汀月透子

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〈無人島に行くならば〉

 夕飯の支度をしながら、テレビの音が耳に入ってきた。芸能人たちが「無人島で暮らすなら、何を持っていく?」と笑いながら話している。
 包丁を動かす手を止めて、私はふと昔のことを思い出した。

 二十代の頃、まだ独身で、夢と現実の区別も曖昧だったあの頃。付き合っていた人が、突然そんなことを言い出したのだ。
「無人島に行くなら、俺はギターを持っていくな」
 私が「食料じゃなくて?」と笑うと、彼は「どうせ生き延びられないなら、音楽ぐらいは持っていたい」と言った。
 その言葉が妙に胸に残って、しばらく消えなかった。

 あれから二十年。彼のことはもう遠い記憶の彼方だ。私は結婚して、二人の子を育て、仕事も続けている。夫は穏やかで、特に不満もない。けれど――ふとした瞬間、息苦しさを感じる。
 朝から晩まで家事と仕事の往復。子どもの塾代、冷蔵庫の在庫、明日の弁当。気づけば、自分のことを考える時間なんてほとんどない。

 テレビの中で、誰かが「火打ち石があればなんとかなる!」と叫んでいる。私は思わず笑った。でもその笑いの奥に、少しだけ羨ましさが混じっていた。
 もし本当に無人島に行けたなら、私は何を持っていくだろう。
 スマホ? そんなもの、電波がなければただの板だ。
 本? 静かな時間に読みふけるのもいい。
──一番欲しいのは「時間」そのものだと思う。

 何もしなくていい時間。
 誰にも求められず、誰にも応えなくていい時間。
 潮の匂いのする風の中で、ただぼんやりと空を眺めるような。

 子どもたちの笑い声がリビングから聞こえた。慌てて現実に引き戻され、私はフライパンを火にかける。
 焦げかけたハンバーグをひっくり返しながら、思う。
 無人島なんて行かなくても、少しだけ島みたいな時間をつくれたらいいのかもしれない。

 夜、みんなが寝静まったあとに、一杯の紅茶をゆっくり飲む時間。
 それだけで、私の中の海は少し穏やかになる。

 テレビの音を消して、窓の外を見る。街の灯りが波のように瞬いていた。
 あの頃の彼なら、今もどこかでギターを弾いているだろうか。
 私は静かに笑った。

 無人島に行くなら──きっと、何も持たずに行きたい。
 そして、少しだけ自分を取り戻して、また帰ってくる。
 そんな旅ができたらいい。

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夫の視点で書いても面白そうですね。A面B面構成でそれぞれのお話書くとか。いつ書くのかわかりませんが。

10/23/2025, 11:46:49 PM