧れた自分”になれていた。

 舞台袖に戻ると、皆が泣きながら抱き合った。
「やったね」「最高だったよ」
 言葉にならない思いが、涙と笑顔の中に溶けていく。

 私は手に残った汗の感触を確かめながら、舞台を振り返った。
 もう二度とこの場所で踊ることはない。
──でも、羽根は揺れた。確かに、この胸の中で。

 誰かが今日の私たちを見て、憧れてくれたなら。
 いつか、あの子たちが新しい羽根をつけて舞台に立つ日が来るなら。
 それだけで、十分だ。

 私の羽根は、もう次の空へ渡っていく。

──────

私は帰宅部でしたが、部活が色々活発だったのでその頃を思い出しながら書いています。
純粋に、一つのことに打ち込めるのは学生の頃だけなのよねぇ……

10/25/2025, 3:24:41 AM

〈秘密の箱〉

 母が亡くなったのは、同居の話がまとまりかけていた矢先のことだった。
 俺が定年退職後に実家近くに戻る計画を立ててから、何度か顔を出しては様子を見ていた。
 腰も痛いと言いながら、家の中はいつも整っていて、台所の棚には使いかけの調味料が並び、茶筒の中にはまだ新しい茶葉が残っていた。
 まるで、来週もまた俺が訪ねてくると分かっていたように。

 妻と大学生の息子を連れて、三人で遺品整理に来たのは、初七日を終えた週末だった。
「思ってたより、きれいだね」と妻が言った。
「少しずつ片付けてたのかもな」
 俺は母の几帳面な性格を思い出しながら、押入れの襖を開けた。衣服は季節ごとに分けられ、引き出しの中も整然としていた。埃も少ない。手をつけるべきものがほとんどなく、淡々と作業が進んでいく。

 そのとき、息子が声をあげた。
「ねえ、これ何?」
 ちゃぶ台の下の小引き出しから、木箱を取り出していた。
 両手に乗るくらいの古びた箱。桜の模様が彫り込まれ、金具が少し錆びている。母の趣味にしては可愛らしすぎる気がした。鍵穴がついているが、鍵は見当たらない。

「開けてみる?」と妻。
 俺は少し迷った。けれど、母の残したものなら、開けずに済ますのも不自然だと思い、引き出しを探すと、奥から細い金の鍵が出てきた。

 金具を外すと、ふわりと古紙の匂いがする。中には、白いリボンでまとめられた手紙の束が入っていた。
 封筒の端が少し黄ばんでいて、差出人の名前が「瞳」とあった。見覚えのない名前だ。

「誰だろうね?」妻が首を傾げた。
「学生の頃の友達かな」
 読みたい気持ちもあったが、すぐに蓋を閉じる。なぜか、見てはいけないもののような気がした。

 押入れの奥にあった古いアルバムの隅に、一枚の写真が挟まっていた。
 学生服の母と、その隣で肩を並べる少女。
 髪を後ろで束ねて、まっすぐカメラを見ている。
 裏には、母の字でこう書かれていた。

──ひとみと。春の日。秘密の箱の約束。

 俺は写真を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 その夜、箱のことが頭から離れなかった。
 母の人生を知りたいと思う一方で、知らないままでいたい気もした。
 俺が知っている母は、いつも穏やかで、少し照れ屋で、そしてどこか遠くを見つめるような人だった。父が早くに亡くなってからは、一人で暮らしながらも寂しさを見せなかった。
 だが、夜に電話をかけると、「今、昔読んだ本を読み返していたの」と言った。その本は、たぶん、誰かとの思い出の続きだったのかもしれない。

 数日後、俺は箱に入っていた封筒の宛名と古い同窓会名簿を頼りに、差出人を探した。
 結婚した後に発行されていたものだから助かった。電話をかけると娘さんが出た。
 母の旧姓を伝えると、向こうも納得がいったようだ。
「母は今、郊外の老人ホームに入っていまして。
 私から話をしますから、面会のお返事はそれからでいいですか?」
「ええ、よろしくお願いします」

 翌週、俺は箱を持って面会に行った。
 ホームのロビーで待っていると、白いカーディガンを羽織った小柄な女性が現れた。付き添いの女性が娘さんだろう、写真の少女によく似ている。
「はじめまして。瞳と申します。
 ……愛子さんの息子さん?」
「はい。母が亡くなりまして。遺品の中に、あなたからの手紙がありました」
 しばし沈黙が流れた後、彼女は、少し笑うような声で言った。
「そう……あの手紙、見つけたのね」
 箱を差し出すと、彼女はゆっくりと両手で受け取った。
「中はご覧になった?」
「いいえ。見るのはやめました」
 彼女は小さく頷いた。
「正解ね。あの中には、他の誰にも言えなかった秘密が入っているの。私と彼女だけの」

 俺は言葉を失った。
「……そんな大切なものを、僕が持っていていいのか迷いました」
 瞳さんは微笑んだ。
「渡してくださって、ありがとう。
 私もね、彼女からの手紙を今でも持っているのよ。死んだら棺に入れてもらうつもり。
 だから、これも私が預かっておくわ」

 その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。
 母の知らない一面を垣間見たようで、同時に、その秘密を守る役を果たせたような気がした。

 帰り際、瞳さんが言った。
「愛子さんね、いつも手紙の最後に『また春になったら会おうね』って書いてくれてたの。
 なのに春が来るたびに、お互い遠慮して会わなかったのよ」
 瞳さんは少し遠い目をした。
「それでよかったのかもしれないわ。
 私たちの春は、ずっとあの頃のまま」

 ホームを出ると、夕陽が傾いていた。
 秋の風が少し冷たく、ポケットの中で鍵を指先で転がした。あの小さな箱の鍵。もう使うことはない。けれど、捨てる気にもなれなかった。

 家に戻ると、妻が夕飯の支度をしている。
 「おかえり。どうだった?」
 「箱は、渡したよ」
 「そう……どんな方だった?」
 「優しい人だった。母さんの友達って感じがした」
 カウンターの向こうで妻が微笑んだ。
 「それなら、きっとお母さんも喜んでるわね」
 俺は頷き、ポケットから小さな鍵を取り出した。掌に乗せると、金属の冷たさがまだ残っている。
 その重みを確かめながら、そっとテーブルの上に置いた。

「おばあちゃんの秘密の鍵かぁ」と息子が呟く。
「そうだな。でも、もう開ける必要はないんだ」
 俺は笑った。
「秘密ってのは、たぶん誰かが守るためにあるんだよ」

 母の部屋に差し込んでいた午後の日差しを、ふと思い出す。
 あの光の中で、母はどんな気持ちで手紙を読み返していたのだろう。その答えは、もう誰にもわからない。

 母の過去はもう閉じられた箱の中にある。
 けれど、その箱の鍵だけは、俺の掌の中で温もりを残していた。

──────

老後の身辺整理は大事!(実家と舅姑の遺品整理で体力消耗しました

10/23/2025, 11:46:49 PM

〈無人島に行くならば〉

 夕飯の支度をしながら、テレビの音が耳に入ってきた。芸能人たちが「無人島で暮らすなら、何を持っていく?」と笑いながら話している。
 包丁を動かす手を止めて、私はふと昔のことを思い出した。

 二十代の頃、まだ独身で、夢と現実の区別も曖昧だったあの頃。付き合っていた人が、突然そんなことを言い出したのだ。
「無人島に行くなら、俺はギターを持っていくな」
 私が「食料じゃなくて?」と笑うと、彼は「どうせ生き延びられないなら、音楽ぐらいは持っていたい」と言った。
 その言葉が妙に胸に残って、しばらく消えなかった。

 あれから二十年。彼のことはもう遠い記憶の彼方だ。私は結婚して、二人の子を育て、仕事も続けている。夫は穏やかで、特に不満もない。けれど――ふとした瞬間、息苦しさを感じる。
 朝から晩まで家事と仕事の往復。子どもの塾代、冷蔵庫の在庫、明日の弁当。気づけば、自分のことを考える時間なんてほとんどない。

 テレビの中で、誰かが「火打ち石があればなんとかなる!」と叫んでいる。私は思わず笑った。でもその笑いの奥に、少しだけ羨ましさが混じっていた。
 もし本当に無人島に行けたなら、私は何を持っていくだろう。
 スマホ? そんなもの、電波がなければただの板だ。
 本? 静かな時間に読みふけるのもいい。
──一番欲しいのは「時間」そのものだと思う。

 何もしなくていい時間。
 誰にも求められず、誰にも応えなくていい時間。
 潮の匂いのする風の中で、ただぼんやりと空を眺めるような。

 子どもたちの笑い声がリビングから聞こえた。慌てて現実に引き戻され、私はフライパンを火にかける。
 焦げかけたハンバーグをひっくり返しながら、思う。
 無人島なんて行かなくても、少しだけ島みたいな時間をつくれたらいいのかもしれない。

 夜、みんなが寝静まったあとに、一杯の紅茶をゆっくり飲む時間。
 それだけで、私の中の海は少し穏やかになる。

 テレビの音を消して、窓の外を見る。街の灯りが波のように瞬いていた。
 あの頃の彼なら、今もどこかでギターを弾いているだろうか。
 私は静かに笑った。

 無人島に行くなら──きっと、何も持たずに行きたい。
 そして、少しだけ自分を取り戻して、また帰ってくる。
 そんな旅ができたらいい。

──────

夫の視点で書いても面白そうですね。A面B面構成でそれぞれのお話書くとか。いつ書くのかわかりませんが。

Next