汀月透子

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9/30/2025, 3:49:33 PM

〈旅は続く〉

 夫が定年退職して三ヶ月。リビングでコーヒーを飲む彼の横顔を見ながら、私もカップにコーヒーを注いだ。
 テーブルの上には、また求人情報誌が広げられている。

「また見てるの」

 思わず冷たい声が出てしまった。
 彼は曖昧に笑いながら、「いや、まだ決めかねていて」と答える。

「あなたの好きにすればいいじゃない」

 私はそう言って、カップを持ち庭へ出た。
 バラの枝先を見つめながら、胸の奥に渦巻く感情を持て余していた。

 結婚して四十年近く。私はずっと一人だった。
 彼は仕事一筋。残業に休日出勤、単身赴任。家にいても心は別の場所にあった。
 私は子育ても悩みも全部、一人で抱えてきた。だから今さら「寄り添いたい」と言われても、どう応えればいいのか分からない。

 結婚前、二人で語り合った夢を思い出す。世界中を旅しようと笑い合ったあの時間を。彼は「いつか」と言ったけれど、その「いつか」は一度も訪れなかった。

 バラの剪定をひとしきり進める間に、いつの間にかスマートフォンへ娘からのメッセージが届いていた。
 昨日、夫のことを少し愚痴った返事だ。

『お父さんが家にいて戸惑うと思うけど、少しずつ慣れていけばいいんじゃないかな。
 二人ともまだ元気だし、一緒にできることたくさんあると思うよ』

 私は画面を閉じ、深く息をつく。
 娘は独り立ちし、もう親の背中を見守る立場にいる。その言葉が胸の奥に静かに響いた。

 ふと、背後で声がした。

「なあ」

「何」

「もう一度、旅の計画を立てないか。
 あの頃、行きたいと言っていた場所」

 私は振り返らなかった。胸の奥で何かが揺れていた。けれど、すぐには言葉にできない。
 肩が震えるのを自分でも感じた。

「ずっと私は待っていたのよ。
 でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
 今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」

 彼は黙り込んだ。
 私はバラを切る手を止める。ハサミを持つ指先が、かすかに震える。

「どうすればいいのか、私にも分からない。
 あなたが家にいることにまだ慣れない。話しかけられても、どう答えればいいのか。
 ずっと一人でいることに慣れすぎてしまったのよ」

 怒り、諦め、そして言葉にならない別の気持ち。整理できずに胸の中で絡まり合っている。
 こんな一方的な怒りはただのヒステリーだ。私は彼の顔を見ようとして、やめた。

 わかっている、彼もまたどうしたらいいかわからないのだ。
 長い年月が作った溝の前で、私たちは立ち尽くしている。

 夫は静かに求人情報誌を閉じ、剪定した枝や葉をまとめ始める。

「……旅じゃなくていい、一緒に出来ることを考えてくれないか」
「庭の手入れとか」

 精いっぱい寄り添おうとする彼に、これ以上意地を張っても仕方ない。

「じゃあ、草むしりから始めましょうか」

 四十年分の埋め合わせはできない。でも、今日という一日から、少しずつ歩み寄ることはできるのかもしれない。
 耳を傾けてみよう。四十年分の沈黙の奥にある、互いの声を。

 ──私たちの旅は続く。

9/29/2025, 11:52:53 AM

〈Beyond Monochrome〉

 世界が灰色になったのは、いつからだったろう。

 あの日、上司の怒鳴り声が響いた会議室を出てからだろうか。それとも、毎日のように浴びせられる言葉の暴力に、心が少しずつ削られていったからか。
 気づけば、朝起きることも、服を選ぶことも、すべてが鉛のように重く感じられるようになっていた。

 退職届を出した日のことは、あまり覚えていない。ただ、白い紙に黒い文字を書いた感触だけが、妙に鮮明に残っている。

 それから三ヶ月。私の部屋は、白い壁とグレーのカーテン、黒いテーブルだけの空間になった。
 外を見ても、空は鉛色で、街路樹も建物も、すべてがモノクロ写真のようにしか見えなかった。色がないのか、色が見えなくなったのか、もうどうでもよかった。

 ある日の午後、スマートフォンがふるえ、友人からのメッセージを伝える。

「最近どう?
 新しくできたカフェ、タルトがすごく美味しかったよ」

 添付された画像には、色とりどりのスイーツが並んでいたはずだった。
 けれど、私の画面に映るのは、グレーのプレートに載った白と黒の濃淡だけ。

 今の私を知っている友人は、時々こうしてメッセージを送ってくれる。返事をしないことが多いのに、諦めずに。

 その日は、なぜか指が動いた。

「ありがとう。綺麗だね」

 短い返事。それでも送信ボタンを押した後、不思議な気持ちになった。

 翌朝、もう一度その画像を見た。
 そして、ふと思った。本当は、どんな色をしているんだろう。

 外に出たのは、それから三日後のことだった。
 重い体を引きずるように玄関を出て、友人が教えてくれたカフェまで歩いた。灰色の世界を、ゆっくりと。

 店のガラス越しに見えるショーケースに、私は息を呑む。

 ストロベリータルトの苺は真っ赤だった。レモンタルトは鮮やかな黄色で、抹茶のケーキは深い緑色をしていた。
 はっきりとした、鮮やかな色。

 私は震える手でガラスに触れ、それからゆっくりと周りを見回した。

 街路樹の葉が緑色に揺れていた。信号機が青、黄、赤と光っていた。
 イベントがあるのか、木々から吊されるフラッグガーランドが色とりどりに風に揺れていた。
 空は淡い青で、雲は白く、どこまでも広がっていた。

 涙が溢れた。

 世界は、ずっとそこにあったのだ。色を失っていたのは、世界ではなく、私の心だった。

 気づけば、レモンタルトを買っていた。久しぶりに持つ紙袋が、妙に軽く感じられる。
 部屋に戻って、引き出しの奥にしまっていたお気に入りの皿を取り出した。淡い青色の縁取りがある白い磁器の皿。学生時代、友人と一緒に行った雑貨屋で買ったものだ。

 ゆっくりとケーキを皿に載せる。鮮やかな黄色のレモンクリームが、白い皿の上で輝いていた。

 写真を撮り、友人に送る。速攻で「次はここに行こう!😋」とカフェの地図がやってくる。
 学生時代と変わらない、彼女の心遣いがとてもありがたい。

 私は小さく笑った。
 まだ、すぐに何かができるわけじゃない。明日が楽になるわけでもない。
 でも、少なくとも今日、世界に色が戻った。
 それだけで、十分だと思えた。

9/28/2025, 1:46:17 PM

〈永遠なんて、ないけれど〉

 仕事帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見て、思わず目を逸らした。疲れているのか、あるいは迷っているのか。
 社会人3年目、もう人生に手詰まりを感じている自分が情けない。

 ふと、彼女のことを思い出した。

 中学のときの同級生。笑い声が大きくて、ちょっと不器用で、それでもクラスの中心にいるような存在だった子。
 高校受験を控えたある日、交通事故で急にいなくなってしまった。

 葬儀の帰り道、ブレザーのポケットに入っていたミントキャンディの味を、私は今でも覚えている。
 あの子がくれたキャンディ。甘いのに冷たくて、涙の味と混ざって胸が詰まった。

 あれから十年。私は大学を出て、社会人になって、ただ流されるように毎日をこなしている。
 あの子がもし生きていたら、今ごろどんな道を歩いていただろう。まっすぐに夢を追っていたんだろうか。
 それとも私と同じように、現実に迷っていたんだろうか。

 考えても答えは出ない。でも一つだけ確かなのは、あの子には「今」がないということだ。永遠に十五歳のまま、写真の中で笑っている。

 同い年の友達が突然いなくなるなんて、考えられなかったあの頃。
 希望に満ちた日々が、永遠に続くと思っていたあの頃。

 「永遠なんて、ない」

 中学生の私は、泣きながらそう呟いた。

 けれど今は違う意味でその言葉を思う。
永遠がないからこそ、人は立ち止まってはいられないんだ、と。

 あの子の時間は止まってしまった。だから、残された私が動き続けるしかない。たとえ迷っていても、不器用でも。

 電車が駅に着き、ドアが開く。冷たい夜風が頬を撫でた。

 永遠なんて、ないけれど。
 今この瞬間を生きるため、私はこの一歩を踏み出していく。

9/27/2025, 11:07:57 AM

〈涙の理由〉

 仕事帰りに立ち寄ったカフェの窓際で、私は冷めかけたカフェラテを指先で揺らしていた。
 ガラス越しの街は灯りに満ちているのに、胸の奥にはどうしても影が残る。

 三十三歳。親も親戚も同僚も、皆そろって「結婚」を口にする。

「そろそろ決めたら?」
「彼がいるなら安心だね」

 数年付き合っている真司の存在を言えば、決まりきったように「じゃあ次は式だね」と笑顔を向けられる。

 真司は穏やかで、どこまでも優しい。けれど、彼と歩む未来を思い描こうとすると、胸の中にぽっかりと白い空白ができる。
 温かな手のひらのように確かに支えられているのに、その先の景色がどうしても見えない。

 同僚が結婚を決めたと聞いた日。
 笑顔で「おめでとう」と言った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。

 私もそうあるべきなのか。
 それとも、違う道を選んでもいいのか。

 数日後に真司と過ごした後、不意に涙が滲んだことがあった。
「どうした? 泣いてる?」

 真司の声で初めて気づいた。理由を答えられず、私は笑ってごまかす。
 その涙は、悲しみでも喜びでもなく、自分でも名前のつけられない感情だった。

 涙の理由は、まだはっきりとは言えない。
 ただ、周囲の期待と、自分の中の曖昧な答えの狭間で、押し出されるように溢れていたのだと思う。

 カフェを出て夜風に触れたとき、ようやく私は自分に問いかけた。
「私はどうしたいんだろう」

 すぐには答えが見つからない。また涙がにじむ。
 けれど、この涙──心の声に耳を澄ませれば、いつか辿り着ける気がする。

 街の灯りが遠ざかる。私はひとり歩きながら、頬に残る涙の温度を確かめていた。
 それが私を導く、最初の手がかりになると信じながら。

9/26/2025, 10:16:12 AM

〈コーヒーが冷めないうちに〉

 学食の隅のテーブルで、俺はコーヒーカップを見つめていた。淹れたてでまだ口に含むには熱すぎる。
 隣では、同じゼミの井上と高橋が昨夜のコンパの話で盛り上がっている。

「なあ、あの子、絶対俺に気があったって!
 LINE交換したし、今度映画でも誘ってみるわ」

 井上の声が響く。

「おい中村、今度一緒に来いよ。
 就活前なんだし、リフレッシュも必要だって」

 高橋が振り返り、笑顔を向ける。慌ててコーヒーをすすったら、熱すぎて舌がひりっとした。

「……今度な」

 言葉だけ合わせたが、気は重い。
 俺は昔から、ああいう場がどうにも苦手だ。盛り上がり方も、話す内容も、よくわからない。

「そういえばさ、おまえ就活どうするんだよ?もう十二月だぞ。
 俺ら、業界研究始めてるけど」

 井上の言葉に、気づくとカップの中で小さな渦ができていた。スプーンを無意識に回していたらしい。

「まだ……考え中かな」

 それが正直な気持ちだった。
 みんなは未来に向かって走り出しているけど、俺はまだスタートラインに立てていない気がする。

 バイト先の店長の声がふと蘇った。

「中村君は真面目だし、お客さんからの信頼もあるよ。
 自分のいいところを、もっと信じてみたら?」

 その言葉が、少しだけ背中を押す。

 カップを傾けると、最後の一滴はもうぬるかった。
 でも、その苦味の奥に不思議と優しい甘さを感じた。

 気づけば、口が勝手に動いていた。
「なあ、今度キャリアセンターに一緒に行かないか?」

 自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。
 コンパじゃ盛り上がれなくても、就活なら肩を並べられるかもしれない。

「おっ、それいいな!俺たちも相談したいことあるし」
 井上と高橋が笑顔で答える。

 学食を出るとき、振り返ると俺が座っていた席には、別の学生が新しいコーヒーを手にしていた。
 湯気が立ち上り、明るい昼の光に溶けていく。


 最後の一口の苦味を反芻しながら、先に行く友の背を追う。
 あれこれ躊躇せず思い立ったら踏み出さないと。そのカップのコーヒーが冷めないうちに。

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※一部表現を修正しました。

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