汀月透子

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〈誰か〉

 健康診断の結果を見たとき、思わず笑ってしまった。
「要検査」という赤い文字が、白い紙の真ん中にぽつんと印刷されている。笑ったのは、それがあまりに他人事めいて見えたからだ。
 けれど、紙を折り畳んでポケットにしまった瞬間、胸の奥に重たい石が落ちるような感覚があった。

 会社からの帰り道、コンビニの灯りが妙に滲んで見えた。
 四月も半ば、空気はまだ肌寒い。夜風に吹かれながら、ふと「俺がもし本当に病気だったら」と考える。
 そうなったとき、最初に電話をかける相手は誰だろう。

 部屋に戻り、電気を点けた。ワンルームのマンションは静かすぎる。冷蔵庫の中にはビールと納豆が入っているだけだ。
 ソファに腰を下ろし、診断結果の紙を広げ直す。

 誰かに話したい。この検査結果を。怖いということを。
 でも、誰に?

 両親はもういない。職場の同僚は皆家族持ちだ。「俺も健康診断引っかかっちゃってさあ」と言えば、「うちの嫁がうるさくてさ」という話になる。俺にはその「うちの嫁」がいない。

 学生時代の友人も然り。年に一度の同窓会で会うだけの関係。
 そこで「実は」なんて話せるわけがない。

「……誰か、そばにいてくれよ」

 声に出してみる。返事はない。白い壁に吸い込まれるだけだ。
 情けないことに、涙が滲んできた。
 まだ何の病気だと決まったわけでもない。けれど「要検査」という文字は、俺の孤独を残酷に照らし出す。

 ふと脳裏に浮かんだのは、遠方に嫁いだ姉の顔だった。
 最後に会ったのは、数年前の法事だったか。あのときも「ちゃんと体調に気をつけなよ」と言われて、俺は適当に笑ってごまかした。
 電話をすれば、姉はきっと心配して叱ってくれるだろう。そして、姉の子どもたちの騒がしい声も受話器越しに聞こえてくるに違いない。

 想像するだけで、胸の奥の重さがほんの少し軽くなる気がした。
 すぐに会える距離じゃなくても、声を交わせば十分に繋がれる存在。

「……電話してみるか」

 小さくつぶやくと、不思議と肩の力が抜けた。
 検査の結果がどうであれ、一人で抱え込む必要はないのかもしれない。

「よし」

 俺はスマホを握りしめ、まずは検査の予約を入れる決意をした。
 そのあと、姉に電話をかけてみよう。甥っ子姪っ子の元気な声を聞いたら、きっと明日を生きる力になる。

 時計の針は深夜を回っていた。窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でる。
 俺みたいな誰かが眠る街。
 この街のどこかで、俺と同じように不安を抱えた誰かも眠れずにいるのかもしれない。

 窓を閉め、冷蔵庫からビールを一本取り出す。
 今夜だけは、自分を許してやろう。そして明日から、ちゃんと生きていこう。

10/3/2025, 2:32:42 PM