〈消えない焔〉
──夢って、どれくらいの温度で燃えるんだろう。
ガラス越しに見える空港の滑走路はライトに照らされ、飛行機の機体が光っている。
その光を見つめながら、私はそう思った。
最終便の出発ロビーは、夜遅くにも関わらず行き交う人々の声とアナウンスが交じり合う。
私はスーツケースを押すエリカの背中を見つめていた。
彼女はまっすぐ前を向き、髪をひとつに束ね、迷いのない足取りでゲートへと向かう。
あの背中を見送る日が来ることを、ずっと恐れていた。
でも、今は──胸の奥で確かに燃えている何かを感じている。
──
エリカと出会ったのは、十二年前、製菓学校の実習室だった。
初めての授業の日、私たちは一緒にバターを焦がした。
焦げた匂いを漂わせながら、講師に叱られたあと、二人で顔を見合わせて笑った。
「焦がしたけど、ちょっと香ばしくていい匂いしない?」
「こういうのを“怪我の功名”って言うんだよ」
それが、私たちの最初の会話だった。
その日から、放課後も休日もずっと一緒に過ごした。
卒業したらそれぞれ別の店に就職したけれど、夢は同じ──「いつか本場フランスで学ぶこと」。
仕事が終わったあと、深夜のカフェでレシピノートを広げながら語り合った。
「お金貯めて、一緒に行こうね」
「うん、絶対」
休日返上で、深夜までの勤務も厭わなかった。指先に残る火傷の痕も、立ち仕事で痛む足も、すべては夢のためだった。
あの頃の私たちは、焼きたてのシュー皮みたいに、熱くて張りがあって、壊れやすかった。
──
父の病が見つかったのは、今年の春のことだった。
進行が早く、手術しても長くはないと言われた。母は取り乱し、私は呆然とした。兄や姉がいたのが幸い、私だけで両親を支えるのは不可能に近い。
それでも父は穏やかで、ベッドの上で笑って言った。
「手術してお前のケーキを食べられるようになれば、あと10年は生き延びられるだろうな」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
──夢よりも、父を安心させたい。
そう思うようになったのは、その日からだ。
母や兄姉と交代で病院に向かう。
毎日ではないにしろ、仕事と看護の両立は難しい。そんな時にも職場の先輩である尚人(なおと)はずっと支えてくれた。
穏やかで、言葉よりも行動で寄り添ってくれる人だった。
私が不安で立ちすくむ夜、何も言わずコーヒーを淹れてくれるような人。
術後、父の容体が少し落ち着いた頃に尚人からプロポーズされた。
「君の人生を一緒に歩きたい」
私は頷いた。
父に安心してもらいたい一心だった。
──
エリカからフランス留学の準備を始めたと聞いたのはその頃だった。勤め先からの推薦も決まり、二週間後に出発するという。
私はその報告を聞きながら、胸の奥で焦げつくような痛みを感じた。
カフェのテーブル越しに、私はカップを握りしめて言った。
「私、海外行くのやめようと思う」
「……どういう意味?」
「日本でもパティシエはできるし、わざわざ海外じゃなくてもいいかなって」
エリカの目が、ゆっくりと細くなった。
「嘘でしょ? 彩名がそんなこと言うなんて」
「……私、もうすぐ結婚するの」
「結婚? 夢、諦めるの?」
その声には、怒りと戸惑いと、悲しみが混ざっていた。
私はきわめて平然を装う。
「変わったのよ、考えが。現実的になったっていうか」
嘘だった。本当は、父を安心させたかった。結婚式で花嫁姿を見せたかった。
「諦めた」と言えば、楽になれると思った。
けれど、その瞬間、彼女の顔からすっと光が消えた。
「諦められるほど、軽い夢だったの?」
失望に満ちたエリカの声が重くのしかかる。私は何も言うことができない。
「……がっかりした」
冷え切った口調が、心を切り裂く。エリカは席を立ち、そのまま出て行った。
残された私は、カップの中で冷めていくカフェラテを見つめながら、しばらく立ち上がることができなかった。
その夜、エリカのことを尚人に話した。
「私、あの子を傷つけた」
「本当のことを言ってないから?」
「うん……でも、言いたくなかった。
エリカのことだから、留学やめるって言い出しそうで」
尚人は少し黙って、それから言った。
「君はエリカさんを守るために夢を脇に置いた。
でも、それを“諦めた”って言うのは違うんじゃない?」
その言葉が、胸にしみる。
でも、どうしたらいいんだろう。答えが見つからない。
──私は、夢を手放したわけじゃない。ただ、少し形を変えただけ。
そう伝えるにはどうすればいいのだろう。
──
父の病院からの帰り、尚人から連絡が入る。
店じまい前の尚人の店に寄ると、エリカがここに来たと聞いた。
「今日の夜、フランスに行くとだけ伝えてください」と言ったらしい。
そして私宛にと、小さな箱を手渡されたという。とても軽い。
「Fragile!」と手書きの赤い文字。エリカの筆跡だ。そっと開ける。
──飴細工のブーケだ。細やかな花々を見事なプルドシュクレの赤いリボンがまとめている。
卒業制作のピエスモンテで賞を取ったぐらいの、エリカの得意技。
「結婚祝いだから、くれぐれも壊さないようにと釘を刺されたよ。
それから」
コックコートを脱ぎながら、静かな口調で尚人が言う。
「──言ったよ、お義父さんのこと」
「何で……」
「勝手に伝えたのは謝る。
でも、エリカさんを失望させたままでいいのかい?」
諭す言葉が温かい。
「君の本音を伝えないと、エリカさんも重荷を背負ったままだよ」
尚人も、私の中の“焔”を見抜いていたのだ。
「……謝らなきゃエリカに、私……ひどいことしちゃった……」
その時、尚人のスマホが鳴る。メッセージを確認した尚人が顔を上げる。
「彩名、行こう。空港へ」
「羽田の最終便だ、エリカさんとこの店長から聞き出した。見送りはいいって断られたらしい」
様々な想いがあふれすぎて身動きできない私を、尚人は半ば強引に車に押し込め、空港へと走り出した。
──
車は首都高を通り、湾岸線に入っていく。ビルの灯りが窓の外を流れていき、少しずつ遠ざかっていく。ターミナルまであと少しだ。
エリカはもう搭乗手続きに入っている頃だろう。
「間に合うかな」
「間に合わせよう、彩名の気持ちをきちんと伝えないと後悔するよ」
尚人のその言葉に、私は強く頷いた。
ターミナル前、車を尚人に任せて私は走り出す。
「パリ行き〇〇便、搭乗のご案内をいたします」
アナウンスが響く。
ゲート前で人混みをかき分けながら、私は彼女を探した。
白いジャケットの背中が見えた瞬間、思わず叫んだ。
「エリカ!」
エリカが振り返る。
目を見開き、そして私を見つめた。
「彩名……」
「ごめん、あの日、本当のこと言えなかった」
息が上がる。
「私、父のことでいっぱいいっぱいで、でも、夢を諦めたわけじゃない。諦められるはずがないの!」
エリカの目に涙が光った。
私は続けた。
「私も戦う。ここで、できることを全部やる。
あなたに負けないパティシエになる」
彼女は数歩近づき、私の肩を叩いた。
「バカ。そんなの、最初からわかってた。
そんな顔するなら、最初からそう言ってよ」
「ごめん」
「謝らないで。私、向こうでちゃんと頑張る。
だから、彩名も絶対に諦めないで」
パーキングから走ってきた尚人が、うちの店の紙袋を渡す。
「うちのエースが作り上げたガトーです。
どれも自信作ですよ、旅のお供にどうぞ」
エリカが袋の中を見、私を見る。ドゥミセックやミニャルディーズ、レシピからすべて私が作り上げたものだ。
「嬉しい……彩名のフィナンシェ、絶品だもの。大事にいただくね」
専門学校時代から、エリカは誉めてくれた。学校の屋上で、二人で食べながら見上げたあの空を思い出す。
エリカも同じだろう、涙目になりながらも笑っている。
「パリ行き最終便、搭乗のご案内が始まっております──」
再度、アナウンスが流れる。
尚人は少し離れたところで微笑んでいる。
その視線に背中を押されるように、私はエリカの手を握った。
「いってらっしゃい」
「うん。行ってくる!」
エリカは手を挙げて、笑顔のままゲートをくぐった。
その後ろ姿を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
心の奥に灯った炎が、少しずつ熱を取り戻していく。
尚人が隣で言った。
「いい顔してるよ、彩名も、エリカさんも」
駐車場から空を見上げると、エリカを乗せた飛行機が夜空に向かって飛び立っていくのが見えた。
私も歩き出そう。私の道を。
──私たちの夢は、決して消えない。
たとえ離れていても、同じ焔が心の奥で燃え続けている。
また会える日が来るそのときまで、この焔を絶やさずに。
──────
後半追加しました。読みづらいですね(
かなりエピソードを端折りました。これを足せばもっと奥深くなる?とかそーいう箇所を加えて、5000字ぐらいになるかな……
まぁ、いずれどこかで。
今はとても美味しいフィナンシェが食べたいです。
10/28/2025, 4:20:06 AM