〈Beyond Monochrome〉
世界が灰色になったのは、いつからだったろう。
あの日、上司の怒鳴り声が響いた会議室を出てからだろうか。それとも、毎日のように浴びせられる言葉の暴力に、心が少しずつ削られていったからか。
気づけば、朝起きることも、服を選ぶことも、すべてが鉛のように重く感じられるようになっていた。
退職届を出した日のことは、あまり覚えていない。ただ、白い紙に黒い文字を書いた感触だけが、妙に鮮明に残っている。
それから三ヶ月。私の部屋は、白い壁とグレーのカーテン、黒いテーブルだけの空間になった。
外を見ても、空は鉛色で、街路樹も建物も、すべてがモノクロ写真のようにしか見えなかった。色がないのか、色が見えなくなったのか、もうどうでもよかった。
ある日の午後、スマートフォンがふるえ、友人からのメッセージを伝える。
「最近どう?
新しくできたカフェ、タルトがすごく美味しかったよ」
添付された画像には、色とりどりのスイーツが並んでいたはずだった。
けれど、私の画面に映るのは、グレーのプレートに載った白と黒の濃淡だけ。
今の私を知っている友人は、時々こうしてメッセージを送ってくれる。返事をしないことが多いのに、諦めずに。
その日は、なぜか指が動いた。
「ありがとう。綺麗だね」
短い返事。それでも送信ボタンを押した後、不思議な気持ちになった。
翌朝、もう一度その画像を見た。
そして、ふと思った。本当は、どんな色をしているんだろう。
外に出たのは、それから三日後のことだった。
重い体を引きずるように玄関を出て、友人が教えてくれたカフェまで歩いた。灰色の世界を、ゆっくりと。
店のガラス越しに見えるショーケースに、私は息を呑む。
ストロベリータルトの苺は真っ赤だった。レモンタルトは鮮やかな黄色で、抹茶のケーキは深い緑色をしていた。
はっきりとした、鮮やかな色。
私は震える手でガラスに触れ、それからゆっくりと周りを見回した。
街路樹の葉が緑色に揺れていた。信号機が青、黄、赤と光っていた。
イベントがあるのか、木々から吊されるフラッグガーランドが色とりどりに風に揺れていた。
空は淡い青で、雲は白く、どこまでも広がっていた。
涙が溢れた。
世界は、ずっとそこにあったのだ。色を失っていたのは、世界ではなく、私の心だった。
気づけば、レモンタルトを買っていた。久しぶりに持つ紙袋が、妙に軽く感じられる。
部屋に戻って、引き出しの奥にしまっていたお気に入りの皿を取り出した。淡い青色の縁取りがある白い磁器の皿。学生時代、友人と一緒に行った雑貨屋で買ったものだ。
ゆっくりとケーキを皿に載せる。鮮やかな黄色のレモンクリームが、白い皿の上で輝いていた。
写真を撮り、友人に送る。速攻で「次はここに行こう!😋」とカフェの地図がやってくる。
学生時代と変わらない、彼女の心遣いがとてもありがたい。
私は小さく笑った。
まだ、すぐに何かができるわけじゃない。明日が楽になるわけでもない。
でも、少なくとも今日、世界に色が戻った。
それだけで、十分だと思えた。
9/29/2025, 11:52:53 AM