汀月透子

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〈終わらない問い〉

 取引先に間に合うように駅へ急ぎながら、ふとショーウィンドウに映った自分の顔を見て立ち止まった。
 スーツの襟は少しよれていて、ネクタイも朝より緩んでいる。
 新卒でこの営業職に就いて、もう五年目。最初の頃は、スーツを着るたびに気が引き締まったものだが、今ではただの制服みたいなものになってしまった。

 大学を出て、広告代理店の営業に入った。自分の企画が誰かの目に触れる世界に関われる──そう思っていた。
 でも現実は、数字と納期とメールの山。
アイデアを語るよりも、取引先の要望をどうまとめるか、上司にどう説明するかで一日が終わる。

 「お前はセンスがあるけど、それを通すには根回しが足りない」
 先週、上司に言われた言葉がまだ耳に残っている。
 センス。褒め言葉のようでいて、突き放されている気がした。

 思い描いていた「広告の仕事」とは、まるで違っていた。
 けれど、この業界が嫌いなわけじゃない。むしろ、好きなのだ。
 だからこそ苦しい。

 職場を出てから、しばらく夜風に当たっていた。
 通りを歩く人々の表情はみんな似ている。疲れているのに、歩みを止めない。
 その姿に自分を重ねてしまう。

 大学時代の友人が、去年、転職して教育系のベンチャーに入った。
「今さら営業なんて向いてなかった」と笑っていたが、今は楽しそうに講師をしている。
「伝える」ことが好きだと気づいたらしい。
SNSで彼の投稿を見るたびに、気持ちがざわめく。
 俺もどこかで、何かを「伝える」仕事をしたいと思っていたはずだ。
でも、何を伝えたかったのか。

 家に帰ると、机の上に置いたままのノートが目に入った。三年目の秋、取引先で大きな企画が流れた日に書き始めたノートだ。
「営業とは何か」「説得と共感の違い」「仕事の意味」──そんな問いが、走り書きで並んでいる。
 読んでも答えは見つからない。けれど、ページをめくると少し落ち着く。

 ──このまま営業を続けていいのだろうか。
 ──別の業界に飛び込んで、自分を試すべきなのか。

 何度もそう書いては消してきた。
けれど答えは、いまだにどこにもない。

 週末、取引先で知り合ったデザイナーに誘われて、久しぶりに会った。
 同い年だが、彼は独立して二年目。初めて事務所を訪れた時、小さな観葉植物と手作りのポスターが貼られ、クリエイティブな雰囲気を醸し出していた。

 酒を酌み交わすと、当然仕事の話ばかりになる。
 彼も独立して大変だろうが、苦労話も業界の愚痴もどこか楽しげだ。

「営業やってると、数字ばっか見ちゃうだろ?
 でも、俺らは数字じゃなくて、人を動かすために作ってるんだよ」

 彼の言葉がチクリと胸に刺さる。
 そうだ。俺も、人を物を、文化を動かしたくてこの業界に来たはずだった。

 帰り道、街灯の下でスマホを取り出す。
大学院のサイト、転職サイト、資格講座……いくつか開いてみては閉じた。
 どれも間違いじゃない気がするのに、どれも決定打にならない。

 ──俺が本当にやりたいのは、何だ?
 ──好きな業界にいるのに、なぜ満たされない?

 終わらない問いが、頭の中でぐるぐる回る。
 まだ何かを探している。まだあきらめていない。

 夜、ノートを開いて、新しいページに書く。

──今の自分が嫌いなわけじゃない。ただ、まだ終わりたくないだけだ。

 ペンを置いて、深く息をつく。窓の外では、どこかのネオンが点滅している。
 明日も同じように仕事をして、また数字を追う日が来るだろう。でもその中で、もう一度「好きだった理由」を思い出してみようと思う。

 この業界に入ったときの気持ち。初めて自分の提案が採用されたときの、あの小さな誇り。
 あの瞬間の熱が、まだ心のどこかに残っている気がする。

 終わらない問いを抱えたままでもいい。答えを出せないままでも、歩いていける。
 少なくとも今は、そう信じてみたいと思った。

10/27/2025, 1:05:42 AM