〈一輪のコスモス〉
朝の職員室は、いつもより少しざわついていた。窓の外では、雨上がりの風が校庭の土を乾かしている。
机の上の書類の山を前に、私はため息をひとつ落とした。
中間テストの採点、進路相談、部活のトラブル。どれも私を待ってくれない。
四十を過ぎてから、日々の疲れが抜けにくくなった。誰かに愚痴をこぼすこともないまま、気づけば週末が終わっている。
教室では、思春期特有のまっすぐさと不器用さがぶつかり合い、毎日が小さな戦場のよう。
叱るたびに、生徒たちの瞳が曇る。そのたび、私の心も少しずつすり減っていった。
その日も放課後まで授業と面談が続き、ようやく席に戻ったとき、机の上に小さな花瓶が置かれているのに気づいた。
中には、淡い桃色のコスモスが一輪。まだ咲きたてのように瑞々しく、細い茎が頼りなげに伸びていた。
誰が置いたのか、見当もつかない。隣の席の同僚に聞いても首をかしげるばかりだった。
私はしばらくその花を見つめた。
窓からの秋風がそっと吹き込み、カーテンを揺らす。その風に合わせるように、コスモスがかすかに身を傾けた。夕暮れの光が花びらを透かし、どんな色よりも優しい色をしていた。
ふと、あの生徒の顔が浮かぶ。
授業中にどこか遠くを見つめるような瞳をしていた子。時折心ここにあらずという表情でいる。
そういえば昨日、放課後に校庭の花壇で花殻を摘んでいたっけ。
「コスモスって、風に弱いけど、折れにくいんです。
根がしっかりしてるから。」
その時のあの子の言葉が、静かに胸の奥で繰り返される。
──もしかして。
胸の奥が、ふっと温かくなった。
私は花瓶をそっと手に取り、水の冷たさを確かめる。今日一日、言葉にできなかったいくつもの思いが、少しずつ溶けていくようだ。
教室で荒れた空気を鎮めようとする自分の声。生徒たちの反抗、無言の距離。それらが一瞬、遠のいた気がした。
窓の外を見やると、空はすっかり茜に染まっていた。
差し込む光が机の上のコスモスを照らし、花びらの端を金色に染めている。
「ありがとう」
思わず、小さく声に出していた。
翌朝、机の上のコスモスはまだ凛としていた。
花びらの間に朝の光が宿り、どこか誇らしげに見える。
──風に揺れても、根は折れない。
あの言葉に勇気づけられながら、教室に向かう。
「おはようございます!」
あの生徒が声をかけてくる。『あの花に気づいてくれた?』と言わんばかりにニコニコしながら。
「コスモス、ありがとうね。
今朝もちゃんと咲いてたわよ」
「よかったぁ、あの一輪だけ倒れちゃってて。
うまく水揚げできてなかったらどうしようかと思ってた」
──「乙女の真心」
彼女のほっとした顔を見ながら、私はコスモスの花言葉を思い出していた。
〈秋恋 ─Autumn Longing─〉
窓の向こうで、ケヤキ並木が少しずつ色づきはじめていた。
夏の終わりをまだ引きずりながらも、街の空気にはかすかな冷たさが混じっている。
アイスラテより、そろそろホットが恋しくなる頃。私たちは四人で、いつものカフェに集まっていた。
「なんか、秋になるとさ、妙に人恋しくならない?」
最初にそう言ったのは遥香(はるか)。
柔らかな声と、揺れるピアス。いつも恋の話をしているのに、どこか寂しげに笑っていた。
「わかる。
夜風が冷たくなると、帰り道で“隣に誰かいたらな”って思うんだよね」
南月(なつき)がストローをくるくると回しながらつぶやく。
普段は明るくて、どんな場でも笑いを取る彼女が、今日は少し静かだった。
「でもさ、それって“季節限定の寂しさ”じゃない?」
晶穂(あきほ)がゆっくりとカップを両手で包む。
理性的で、いつも落ち着いている彼女の言葉には、少しだけ温度があった。
「そうかも。
その一瞬の寂しさが、恋の入口になることもあるよね」
芙優(ふゆ)が微笑む。
まるで物語の中の一節みたいな言葉を、彼女はいつも自然に口にする。
「夏の恋は燃えるけど、秋の恋は沁みる感じがするなあ」
遥香が言うと、南月が「名言っぽい」と笑った。
でもその笑いは、どこか柔らかくて、胸の奥に静かに残った。
「……この前ね、前に付き合ってた人から久しぶりにメールがきたの」
南月が、少し目線を落として言った。
「“元気?”って、それだけ。
もう平気なはずだったのに、返信するまでに二時間もかかった」
「返したの?」
芙優がそっと尋ねる。
「うん、“元気だよ”ってだけ。
でも、送ったあと泣いちゃった。ちょっとだけ」
フフ、と南月が笑う。泣いたことさえも、笑って話せるのが彼女らしい。
「秋って、過去がふっと近くに寄ってくる季節だね」
晶穂の言葉に、みんなが静かに頷いた。
いつも現実的で恋愛より仕事という彼女は、時折詩人のようなフレーズを口に出す。
窓の外では、風に乗って一枚の葉がふわりと舞い上がり、落ちていった。
「私ね」
遥香が小さな声で言った。
「最近、やたらと気になる人がいるの。
でも上司だし、私のことを部下としか見てないんだろうけど」
「それでもいいじゃない?」
芙優がやさしく笑った。
「恋って、叶うかどうかより、誰かを想うことで自分が少し優しくなれる気がする」
ふっと、それぞれが物思いにふけるように押し黙る。
芙優の言葉は、甘くて、少し苦いココアみたいに胸に残った。
外に出ると、空気はもうすっかり秋の匂いがした。
四人で駅まで歩く道。街灯の光がオレンジ色に滲み、足音が柔らかく重なる。
「晶穂も芙優もこのところどうなのよ、浮ついた話は私と遥香だけ?」
南月は元のテンションに戻って言う。
「夏が異常に暑すぎたから今は心を休める時よ、秋なんだから」
「そう、もっと寒くなったらね」
晶穂と芙優が顔を見合わせ笑う。遥香がやれやれと息をつく。
「あっという間に冬になるわよ」
「あ、私温泉行きたい!冬の東北いいよ!」
「じゃあまた集まる?」──
──語る話は尽きないが、秋の夜は更けていく。
恋をしてもしなくても、人は誰かを想う。季節が巡るように、心も静かに波立つ。
熱狂的な暑さから解放され、小さな心のささやきに気づく時。それが秋という季節なのかもしれない。
〈愛する、それ故に〉
放課後の教室に、夕陽がゆっくり差し込んでいた。黒板のチョークの跡が光を受けて、かすかに白く浮かんでいる。
私はノートの上に顔を寄せ、二次関数のグラフを描いていた。
𝑦=𝑎𝑥²+𝑏𝑥+𝑐
𝑎が正のときは上に開く放物線。頭では分かってるのに、線を引くたび形が歪んでいく。
「ねぇ、聞いてよ」
前の席から、沙月(さつき)の声がした。机にあごを乗せて、ため息まじりに。
「今日、S君と図書室で一緒になったの」
「へぇ」
私はグラフの軸を書きながら、相づちを打つ。
「同じ時間に本返しに行っただけなんだけどさ。
隣に立ったら、なんかふるえちゃって。何も話せなかった……」
「そっか」
放物線の頂点の座標を求めようとして、xの符号を間違える。うまくいかない。
「好きってさ、なんでこんなに上手くいかないんだろ。話したいのに、話せない。近づきたいのに、逃げちゃう」
その言葉に、私はシャーペンを止めた。
窓の外では、野球部の声が遠くで響いている。
「……それ、放物線みたいだね」
「は?」と沙月が顔を上げる。
「上に行こうとしても、いちばん高いとこまで行ったら、また下がっちゃう。
でも、それでもちゃんと“形”はあるんだよ。どんなに上がっても下がっても、ちゃんと自分の道を描いてる」
沙月はぽかんとして、それから小さく笑った。
「なにそれ、数学で慰めるつもり?」
「うん、まぁ、そんな感じ」
私も笑った。
「放物線ってさ、左右対称なんだよ。どっちかが一方的に伸びてるわけじゃない。
だから、いつか相手の線と交わるといいね」
沙月はノートをのぞきこんで、私の描いたゆがんだ放物線を見た。
「……交わるかな」
「さぁ。
でも、“好き”って気持ちがあるなら、その線はちゃんと伸びてるよ」
少しの沈黙のあと、沙月がぽつりと言った。
「ねぇ、私さ、○○高校受けようと思ってるんだ」
「えっ、マジで? S君、○高って言ってたよね」
驚きながらも、どこか納得した。
「うん。受かるかどうかも分かんないけど……
それでも頑張りたいって思っちゃって。
……バカ?」
「バカじゃないよ」
私は笑って言った。
「落ちるかもしれないけど、ちゃんと上を向いてる放物線じゃん」
「落ちるって言うな!!!」
沙月は少し照れたように笑い、頬杖をついた。
「じゃあ、あんたも一緒にがんばってよ。
どうせ同じ受験生なんだから」
「もちろん」
私はノートを閉じて、まっすぐ前を見た。
黒板の上の夕陽がだんだん赤く染まっていく。
愛する、それ故に。気分が上がったり、下がったり、迷ったり。
でも、そうやって沙月が描く線の先に、きっと沙月の未来がある。
「ねぇ、次の模試、一緒に受けよっか」
「受けよ受けよ、そしてまず数学教えて!」
そう言うと、沙月が笑う。
放物線の線が、少しだけ重なった気がした。
〈静寂の中心で〉
またスマホが震えた。母からのLINEだ。
「○○商事の説明会、申し込んだ?」
私は長い長いため息をつく。
別の通知を見て、スマホの画面を何度もスクロールする。
就職サイトのエントリー一覧。企業のロゴが並ぶその画面は、どれも同じに見えた。
「どこ受けたの?」
「内定出た?」
友達の声が、廊下の向こうから笑いと一緒に流れてくる。ゼミのグループチャットには、面接の進捗や企業研究の情報が飛び交っていた。
返信する指が止まる。何を言えばいいのか分からない。
母からのLINEには「○○商事、近所の子が入ったらしいよ。安定してていい会社みたい」と書かれていた。
安定。いい会社。働きやすい。
言葉だけが、耳の奥で何度も反響して、だんだん意味を失っていく。
私は画面を伏せて、カフェのテーブルに突っ伏した。
就活が本格化してから、世界がやかましくなった。
親は「安定した大企業に」と言い、ゼミの教授は「君なら研究職が向いている」と諭す。
友達は内定自慢とも愚痴ともつかない話を延々と続け、就活サイトは毎日何十通ものメールで「あなたにぴったりの企業」を押し付けてくる。
──私は何がしたいんだろう。
四年間、勉強して、サークルに行って、バイトして、それなりに楽しかった。でも、これからのことを考えると、頭の中がざわつく。
どこに行けば正解なのか。どの会社が「私らしい」のか。
そんなこと、誰も教えてくれない。
リクルートスーツを着て鏡を見るたび、そこに映るのは私じゃない誰かのように思える。
面接で話す言葉も、エントリーシートに書く文章も、すべて「私らしい私」を演じているだけだ。
本当の私は、その背後でずっと黙っている。
「まだ決まらないの?」
「みんな動いてるよ」
「焦らなくて大丈夫?」
善意の声は、どれも雑音にしか聞こえない。
就活はゴールじゃない。スタートでもない。ただの通過点だ。なのに、どうしてこんなに周りの声ばかりが大きく響くんだろう。
耳をふさぎたい……見えない、でもとてつもない圧に押しつぶされそうになり、図書館に逃げ込んだ。
最上階の、誰も来ない古文書のコーナー。
静かだ。でも完全な静寂じゃない。階下の人の気配、密かな足音。
音があるのに、心が静まっていく。
──ああ、私、疲れているんだ。
みんなの声に応えようとして、みんなの期待に沿おうとして、いつの間にか自分の声が聞こえなくなっていた。
スマホの電源を切った。SNSもメールも、今日は全部無視する。
静寂の中心に立って、私は目を閉じる。ゆっくり呼吸をする。喧騒を全部置いて、まっさらな場所に戻る。
ようやく、心の内の小さな声が聞こえてきた。
就職は何のため?
お金のため?
安心のため?
誰かのため?
それとも、自分のため?
メモを取り出し、一つひとつ箇条書きにする。
書くうちに、胸のざわめきが少しずつ小さくなっていった。
静寂は、逃げ込む場所じゃなく、立ち止まるための場所なんだ。
そう気づいた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。
閉館のアナウンスが流れる。私は慌てて荷物をまとめ、館外に出た。
スマホの電源を入れると、様々な通知が鬼のように流れる。
世界はまだうるさい。
でも、私はようやく、静寂の中心で息をした。
〈燃える葉〉
庭のモミジは、燃え上がるほどの赤さではない。
けれど、朝の光を受けてゆらめくその葉を見ていると、ふいに昔の山道が思い出される。
息を切らして登った坂道、時折頬をなでてゆく冷えた空気。そして、目の前に広がった燃えるような紅葉の海──あの光景はいまも胸の奥に残っている。
あれは、結婚するよりずっと前のことだった。
大学のサークルで知り合った彼と、二人きりで出かけた晩秋の旅。軽い気持ちのつもりだったのに、山に着くころには胸が高鳴っていた。
見晴らし台の柵にもたれながら、彼は「ほら、すごいだろう」と笑った。
その笑顔の向こうに、まるで空を焦がすような紅葉が広がっていた。陽に透ける紅葉が風に揺れ、谷を渡るたび、世界が赤く息づくように思えた。
その時、私はふと思った。
──この人と一緒にいたい、と。
けれど、その願いは叶うことなく、時の流れに溶けていった。
やがて私は別の人と結婚し、子どもを育て、夫を見送り、今はこうして一人で暮らしている。
穏やかな人生だったと思う。けれど、胸の奥に小さな火が灯る。あの紅葉の赤が、忘れたはずの想いを呼び覚ますのだ。
この秋、町内会で「○○山の紅葉が見頃だ」と聞いた。
心がざわめいた。行ってみようか──そんな想いが湧き上がった。
電車を乗り継ぎ、山道を歩く。近年観光地化されて歩きやすくなったと言うが、膝は痛むし息も上がる。それでも足を止められなかった。
やがて、あの見晴らし台にたどり着いた。
冬の匂いをまとった風が頬を撫で、眼下に赤や橙の波が広がる。あのときほどの鮮烈さではないけれど、確かにそこにあった。燃えるような葉の群れ。
赤、橙、金。光に揺らめく無数の葉が、まるで空へ燃え上がっていくようだ。
彼はいない。けれど、風の中にあの日の笑い声が溶けている気がした。
私は柵に手を添え、ゆっくりと息を吐いた。
──庭のモミジは燃え上がるほどの赤さではない。けれど、私の心のどこかでは、今もあの日の葉が燃え続けている。
夕暮れが近づく。陽を受けた紅葉が、さらに深く燃え始める。
私はその光の中で、しばらく目を閉じた。過ぎ去った日々も、今ここにある静けさも、同じように心を温めていく。
あのときの赤が、心の中でほむらを上げては散って行く。
──燃える葉は、散る瞬間まで美しい。
帰りの道すがら、私はそう思った。