汀月透子

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〈秘密の標本〉

「父さん、元気?」
 電話口から娘の声が聞こえる。

「週末、時間あるか。少し話したいことがあるんだ」
「うん、大丈夫。土曜の午後なら行けるよ。どうしたの?」
「いや、大したことじゃない。顔を見たくなっただけだ」

 娘は少し笑って、わかったと言った。電話を切ると、私は書斎の棚を見上げた。
 そこには背表紙に年号だけが記された黒いノートが、五十三冊並んでいる。「秘密の標本」とも呼ぶべきコレクションだ。

 医師から余命を告げられた日から、私はこのノートたちの処分について考え続けている。

──

 最初の一冊は、大学時代に始まった。親友が酔った勢いで漏らした告白──好きな女性の名前、抱えていた借金、父親への憎しみ。
 翌朝、彼はきっと忘れているだろう。でも私は忘れられなかった。だからノートに書き留めた。それが始まりだった。

 教師として三十年。隣人として、友人として、私は人々の秘密を「聞いてしまった」。
 職員室での同僚の愚痴、保護者面談での家族の事情、喫茶店で偶然耳にした他人の会話。
 人は私に秘密を打ち明けたがった。

 ノートには日付とイニシャル、そして秘密が几帳面に記録されている。
 それは私なりの「人間理解」だった。秘密を知ることで、人の本質が見えると信じていた。

──

 しかし今、これらをどうすべきか。

 燃やすべきだろうか。だがこれは私の人生そのものでもある。
 誰かに託すべきか。それは秘密の裏切りになる。

 迷いながら、私は一冊のノートを手に取った。一九九五年と書かれている。
 ページを繰っていくと、妻のイニシャルが目に入った。

「M.T.は言った──
 あなたは人の秘密ばかり集めて、自分のことは何も話してくれない。私はあなたの妻なのに、あなたを知らない」

 指が震えた。これは秘密ではなかった。妻の訴えだった。
 なのに私は、それを一つの「標本」として記録し、理解した気になっていた。そして何も変わらなかった。

 あの夜の台所の光景が蘇る。

「ねえ、あなた。人の話ばかり覚えてるけど、私のことは覚えてる?」
「覚えてるよ。そんなことしつこく言うな」
「覚えてるって言うけどね、私には“あなた自身”が見えないの」

 妻はそう言って、少し笑った。
 私にはその笑顔の意味が分からなかった。いや、分かろうとしなかったのだろう。

 妻は五年前に亡くなった。最期まで、私は自分を見せることができなかった。

 私は最後の一冊、二〇二五年と記された新しいノートを開いた。白いページに初めて「自分自身の秘密」を書く。

「私は人を愛する方法を知らなかった。
 秘密を集めることで人に近づいた気がしていたが、それは一方的な覗き見だった。
 私自身は、誰にも触れられない場所で標本を眺めていただけだ」

 深く息をついてペンを置き、私はすべてのノートを庭に持ち出した。

 火種を入れた焼却炉に、ノートを一冊一冊投げ込む。ノートは、ゆっくりと炎に包まれていく。
 人々の秘密が、煙となって消えていく。

 五十二冊まで投げ込んだ後、ただ一冊、最後のノートだけは残した。

──

「明日行くけど、何か必要なものない? 買い物してから向かうよ」
「ああ、そうだな。牛乳が切れていたかもしれない」
「わかった。他には?」
「いや、それだけで十分だ」

 明日、娘が来たときにこのノートを渡そう。私の唯一の、本当の標本として。

 秘密のコレクションは終わる。初めて、誰かに自分を見せることができる。
 遅すぎたかもしれないが、それでも。

──────

この話を考えていて、妻視点や娘視点で書いても面白そうだなと思いました。
「秘密」が標本なのか、標本が秘密なのか、どちらに軸を置いてみてもいいかもしれません。

11/2/2025, 3:50:30 PM