〈秘密の箱〉
母が亡くなったのは、同居の話がまとまりかけていた矢先のことだった。
俺が定年退職後に実家近くに戻る計画を立ててから、何度か顔を出しては様子を見ていた。
腰も痛いと言いながら、家の中はいつも整っていて、台所の棚には使いかけの調味料が並び、茶筒の中にはまだ新しい茶葉が残っていた。
まるで、来週もまた俺が訪ねてくると分かっていたように。
妻と大学生の息子を連れて、三人で遺品整理に来たのは、初七日を終えた週末だった。
「思ってたより、きれいだね」と妻が言った。
「少しずつ片付けてたのかもな」
俺は母の几帳面な性格を思い出しながら、押入れの襖を開けた。衣服は季節ごとに分けられ、引き出しの中も整然としていた。埃も少ない。手をつけるべきものがほとんどなく、淡々と作業が進んでいく。
そのとき、息子が声をあげた。
「ねえ、これ何?」
ちゃぶ台の下の小引き出しから、木箱を取り出していた。
両手に乗るくらいの古びた箱。桜の模様が彫り込まれ、金具が少し錆びている。母の趣味にしては可愛らしすぎる気がした。鍵穴がついているが、鍵は見当たらない。
「開けてみる?」と妻。
俺は少し迷った。けれど、母の残したものなら、開けずに済ますのも不自然だと思い、引き出しを探すと、奥から細い金の鍵が出てきた。
金具を外すと、ふわりと古紙の匂いがする。中には、白いリボンでまとめられた手紙の束が入っていた。
封筒の端が少し黄ばんでいて、差出人の名前が「瞳」とあった。見覚えのない名前だ。
「誰だろうね?」妻が首を傾げた。
「学生の頃の友達かな」
読みたい気持ちもあったが、すぐに蓋を閉じる。なぜか、見てはいけないもののような気がした。
押入れの奥にあった古いアルバムの隅に、一枚の写真が挟まっていた。
学生服の母と、その隣で肩を並べる少女。
髪を後ろで束ねて、まっすぐカメラを見ている。
裏には、母の字でこう書かれていた。
──ひとみと。春の日。秘密の箱の約束。
俺は写真を見つめたまま、しばらく動けなかった。
その夜、箱のことが頭から離れなかった。
母の人生を知りたいと思う一方で、知らないままでいたい気もした。
俺が知っている母は、いつも穏やかで、少し照れ屋で、そしてどこか遠くを見つめるような人だった。父が早くに亡くなってからは、一人で暮らしながらも寂しさを見せなかった。
だが、夜に電話をかけると、「今、昔読んだ本を読み返していたの」と言った。その本は、たぶん、誰かとの思い出の続きだったのかもしれない。
数日後、俺は箱に入っていた封筒の宛名と古い同窓会名簿を頼りに、差出人を探した。
結婚した後に発行されていたものだから助かった。電話をかけると娘さんが出た。
母の旧姓を伝えると、向こうも納得がいったようだ。
「母は今、郊外の老人ホームに入っていまして。
私から話をしますから、面会のお返事はそれからでいいですか?」
「ええ、よろしくお願いします」
翌週、俺は箱を持って面会に行った。
ホームのロビーで待っていると、白いカーディガンを羽織った小柄な女性が現れた。付き添いの女性が娘さんだろう、写真の少女によく似ている。
「はじめまして。瞳と申します。
……愛子さんの息子さん?」
「はい。母が亡くなりまして。遺品の中に、あなたからの手紙がありました」
しばし沈黙が流れた後、彼女は、少し笑うような声で言った。
「そう……あの手紙、見つけたのね」
箱を差し出すと、彼女はゆっくりと両手で受け取った。
「中はご覧になった?」
「いいえ。見るのはやめました」
彼女は小さく頷いた。
「正解ね。あの中には、他の誰にも言えなかった秘密が入っているの。私と彼女だけの」
俺は言葉を失った。
「……そんな大切なものを、僕が持っていていいのか迷いました」
瞳さんは微笑んだ。
「渡してくださって、ありがとう。
私もね、彼女からの手紙を今でも持っているのよ。死んだら棺に入れてもらうつもり。
だから、これも私が預かっておくわ」
その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。
母の知らない一面を垣間見たようで、同時に、その秘密を守る役を果たせたような気がした。
帰り際、瞳さんが言った。
「愛子さんね、いつも手紙の最後に『また春になったら会おうね』って書いてくれてたの。
なのに春が来るたびに、お互い遠慮して会わなかったのよ」
瞳さんは少し遠い目をした。
「それでよかったのかもしれないわ。
私たちの春は、ずっとあの頃のまま」
ホームを出ると、夕陽が傾いていた。
秋の風が少し冷たく、ポケットの中で鍵を指先で転がした。あの小さな箱の鍵。もう使うことはない。けれど、捨てる気にもなれなかった。
家に戻ると、妻が夕飯の支度をしている。
「おかえり。どうだった?」
「箱は、渡したよ」
「そう……どんな方だった?」
「優しい人だった。母さんの友達って感じがした」
カウンターの向こうで妻が微笑んだ。
「それなら、きっとお母さんも喜んでるわね」
俺は頷き、ポケットから小さな鍵を取り出した。掌に乗せると、金属の冷たさがまだ残っている。
その重みを確かめながら、そっとテーブルの上に置いた。
「おばあちゃんの秘密の鍵かぁ」と息子が呟く。
「そうだな。でも、もう開ける必要はないんだ」
俺は笑った。
「秘密ってのは、たぶん誰かが守るためにあるんだよ」
母の部屋に差し込んでいた午後の日差しを、ふと思い出す。
あの光の中で、母はどんな気持ちで手紙を読み返していたのだろう。その答えは、もう誰にもわからない。
母の過去はもう閉じられた箱の中にある。
けれど、その箱の鍵だけは、俺の掌の中で温もりを残していた。
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老後の身辺整理は大事!(実家と舅姑の遺品整理で体力消耗しました
10/25/2025, 3:24:41 AM