〈moonlight〉
会社の玄関を出たとき、夜の空気が頬を撫でた。昼間の湿った熱気がすっかり消えて、街灯の光が白く滲んでいる。
ふと空を見上げると、月がまるで雲の間からこちらを覗き込むように浮かんでいた。
あと一週間で退職する。理由は家庭の事情──母の介護、と言えば誰もが納得した顔をしてくれる。
けれど、本当のところは、自分の中で何かが静かに終わりを告げたのだと思う。
「今日も遅くなりましたね」
隣で話しかけてきたのは、上司の瀬尾さん。私より三つ年下で、同じ部署のまとめ役。
落ち着いた物腰の中に、時々、若さの名残のような真っ直ぐさを見せる人だ。
「残業、すみません。引き継ぎが思ったより手間取って」
「いいえ。僕も勉強になりますから」
そう言って彼は笑った。月明かりに照らされたその横顔が、思っていたより穏やかで、胸の奥に少し温かいものが灯った。
駅へ向かう道を並んで歩く。ビルの谷間から洩れる光と、月の光が混ざり合って、アスファルトに淡い影を落としている。
会社では上司と部下でも、こうして歩くと、不思議と同じ時間を歩いてきた仲間のように思えた。
「退職理由、誰にも話してなかったんですね」
「ええ。なんだか、まだ口にするのが怖くて」
「そうですよね。
僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えなかったです」
信号が赤に変わり、横断歩道の手前で立ち止まった。
見上げると、夜空の真ん中に丸い月が浮かんでいる。街の灯よりも少しだけ強く、でも刺すようではない光。
「……月が、綺麗ですね」
彼が小さくつぶやいた。
「ええ。
なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」
青に変わる信号を待ちながら、ふたりでしばらく空を見上げた。
月の光は、すべてをやわらかく包み込む。過ぎた日々の苦さも、思い残した気持ちも、ぼんやりと溶かしていくように。
「……瀬尾さん」
「はい?」
「この仕事、嫌いじゃなかったです」
「知ってます」
短い返事。けれど、その一言が、私には十分だった。
駅の入口で足を止める。終電の時刻が近い。
「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」
そう言って頭を下げると、彼は小さくうなずいた。
改札を抜けて振り返ると、彼はまだそこにいた。月の光を背にして、手を軽く上げる。
その姿が、夜の街に溶けていく。
きっと私は、この光景を忘れない。
十五年分の時間と、これから向かう未知の道。その境界に、彼の姿と今夜の月が静かに浮かんでいる。
〈今日だけ許して〉
「今日こそは早く帰ってきてね」
朝、玄関で靴を履く俺を、妻がいつもより真剣な顔で見送った。
「ああ、わかってる」
適当に返事をしたが、内心少し焦っていた。
ここ二週間何らかの呑み会続きで、まともに家で夕食を食べていない。五十八歳にもなって、まるで若手社員のような生活だ。
「わかってる、じゃないの。
この前の健康診断、肝臓の数値が悪かったでしょう。お医者さんにも注意されたのに」
「大丈夫だって。今日は本当に帰るから」
そう約束して家を出た。本当に、今日こそは早く帰るつもりだった。
ところが、会社を出た午後六時過ぎ、携帯が鳴った。田中からだ。
大学時代からの親友で、もう三十年以上の付き合いになる。
「おう、斉藤か。
今夜空いてるか? 久しぶりに一杯どうだ」
「いや、今日はちょっと……」
「そう言うなよ。
実は息子が結婚することになってさ、お前に真っ先に報告したくてな」
田中の声が弾んでいる。
息子の晴れの報告を断るわけにはいかない。俺は一瞬ためらったが、結局こう答えていた。
「……わかった。でも一時間だけな」
午後七時、いつもの居酒屋で田中と合流した。
ビールで乾杯すると、田中は嬉しそうに息子の話を始める。
一時間だけのつもりが、話は尽きなかった。息子の結婚相手の話、昔の思い出話、仕事の愚痴。気づけば時計は十一時を回っていた。
──やばい。完全にやばい。
「じゃあ、そろそろ……」
会計を済ませ、駅までの道を急いだ。
頭の中で言い訳を考える。田中の息子が結婚するって話でつい……いや、それで四時間は通用しないか。
自宅の玄関前で、俺は深呼吸した。鍵を開ける手が少し震える。
「ただいま……」
リビングの電気はついていた。恵子はソファに座ったまま、無言でこちらを見ていた。その目には、怒りというより深い失望が浮かんでいる。
「田中に会ってた。
息子が結婚するって話で……」
「それで四時間も?」
恵子の静かな声が胸に刺さる。
「いや、つい話が弾んで……今日だけ許して」
「今日だけじゃないでしょう。もう二週間も続いてるのよ」
恵子は立ち上がり、テーブルの上の封筒を俺に突きつけた。先週の健康診断の結果だ。
「肝機能、γ-GTP 158。基準値の三倍。
医師のコメント欄、読んだ? 『このまま飲酒を続ければ、肝硬変のリスクが高まります』って」
俺は黙り込んだ。確かに医師には注意された。
でも、まだ大丈夫だろうと高を括っていた。
「あなた、もう若くないの。来年還暦よ。
私、あなたに長生きしてほしいの。一緒に孫の顔を見たいの」
恵子の目にわずかに涙が光る。それを見た瞬間、俺の中で何かが崩れた。
三十年連れ添った妻が、こんなに真剣に自分の健康を心配してくれている。
それなのに俺は、友人の誘いを断れずに、また約束を破った。
「……すまなかった」
俺は頭を下げた。五十八年生きてきて、こんなに深く頭を下げたのは久しぶりだ。
「禁酒する。会社の飲み会も断る。
田中にも明日メールする。しばらく酒は控えるってな」
「本当に?」
「ああ、本当だ。次はない」
妻はしばらく黙っていたが、ふっと小さくため息をつきながら立ち上がる。
キッチンで淹れたお茶を差し出してきた。
「次は、本当にないからね」
小さな湯気が、ふたりの間に立ちのぼった。
俺はその温かさに、ようやく帰ってきた気がした。
〈誰か〉
健康診断の結果を見たとき、思わず笑ってしまった。
「要検査」という赤い文字が、白い紙の真ん中にぽつんと印刷されている。笑ったのは、それがあまりに他人事めいて見えたからだ。
けれど、紙を折り畳んでポケットにしまった瞬間、胸の奥に重たい石が落ちるような感覚があった。
会社からの帰り道、コンビニの灯りが妙に滲んで見えた。
四月も半ば、空気はまだ肌寒い。夜風に吹かれながら、ふと「俺がもし本当に病気だったら」と考える。
そうなったとき、最初に電話をかける相手は誰だろう。
部屋に戻り、電気を点けた。ワンルームのマンションは静かすぎる。冷蔵庫の中にはビールと納豆が入っているだけだ。
ソファに腰を下ろし、診断結果の紙を広げ直す。
誰かに話したい。この検査結果を。怖いということを。
でも、誰に?
両親はもういない。職場の同僚は皆家族持ちだ。「俺も健康診断引っかかっちゃってさあ」と言えば、「うちの嫁がうるさくてさ」という話になる。俺にはその「うちの嫁」がいない。
学生時代の友人も然り。年に一度の同窓会で会うだけの関係。
そこで「実は」なんて話せるわけがない。
「……誰か、そばにいてくれよ」
声に出してみる。返事はない。白い壁に吸い込まれるだけだ。
情けないことに、涙が滲んできた。
まだ何の病気だと決まったわけでもない。けれど「要検査」という文字は、俺の孤独を残酷に照らし出す。
ふと脳裏に浮かんだのは、遠方に嫁いだ姉の顔だった。
最後に会ったのは、数年前の法事だったか。あのときも「ちゃんと体調に気をつけなよ」と言われて、俺は適当に笑ってごまかした。
電話をすれば、姉はきっと心配して叱ってくれるだろう。そして、姉の子どもたちの騒がしい声も受話器越しに聞こえてくるに違いない。
想像するだけで、胸の奥の重さがほんの少し軽くなる気がした。
すぐに会える距離じゃなくても、声を交わせば十分に繋がれる存在。
「……電話してみるか」
小さくつぶやくと、不思議と肩の力が抜けた。
検査の結果がどうであれ、一人で抱え込む必要はないのかもしれない。
「よし」
俺はスマホを握りしめ、まずは検査の予約を入れる決意をした。
そのあと、姉に電話をかけてみよう。甥っ子姪っ子の元気な声を聞いたら、きっと明日を生きる力になる。
時計の針は深夜を回っていた。窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でる。
俺みたいな誰かが眠る街。
この街のどこかで、俺と同じように不安を抱えた誰かも眠れずにいるのかもしれない。
窓を閉め、冷蔵庫からビールを一本取り出す。
今夜だけは、自分を許してやろう。そして明日から、ちゃんと生きていこう。
〈遠い足音〉
夜、ふとんの中で目が覚めた。
廊下から、小さな足音が聞こえた気がした。
トン、トン、トン……。
ちょっと早歩きみたいなその調子は、圭にいちゃんの足音によく似ていた。
ぼくは目をつぶったまま、耳をすました。
いとこの圭にいちゃんは五つ年上で、ほんとうの兄ちゃんみたいな人だった。
いつも元気に歩いて、ぼくの手をぐいっと引っぱっていった。川原の近く、大きな石と木に囲まれたすきまが、二人の秘密基地だった。
中に入って、持ってきたお菓子をこっそり分け合って食べた。
「お前が中学生になったら、もっといろんなとこ連れてってやるからな」
そう言いながら、ぼくの頭をぐしゃぐしゃってなでた。大きな手は、あったかかった。
けれど、その約束はもう果たされない。
お葬式の日、おばちゃん──圭にいちゃんのお母さんの背中をなでながら、ぼくのお母さんも声を出さずに泣いていた。
ぼくも泣いたけれど、わけがよくわからなかった。
ただ「圭にいちゃんはどこへ行っちゃったんだろう」と、そればかり考えていた。
あれから三か月。
ときどき思い出す。
笑った顔。虫を追いかけて走ったこと。夏祭りで買ってくれたかき氷。思い出すたびに胸がきゅうっとなる。
さみしい、というのともちょっと違う気がするけれど、その気持ちにぴったりの言葉は、まだぼくには見つからない。
足音はもう聞こえない。たぶん、気のせいなんだ。
だって圭にいちゃんは、もうここにはいないんだから。
それでも、ぼくはふとんから手をのばしてみる。
「圭にいちゃん」
声に出して呼んだら、胸の中が少しだけ軽くなった。
窓の外から、虫の声がした。
圭にいちゃんが名前を教えてくれた、あの高い声の虫だ。
名前は忘れてしまったけれど。なんだったかな。
ぼくはもう一度、目をつぶった。
今度はぐっすり眠れそうな気がする。
きっと圭にいちゃんも、どこかで笑っている。そんな気がした。
遠くでまた足音がした。こんどは、少しずつ遠ざかっていくように。
ぼくは小さく笑って、静かに目を閉じた。
〈秋の訪れ〉
朝、窓を開けると、風がほんの少しだけ涼しくなっていた。頬をなでていく空気に、思わず深く息を吸い込む。
湿った熱気にまとわりつかれていた夏の日々が、ようやく遠ざかりつつあると知った。
五歳の娘が「今日は長袖にする!」と嬉しそうに宣言する。昨日まで汗まみれで服を何度も着替えさせたのに、今朝は自分から袖を通して笑っている。
膝の上ではまだ眠たそうな赤ん坊がふにゃりと笑った。暑さで寝付きの悪かった夜も、今日はよく眠れたらしい。
自然と、笑みがこぼれる。。
夏の間、家族の体調を守るために、冷房や食事や水分に気を張り詰めてきた。
仕事を終えて保育園に駆け込み、抱っこひもで赤ん坊を揺らしながら夕飯をつくる日々。額から滴る汗に、自分が溶けてしまいそうだと何度思っただろう。
けれど、今朝の風は、私の背中をすっと軽くしてくれる。
出勤前、娘と赤ん坊を連れて家を出る。空の青が、どこか高く澄んで見えた。
蝉の声もう聞こえない。代わりに草むらから鈴のような虫の音が響いてくる。
娘が「すずむし?」と首を傾げる。
私は「そうだね、秋の声だね」と答えながら、歩調を合わせる。
保育園の門の前で娘が駆け足になり、「ママ、いってきます!」と振り返る。
小さな背中に、すでに夏を脱ぎ捨てた軽やかさがあった。赤ん坊を預け、私も職場へ向かう。
通勤路の並木道に、まだ緑の葉の端が少しだけ黄みを帯びているのに気づいた。立ち止まり、スマートフォンを取り出す手を思わず引っ込める
この景色は写真よりも、私自身に残しておきたい。風に揺れる葉の音、足元を転がるどんぐりの小さな丸み。
すべてが「もう大丈夫」と囁いてくれている気がした。
職場に着く頃には、心の中の重石が少し溶けていた。夏の間、ただ生き延びるように積み上げてきた毎日。
けれど秋が来る。汗に追われない夜、温かいスープを囲む食卓、子どもたちと歩く夕暮れ道。小さな楽しみを思い描くだけで、体がふっと軽くなる。
窓の外に視線をやる。ビルの影に伸びる風が、私の頬をまた撫でていった。
──秋が来たのだ。
それだけで、私は今日を頑張れる気がした。