汀月透子

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10/31/2025, 3:52:36 AM

〈そして、の先へ〉

 「主任、プレゼンの予行演習、見てもらえませんか」
 昼休み明け、大城が資料の束を抱えて俺の席にやってきた。入社三年目、真面目で素直なやつだ。少し頼りないが、こうして自分から声をかけてくるあたり、成長していると思う。
 初めて一人で進める大型プロジェクトに向けて、相当気合いが入っている。

 会議室のプロジェクターに資料を映し、大城が説明を始めた。
「そして、この新モデルは従来品より二〇パーセント軽量化されています。そして、コストも削減でき、そして……」
 思わず手を挙げた。
「待て、大城。『そして』が三連発だ」
大城は肩をすくめる。
「あ、つい」

 彼の資料はよくできている。話の流れも悪くない。ただ、つなぎが甘い。言葉の勢いに頼っている。
「客先では一言一言に重みが出る。『そして』で繋ぐと、どこも主語にならない」
「なるほど……」と頷く大城の額に、うっすら汗が光っていた。

「でも主任、間があると落ち着かないんですよ」
「わかるよ。けど、“間”もプレゼンの一部だ。相手に考える時間を渡すんだ」
 大城は真剣に頷いた。その目が、昔の自分と重なる。
 俺は少し意地悪く笑って言った。
「俺も学生の頃、似たようなこと言われたよ。レポートに『そして』を多用して、教授に『お前の文章はマラソンか』って怒られた」
 大城が吹き出す。
「走り続けてたんですね」
「そう。止まるのが怖かったんだと思う。
 話が途切れたら、相手が興味をなくすんじゃないかって」
 俺は気づいた点をまとめたメモを大城に渡し、肩を叩く。
「全体の流れはいいぞ、言葉のつなぎ方を工夫するんだな」
「はい、ありがとうございました」

 その日の帰り道、大城の練習映像を頭の中で再生する。
 拙いが、彼の言葉には真面目さがあった。間を怖がりながらも、一生懸命つなげようとしていた。
 新人時代の自分が重なる。沈黙を恐れ、空気を埋めるように喋っていたあの頃。
 今は黙ることも、言葉のうちだと知った。教えてくれたのは、先輩達だ。
 マニュアルでは伝えきれないことを、次の世代につないでいくのが今の俺の役目だが、彼らに伝わっているのかと不安が頭をよぎる。

 翌朝、出社するとき、思いついて付箋を一枚書いた。
《“そして”を減らすと、言葉が締まる。でも、伝えたい気持ちは減らすな》
 それを大城のデスクにそっと置いた。

 本番の午後。
 大城は少し硬い表情で顧客の前に立った。
「……この新モデルは、従来より二〇パーセント軽くなりました。」
 そして、と言いかけて、口を閉じる。一瞬の沈黙のあと、落ち着いた声で続けた。
「その分、使いやすくなりました。是非ともお試しいただけますでしょうか」
 その一言に、場の空気が変わった。
 俺は心の中で小さくガッツポーズをした。

 終わったあと、大城が照れたように笑った。
「途中で“そして”が出そうになって、止めました」
「いい判断だ。止める勇気ってのも必要だからな」
 そう言いながら、俺も笑った。
 そして──いや、その先はもう、言わなくてもいいだろう。彼自身が未来につないでいくことだ。

──────

「お前の文章はマラソンか」のくだりは、私が学生時代に言われた言葉です。
 文章もプレゼンも、ペース配分大事。

10/30/2025, 8:27:56 AM

〈tiny love〉

 姉が赤ちゃんを連れてきた。生まれてまた一週間、しばらくうちで過ごす。
 居間の空気が少し甘く、どこか粉ミルクの匂いが混じっている。姉は少しやつれて見えたけれど、腕の中の赤ちゃんを見つめる目だけはとても優しい。

 「ほら、これがあんたの姪っ子」
 白く柔らかなおくるみに包まれたその子は、ほんのり桜色をしている。まだ人間というより“芽”のようだった。
 私はただ「ちっちゃい……」とつぶやくしかなかった。

 その夜、私はなかなか寝つけなかった。
 三時間おきに、決まったように赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるからだ。
 ぎゃーぎゃー泣く訳じゃない。小さな小さな声は、子猫のようだった。
「おなか、すいたんだね」
 隣の部屋から母の声がして、少し遅れて姉の足音。私はトイレに行くふりをして、様子を見に行った。
 姉は寝ぼけたまま赤ちゃんを抱き上げ、よろよろと座布団に腰を下ろす。薄暗いスタンドの光の中、姉はシャツのボタンを外し、まだ慣れない手つきで胸に赤ちゃんの口元を導く。そしてそのままそのまま目を閉じ、うつらうつらと船をこぐ。
 髪は少し乱れ、顔には疲れが刻まれている。それでも、腕の中の命を離そうとしない姿が、妙にまぶしかった。
 私は戸口から見ているだけだった。何か言うと空気を壊してしまいそうで、声を出せなかった。
「眠れない?」
 私に気づいた母がささやく。私は横に首を振る。
「トイレに起きただけ」
「ふふ……まだまだ静かな方よ。懐かしいわね」
 母は小さく笑った。きっと私たちが赤ん坊だったころを思い出しているのだろう。

 部屋に戻り、ベッドにもぐり込む。さっきの姉の顔を思い出す。
 あんなに優しい顔、できるのか……私が知らない、「母」の顔だった。

 翌朝、姉は「あんた、全然寝てないでしょう」と笑いながら朝ご飯を食べていた。すごい食欲だ。
 赤ちゃんが傍らの布団の中でむずかり始める。
「抱っこしてみる?」
 姉に言われて、私は戸惑った。けれど、昨日の夜の光景が頭に浮かんで、思い切って抱き上げる。
 軽い。けれど、確かな重みがある。ミルクと石けんの匂い。
 人形のような小さな手に、恐る恐る指をのばす。細い指が、私の人差し指をぎゅっとつかむ。
 その小さな力に、心の奥で何かが動いた。怖いというより、守りたくなるような気持ち。
 そんな私に応えるように、あくびともため息ともつかないような、小さな声が唇からこぼれる。
「にぎやかなんだって、この子。沐浴のときももぐもぐ何かしゃべってるって、看護師さんにも評判だったよ」
 姉が笑う。
「抱っこして、おっぱいあげて……ちゃんと生きてるんだなって思う」

 ふと、白湯を飲む手を止めて、姉がつぶやく。
「ねえ、この子の名前考えてよ」
「え、まだ決めてなかったの?」
 母が目を丸くする。
 驚いた、生まれて一週間以上経つのに。
「生まれる前から考えていた候補はいくつかあるけど、しっくりこなくて。
 あんたなら、どんなの思いつく?」

 私は驚きながらも、赤ちゃんの寝顔を見つめた。
 「……“芽”って字、どう? なんか、始まりの感じがしていいかも」
 「芽、か。いいね」
 「たとえば“芽衣(めい)”とか、“芽生(めい)”とか……“萌芽”……これはちょっと読みづらいかぁ」
 姉が笑って、「名づけ会議だね」と言いながらメモ帳を取り出した。

 夕方、お義兄さんに電話をかけて、私が考えた名前を伝える。スピーカー越しに、「“芽生”っていいな。今の季節にちょうどいい」と言うと、姉の顔がふっとやわらいだ。
 「うん……“芽生”にしようか」
 そう言って、姉はそっと赤ちゃんのほっぺに指を触れた。
 「ようこそ、めいちゃん」

 それからの日々、家は三時間ごとのリズムで回った。泣き声が合図のように響き、姉が半分寝たまま授乳する。母が支え、私は洗濯を担う。
 父はほとんど戦力外、おろおろしながら見守るだけ。お義兄さんが週末こちらに来たときは、二人して大騒ぎしながら沐浴させていた。
 そんな単純な繰り返しの中で、私は少しずつこの小さな命を好きになっていった。

 木々が新緑をたたえ、ゴールデンウィークが終わる頃、姉が「そろそろ帰るね」と言った。
 姉に抱かれるめいちゃんに、私は小さく手を振った。
 またすぐ会えるのに、胸の奥がぎゅっと痛む。

 tiny love──小さな小さな、愛。
 これが、愛なんだと思う。

──────

引き続き体調不良です。
脳内で「めーいちゃーん」と、かんたのおばあちゃんが叫んでいます。(トトロ

10/29/2025, 3:59:18 AM

〈おもてなし〉

 息子の大地が「今度、彼女を家に連れてくる」と言ったのは、夕食後の何気ない一言だった。
 味噌汁をすする手が止まり、私は思わず聞き返した。
「えっ、いつ?」
「来週の日曜」
 さらっと言って、彼は冷蔵庫から麦茶を取り出す。まるで天気の話でもするような調子に、拍子抜けする。

 来週の日曜まで、たった一週間。私だけが浮き足立っていた。
 家の中は散らかっていないかしら。玄関の花は枯れてなかった? 客用の茶碗はどこに仕舞ったっけ。お菓子は? お昼はどうしましょう。
 頭の中で次々とリストが浮かぶ。まるで学生時代の試験前に戻ったようだ。

「佐和子さん、そんな顔しないの」
 義母のふみさんが、湯呑を片手に笑っている。
「あなたも昔、初めてうちに来たとき、緊張でガチガチだったじゃない。
 必死に笑顔作って」

 確かに。
 三十年前、初めてこの家を訪れたとき、私は完璧な「良い娘」を演じていた。料理上手、礼儀正しく、控えめで。
 本当の私は、そんなに器用な人間じゃないのに。

「お義母さんだって、最初は優しい姑を演じてたでしょう」
 私は負けじと返す。
「あら、バレてた?」
 ふみさんはケラケラと笑った。

 初めて会った時のふみさんは、今よりもずっと上品だった気がする。出てきた料理はまるで高級割烹のようで、畏れおののいたものだ。
 今ではすっかり本性を現して、私と漫才のようなやりとりをする仲になってしまったけれど。

「まーたふたりでじゃれてる……」
 読んでいた新聞をたたんで、一雄がため息をついた。こんな調子で三十年、嫁姑漫才も見飽きたという顔だ。
「お父さんだって、初めてうちに来たとき、猫かぶってたくせに」
「やめてくれよ、もう三十年も前の話だ」

 ふみさんは、ふふんと鼻を鳴らして湯呑を置く。
「私が三十年前に味わった気持ち、あなたも味わいなさい」
「……それ、脅しに聞こえます」
「母親ってそういうものよ。
 息子の“彼女”が来るとなったら、誰だってそわそわするでしょう」
「楽しみでもあり、怖くもあり、ですね」

 私は笑いながらも、心の中でふみさんの言葉を反芻した。

 実のところ、非常に複雑な気持ちだ。嬉しいような、寂しいような。息子が大人になって、自分の人生を歩み始めている。

 ふみさんも同じだったんだろう。愛する息子を他人に盗られるんだ。
 でも、ふみさんは私を実の子のように扱ってくれた。叱るときは本気で叱る。私が言い返して夫がおろおろしていても、なぜ叱るのか、理由を述べる。
 「嫁」ではなく、一人の大人として扱ってくれたのだ。
 よその人と話していても、「うちの嫁」なんて言わない。必ず「佐和子さん」と言ってくれる。いわゆる嫁姑バトルとは縁遠いのかもしれない。
 だから、私も「ふみさん」と呼ぶ。

「……おもてなしって、他人だからできるのよ」
「ですよねぇ」
 “おもてなし”って、ただ掃除してご馳走を用意することじゃない。
 息子が選んだ人を、息子の未来ごと受け入れること。
 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 それでも不安は消えない。
 どんな娘さんなんだろう。明るい子か、静かな子か。料理が得意? それともキャリア志向?
 ふみさんは、もう結婚が決まったかのように目を輝かせた。
「どんな娘さんが来るのかしらねぇ。楽しみだわ」
 私は苦笑いするしかなかった。

 来週の日曜日。どんな「おもてなし」になることやら。
 でも、ありのままの私たちを見てもらうのも、悪くないかもしれない。そう思えるようになったのは、三十年間、この家族で過ごしてきたからだろう。

 窓の外では夕焼けがゆっくりと色を変えていた。

──────
体調不良です。上手くまとめられず、ふみさん佐和子さんもそれほど漫才になってません。
でもこのコンビはお気に入りなので、またそのうちどこかでお話を書きたいものです。

10/28/2025, 4:20:06 AM

〈消えない焔〉

──夢って、どれくらいの温度で燃えるんだろう。
 ガラス越しに見える空港の滑走路はライトに照らされ、飛行機の機体が光っている。
 その光を見つめながら、私はそう思った。

 最終便の出発ロビーは、夜遅くにも関わらず行き交う人々の声とアナウンスが交じり合う。
 私はスーツケースを押すエリカの背中を見つめていた。
 彼女はまっすぐ前を向き、髪をひとつに束ね、迷いのない足取りでゲートへと向かう。

 あの背中を見送る日が来ることを、ずっと恐れていた。
 でも、今は──胸の奥で確かに燃えている何かを感じている。

──
 エリカと出会ったのは、十二年前、製菓学校の実習室だった。
 初めての授業の日、私たちは一緒にバターを焦がした。
 焦げた匂いを漂わせながら、講師に叱られたあと、二人で顔を見合わせて笑った。

「焦がしたけど、ちょっと香ばしくていい匂いしない?」
「こういうのを“怪我の功名”って言うんだよ」

 それが、私たちの最初の会話だった。
 その日から、放課後も休日もずっと一緒に過ごした。
 卒業したらそれぞれ別の店に就職したけれど、夢は同じ──「いつか本場フランスで学ぶこと」。

 仕事が終わったあと、深夜のカフェでレシピノートを広げながら語り合った。
「お金貯めて、一緒に行こうね」
「うん、絶対」

 休日返上で、深夜までの勤務も厭わなかった。指先に残る火傷の痕も、立ち仕事で痛む足も、すべては夢のためだった。
 あの頃の私たちは、焼きたてのシュー皮みたいに、熱くて張りがあって、壊れやすかった。

──

 父の病が見つかったのは、今年の春のことだった。
 進行が早く、手術しても長くはないと言われた。母は取り乱し、私は呆然とした。兄や姉がいたのが幸い、私だけで両親を支えるのは不可能に近い。
 それでも父は穏やかで、ベッドの上で笑って言った。

「手術してお前のケーキを食べられるようになれば、あと10年は生き延びられるだろうな」

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
──夢よりも、父を安心させたい。
 そう思うようになったのは、その日からだ。

 母や兄姉と交代で病院に向かう。
 毎日ではないにしろ、仕事と看護の両立は難しい。そんな時にも職場の先輩である尚人(なおと)はずっと支えてくれた。
 穏やかで、言葉よりも行動で寄り添ってくれる人だった。
 私が不安で立ちすくむ夜、何も言わずコーヒーを淹れてくれるような人。

 術後、父の容体が少し落ち着いた頃に尚人からプロポーズされた。
「君の人生を一緒に歩きたい」
 私は頷いた。
 父に安心してもらいたい一心だった。

──

 エリカからフランス留学の準備を始めたと聞いたのはその頃だった。勤め先からの推薦も決まり、二週間後に出発するという。
 私はその報告を聞きながら、胸の奥で焦げつくような痛みを感じた。

 カフェのテーブル越しに、私はカップを握りしめて言った。

「私、海外行くのやめようと思う」
「……どういう意味?」
「日本でもパティシエはできるし、わざわざ海外じゃなくてもいいかなって」

 エリカの目が、ゆっくりと細くなった。
「嘘でしょ? 彩名がそんなこと言うなんて」
「……私、もうすぐ結婚するの」
「結婚? 夢、諦めるの?」

 その声には、怒りと戸惑いと、悲しみが混ざっていた。
 私はきわめて平然を装う。

「変わったのよ、考えが。現実的になったっていうか」

 嘘だった。本当は、父を安心させたかった。結婚式で花嫁姿を見せたかった。
「諦めた」と言えば、楽になれると思った。

 けれど、その瞬間、彼女の顔からすっと光が消えた。
「諦められるほど、軽い夢だったの?」
 失望に満ちたエリカの声が重くのしかかる。私は何も言うことができない。

「……がっかりした」
 冷え切った口調が、心を切り裂く。エリカは席を立ち、そのまま出て行った。
 残された私は、カップの中で冷めていくカフェラテを見つめながら、しばらく立ち上がることができなかった。

 その夜、エリカのことを尚人に話した。
「私、あの子を傷つけた」
「本当のことを言ってないから?」
「うん……でも、言いたくなかった。
 エリカのことだから、留学やめるって言い出しそうで」

 尚人は少し黙って、それから言った。
「君はエリカさんを守るために夢を脇に置いた。
 でも、それを“諦めた”って言うのは違うんじゃない?」

 その言葉が、胸にしみる。
 でも、どうしたらいいんだろう。答えが見つからない。

──私は、夢を手放したわけじゃない。ただ、少し形を変えただけ。
 そう伝えるにはどうすればいいのだろう。

──

 父の病院からの帰り、尚人から連絡が入る。
 店じまい前の尚人の店に寄ると、エリカがここに来たと聞いた。
「今日の夜、フランスに行くとだけ伝えてください」と言ったらしい。
 そして私宛にと、小さな箱を手渡されたという。とても軽い。
 「Fragile!」と手書きの赤い文字。エリカの筆跡だ。そっと開ける。

──飴細工のブーケだ。細やかな花々を見事なプルドシュクレの赤いリボンがまとめている。
 卒業制作のピエスモンテで賞を取ったぐらいの、エリカの得意技。

「結婚祝いだから、くれぐれも壊さないようにと釘を刺されたよ。
 それから」
 コックコートを脱ぎながら、静かな口調で尚人が言う。

「──言ったよ、お義父さんのこと」
「何で……」
「勝手に伝えたのは謝る。
 でも、エリカさんを失望させたままでいいのかい?」

 諭す言葉が温かい。
「君の本音を伝えないと、エリカさんも重荷を背負ったままだよ」
 尚人も、私の中の“焔”を見抜いていたのだ。

「……謝らなきゃエリカに、私……ひどいことしちゃった……」

 その時、尚人のスマホが鳴る。メッセージを確認した尚人が顔を上げる。
「彩名、行こう。空港へ」
「羽田の最終便だ、エリカさんとこの店長から聞き出した。見送りはいいって断られたらしい」
 様々な想いがあふれすぎて身動きできない私を、尚人は半ば強引に車に押し込め、空港へと走り出した。

──

 車は首都高を通り、湾岸線に入っていく。ビルの灯りが窓の外を流れていき、少しずつ遠ざかっていく。ターミナルまであと少しだ。
 エリカはもう搭乗手続きに入っている頃だろう。

「間に合うかな」
「間に合わせよう、彩名の気持ちをきちんと伝えないと後悔するよ」

 尚人のその言葉に、私は強く頷いた。

 ターミナル前、車を尚人に任せて私は走り出す。

「パリ行き〇〇便、搭乗のご案内をいたします」

 アナウンスが響く。
 ゲート前で人混みをかき分けながら、私は彼女を探した。
 白いジャケットの背中が見えた瞬間、思わず叫んだ。

「エリカ!」

 エリカが振り返る。
 目を見開き、そして私を見つめた。

「彩名……」
「ごめん、あの日、本当のこと言えなかった」
 息が上がる。
「私、父のことでいっぱいいっぱいで、でも、夢を諦めたわけじゃない。諦められるはずがないの!」

 エリカの目に涙が光った。
 私は続けた。

「私も戦う。ここで、できることを全部やる。
 あなたに負けないパティシエになる」

 彼女は数歩近づき、私の肩を叩いた。
「バカ。そんなの、最初からわかってた。
 そんな顔するなら、最初からそう言ってよ」
「ごめん」
「謝らないで。私、向こうでちゃんと頑張る。
 だから、彩名も絶対に諦めないで」

 パーキングから走ってきた尚人が、うちの店の紙袋を渡す。
「うちのエースが作り上げたガトーです。
 どれも自信作ですよ、旅のお供にどうぞ」
 エリカが袋の中を見、私を見る。ドゥミセックやミニャルディーズ、レシピからすべて私が作り上げたものだ。
「嬉しい……彩名のフィナンシェ、絶品だもの。大事にいただくね」

 専門学校時代から、エリカは誉めてくれた。学校の屋上で、二人で食べながら見上げたあの空を思い出す。
 エリカも同じだろう、涙目になりながらも笑っている。

「パリ行き最終便、搭乗のご案内が始まっております──」
 再度、アナウンスが流れる。
 尚人は少し離れたところで微笑んでいる。
 その視線に背中を押されるように、私はエリカの手を握った。

 「いってらっしゃい」
 「うん。行ってくる!」

 エリカは手を挙げて、笑顔のままゲートをくぐった。

 その後ろ姿を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
 心の奥に灯った炎が、少しずつ熱を取り戻していく。
 尚人が隣で言った。
「いい顔してるよ、彩名も、エリカさんも」

 駐車場から空を見上げると、エリカを乗せた飛行機が夜空に向かって飛び立っていくのが見えた。
 私も歩き出そう。私の道を。

──私たちの夢は、決して消えない。
 たとえ離れていても、同じ焔が心の奥で燃え続けている。
 また会える日が来るそのときまで、この焔を絶やさずに。

──────

後半追加しました。読みづらいですね(
かなりエピソードを端折りました。これを足せばもっと奥深くなる?とかそーいう箇所を加えて、5000字ぐらいになるかな……
まぁ、いずれどこかで。

今はとても美味しいフィナンシェが食べたいです。

10/27/2025, 1:05:42 AM

〈終わらない問い〉

 取引先に間に合うように駅へ急ぎながら、ふとショーウィンドウに映った自分の顔を見て立ち止まった。
 スーツの襟は少しよれていて、ネクタイも朝より緩んでいる。
 新卒でこの営業職に就いて、もう五年目。最初の頃は、スーツを着るたびに気が引き締まったものだが、今ではただの制服みたいなものになってしまった。

 大学を出て、広告代理店の営業に入った。自分の企画が誰かの目に触れる世界に関われる──そう思っていた。
 でも現実は、数字と納期とメールの山。
アイデアを語るよりも、取引先の要望をどうまとめるか、上司にどう説明するかで一日が終わる。

 「お前はセンスがあるけど、それを通すには根回しが足りない」
 先週、上司に言われた言葉がまだ耳に残っている。
 センス。褒め言葉のようでいて、突き放されている気がした。

 思い描いていた「広告の仕事」とは、まるで違っていた。
 けれど、この業界が嫌いなわけじゃない。むしろ、好きなのだ。
 だからこそ苦しい。

 職場を出てから、しばらく夜風に当たっていた。
 通りを歩く人々の表情はみんな似ている。疲れているのに、歩みを止めない。
 その姿に自分を重ねてしまう。

 大学時代の友人が、去年、転職して教育系のベンチャーに入った。
「今さら営業なんて向いてなかった」と笑っていたが、今は楽しそうに講師をしている。
「伝える」ことが好きだと気づいたらしい。
SNSで彼の投稿を見るたびに、気持ちがざわめく。
 俺もどこかで、何かを「伝える」仕事をしたいと思っていたはずだ。
でも、何を伝えたかったのか。

 家に帰ると、机の上に置いたままのノートが目に入った。三年目の秋、取引先で大きな企画が流れた日に書き始めたノートだ。
「営業とは何か」「説得と共感の違い」「仕事の意味」──そんな問いが、走り書きで並んでいる。
 読んでも答えは見つからない。けれど、ページをめくると少し落ち着く。

 ──このまま営業を続けていいのだろうか。
 ──別の業界に飛び込んで、自分を試すべきなのか。

 何度もそう書いては消してきた。
けれど答えは、いまだにどこにもない。

 週末、取引先で知り合ったデザイナーに誘われて、久しぶりに会った。
 同い年だが、彼は独立して二年目。初めて事務所を訪れた時、小さな観葉植物と手作りのポスターが貼られ、クリエイティブな雰囲気を醸し出していた。

 酒を酌み交わすと、当然仕事の話ばかりになる。
 彼も独立して大変だろうが、苦労話も業界の愚痴もどこか楽しげだ。

「営業やってると、数字ばっか見ちゃうだろ?
 でも、俺らは数字じゃなくて、人を動かすために作ってるんだよ」

 彼の言葉がチクリと胸に刺さる。
 そうだ。俺も、人を物を、文化を動かしたくてこの業界に来たはずだった。

 帰り道、街灯の下でスマホを取り出す。
大学院のサイト、転職サイト、資格講座……いくつか開いてみては閉じた。
 どれも間違いじゃない気がするのに、どれも決定打にならない。

 ──俺が本当にやりたいのは、何だ?
 ──好きな業界にいるのに、なぜ満たされない?

 終わらない問いが、頭の中でぐるぐる回る。
 まだ何かを探している。まだあきらめていない。

 夜、ノートを開いて、新しいページに書く。

──今の自分が嫌いなわけじゃない。ただ、まだ終わりたくないだけだ。

 ペンを置いて、深く息をつく。窓の外では、どこかのネオンが点滅している。
 明日も同じように仕事をして、また数字を追う日が来るだろう。でもその中で、もう一度「好きだった理由」を思い出してみようと思う。

 この業界に入ったときの気持ち。初めて自分の提案が採用されたときの、あの小さな誇り。
 あの瞬間の熱が、まだ心のどこかに残っている気がする。

 終わらない問いを抱えたままでもいい。答えを出せないままでも、歩いていける。
 少なくとも今は、そう信じてみたいと思った。

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