〈光と影〉
私がイラストレーターになって、12年が経った。
どんなキャラクターでも柔らかな光に包まれているように描く。そんな画風が支持され、フォロワーに支えられて長い間絵を続けている。
穏やかな表情、やさしい色、あたたかな光。見た人が少しでも癒やされるように──そう願いながら描き続けてきた。
いつしか「光の魔術師」と呼ばれるようになり、企業案件も絶えない。
けれど、誰も知らない。私が対人恐怖症で、人と直接目を合わせて話せないことを。
家族と話すのが精いっぱい、買い物はネット通販と深夜のスーパーだ。今はセルフレジを導入する店が増えたので助かる。
打ち合わせはすべてオンライン。モニター越しなら笑顔も作れるし、声も落ち着いて出せる。
けれど、実際に人と向き合うとなると、喉の奥がぎゅっと縮まり、言葉が出なくなる。だから私は、インターネットという「壁」に守られて生きていた。
そんなある日、久しぶりにギャラリーへ足を運んだ。SNSのおすすめで流れてきて以来、ずっと気になっていた一人のイラストレーター、「K」の個展だった。
展示されていたのは、すべて“影”を描いた作品。水彩、アクリル絵の具、鉛筆……様々な画材を用い、描かれたものだ。
人の影、建物の影、木々の影──光そのものはほとんど描かれていないのに、不思議と温度があった。黒と灰色の濃淡の中、モチーフの一点だけ色がついている。そこだけ世界が呼吸しているようだった。
「……影の方が、本当のことを語ると思って描いてます」
背後から声がして、私は身を固くした。
振り返ると、黒いシャツを着た三十代くらいの女性が立っていた。「K」本人──烏丸ケイだった。
彼女は穏やかな目をしていたが、どこか深いところで何かを見つめているような視線だった。
「光は嘘をつく。でも、日下部さんの光は、優しい嘘だと思う」
不意に自分の名前を呼ばれ、息をのんだ。
「私のこと、ご存知でしたか」
「もちろん。以前、あなたの記事を書いたことがあります。
Webニュースで“光の絵師”として紹介した特集、覚えていませんか?」
「あの……“手をつなぐ光”ってタイトルの?」
「そう。それを書いたのが私。」
彼女はギャラリーの椅子に腰を下ろす。どうぞ、と促される。
「あの記事を書く前、あなたのイラストを見て三日間泣きました」
「……泣いた?」
「ええ。あの頃の私は人の苦しみを記事にすることしかできなくて。書くほど心が削れていく気がしてた。そこにあなたの特集記事の話が来て……
あなたの光を見た瞬間、少しだけ“生きてていいのかも”って思えたんです」
彼女の言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。そんな風に誰かを救えるなんて、考えたこともなかった。
「あなたの光は嘘かもしれない。
でも、誰かを照らすなら、それは真実ですよ」
その日を境に、私たちは連絡を取り合うようになった。
最初はメッセージだけだったが、やがてケイが「会って話しませんか」と言ってきた。私は迷った。けれど、不思議と怖くはなかった。
カフェで会ったケイは、イメージ通り静かな人だ。お互い人の目を見られず、話すときは少し視線を外していた。
けれど、その沈黙は心地よかった。
「こうしてお話していると、晶さんがなぜ直接取材を受けないのか、わかった気がします」
見透かされ、私は観念して話し出す。
「……人が怖いんです。
目を合わせると、心の奥を覗かれる気がして」
「わかります。私は逆に、見ないようにしてた。
書くことで、自分の中の何かを見ないようにしてたんです」
否定されることなく、私は安堵した。
「ケイさんは……今も、ライターを?」
「やめました。五年前に。
もう人の痛みを文字にするのが怖くなって」
彼女はカップを手の中で転がしながら、遠くを見るように言った。
「言葉じゃ救えない人を、たくさん見てきました。
だから、逃げたんです。絵なら、何も言わずに寄り添える気がしたから」
ふぅとついたため息に、彼女のそれまでの苦悩が目に見えるようだ。
この人は共感し過ぎるのだろう。痛みをその身に受けすぎたのだ。
私とは違う、心の傷を抱えている。
「……逃げることって、悪いことですかね」
「いいえ。生き延びるためには、逃げることも必要だと思います。
あなたも、光に逃げたんでしょう?」
その通りだ。自分の闇を直視したくないが故の、光の表現。
図星すぎて、私は思わず笑ってしまった。ケイも笑った。
私たちはその夜、初めて互いを向きあい、笑い合えた。
それから何度も会って話すうちに、ケイの博識さに私は舌を巻いた。
美大を出て美術系雑誌のライティングをしていたが、取材能力と文の上手さに様々なところから声がかかったらしい。
「雑食ライターですよ」と言うが、取材前の下調べを欠かさないのだろう。
全く私が知らないことでも、彼女が話す内に興味が出てくるのだ。
──今までとは違うスタイルで、絵を描きたい。
彼女の話は、私の創造の翼を広げてくれるのだった。
ケイはぽつりと提案した。
「二人展をやりませんか。
あなたが光を描いて、私が影を描く。同じモチーフで、対になるように」
「……光と影、ですか」
「そう。片方だけじゃ、世界は立体にならない。
あなたの光は私の影を映し出すし、私の影はあなたの光を際立たせると思う」
「そんなふうに並べたら……私の光、偽物に見えちゃうかもしれません」
「偽物でもいいんです。本気で描けば、それがあなたの真実になります」
その言葉に、胸の奥が震えた。
準備の期間、私は初めて“影”を描いてみた。黒を塗るたびに胸がざわつく。
「影は、光があった証なんです。あなたがここまで描いてきた光、その裏にちゃんと影があったはず」
ケイが、そっと言葉を添えてくる。
「……自分の影を見たくなかっただけかもしれません」
「でも、それを見られるようになったなら、それも光ですよ」
そのやりとりが、私を変えていった。
一年後の二人展は「Between Light and Shadow ― 光と影のあいだで ―」と題された。会場には、私の光の絵とケイの影の絵が並んだ。
来場者たちは、二つの絵を行き来しながら静かに佇んでいた。
最後のエリアでは、意図的に二人の絵を並べた。光から影へ、影から光へとつながるような構図で描いたものだ。
大きな号数のキャンバス2枚、迫力のある作品になった。
「見てください。あの人、泣いてる」
ケイが小声でつぶやく。
「私たちの想いは届いたのかな」
「届いてますよ。光にも、影にも」
最終日、私は観客の前で短い挨拶をした。声は震えたけれど、ケイが横で小さくうなずいてくれた。
「光があるから影ができる。影があるから光を感じられる。
その両方を、私はこれからも描きたいです」
拍手の音が、胸の奥で柔らかく響いた。
私はまだ、人前では緊張する。でも今は、ケイと並んで立てる。
完璧な光である必要なんてない。影があるからこそ、光は生まれる。
「ねえ、晶さん」
帰り道、ケイが言った。
「あなたの光と私の影、原点は一緒ですよ」
「え?」
「どっちも、誰かを照らすために描いてる。だから、同じなんですよ」
私は笑った。
「じゃあ、これからも一緒に描きましょう。光と影の間で」
ケイがうなずいた。街灯の下、二人の影が並んで伸びた。
その影を見つめながら、私は思った。
光も影も、私の中にある。
それを受け入れて描いていけるなら、それがきっと、私の“真実”だ。
──
一時、誰にも会いたくなくて深夜や早朝に営業してるスーパーに通っていました。
早朝の某肉系スーパーは前日のパックに割引シールをガンガン貼ってくれましたねぇ。
ケイさんの「K」は、CMYKのKになぞらえてます。印刷の4色。
でも、Kのインクに少しMを加えると、深みのある黒になるんですよー。
11/1/2025, 4:55:32 AM