汀月透子

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〈旅は続く〉

 夫が定年退職して三ヶ月。リビングでコーヒーを飲む彼の横顔を見ながら、私もカップにコーヒーを注いだ。
 テーブルの上には、また求人情報誌が広げられている。

「また見てるの」

 思わず冷たい声が出てしまった。
 彼は曖昧に笑いながら、「いや、まだ決めかねていて」と答える。

「あなたの好きにすればいいじゃない」

 私はそう言って、カップを持ち庭へ出た。
 バラの枝先を見つめながら、胸の奥に渦巻く感情を持て余していた。

 結婚して四十年近く。私はずっと一人だった。
 彼は仕事一筋。残業に休日出勤、単身赴任。家にいても心は別の場所にあった。
 私は子育ても悩みも全部、一人で抱えてきた。だから今さら「寄り添いたい」と言われても、どう応えればいいのか分からない。

 結婚前、二人で語り合った夢を思い出す。世界中を旅しようと笑い合ったあの時間を。彼は「いつか」と言ったけれど、その「いつか」は一度も訪れなかった。

 バラの剪定をひとしきり進める間に、いつの間にかスマートフォンへ娘からのメッセージが届いていた。
 昨日、夫のことを少し愚痴った返事だ。

『お父さんが家にいて戸惑うと思うけど、少しずつ慣れていけばいいんじゃないかな。
 二人ともまだ元気だし、一緒にできることたくさんあると思うよ』

 私は画面を閉じ、深く息をつく。
 娘は独り立ちし、もう親の背中を見守る立場にいる。その言葉が胸の奥に静かに響いた。

 ふと、背後で声がした。

「なあ」

「何」

「もう一度、旅の計画を立てないか。
 あの頃、行きたいと言っていた場所」

 私は振り返らなかった。胸の奥で何かが揺れていた。けれど、すぐには言葉にできない。
 肩が震えるのを自分でも感じた。

「ずっと私は待っていたのよ。
 でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
 今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」

 彼は黙り込んだ。
 私はバラを切る手を止める。ハサミを持つ指先が、かすかに震える。

「どうすればいいのか、私にも分からない。
 あなたが家にいることにまだ慣れない。話しかけられても、どう答えればいいのか。
 ずっと一人でいることに慣れすぎてしまったのよ」

 怒り、諦め、そして言葉にならない別の気持ち。整理できずに胸の中で絡まり合っている。
 こんな一方的な怒りはただのヒステリーだ。私は彼の顔を見ようとして、やめた。

 わかっている、彼もまたどうしたらいいかわからないのだ。
 長い年月が作った溝の前で、私たちは立ち尽くしている。

 夫は静かに求人情報誌を閉じ、剪定した枝や葉をまとめ始める。

「……旅じゃなくていい、一緒に出来ることを考えてくれないか」
「庭の手入れとか」

 精いっぱい寄り添おうとする彼に、これ以上意地を張っても仕方ない。

「じゃあ、草むしりから始めましょうか」

 四十年分の埋め合わせはできない。でも、今日という一日から、少しずつ歩み寄ることはできるのかもしれない。
 耳を傾けてみよう。四十年分の沈黙の奥にある、互いの声を。

 ──私たちの旅は続く。

9/30/2025, 3:49:33 PM