汀月透子

Open App

〈秋の訪れ〉

 朝、窓を開けると、風がほんの少しだけ涼しくなっていた。頬をなでていく空気に、思わず深く息を吸い込む。
 湿った熱気にまとわりつかれていた夏の日々が、ようやく遠ざかりつつあると知った。

 五歳の娘が「今日は長袖にする!」と嬉しそうに宣言する。昨日まで汗まみれで服を何度も着替えさせたのに、今朝は自分から袖を通して笑っている。
 膝の上ではまだ眠たそうな赤ん坊がふにゃりと笑った。暑さで寝付きの悪かった夜も、今日はよく眠れたらしい。
 自然と、笑みがこぼれる。。

 夏の間、家族の体調を守るために、冷房や食事や水分に気を張り詰めてきた。
 仕事を終えて保育園に駆け込み、抱っこひもで赤ん坊を揺らしながら夕飯をつくる日々。額から滴る汗に、自分が溶けてしまいそうだと何度思っただろう。
 けれど、今朝の風は、私の背中をすっと軽くしてくれる。

 出勤前、娘と赤ん坊を連れて家を出る。空の青が、どこか高く澄んで見えた。
 蝉の声もう聞こえない。代わりに草むらから鈴のような虫の音が響いてくる。
 娘が「すずむし?」と首を傾げる。
 私は「そうだね、秋の声だね」と答えながら、歩調を合わせる。

 保育園の門の前で娘が駆け足になり、「ママ、いってきます!」と振り返る。
 小さな背中に、すでに夏を脱ぎ捨てた軽やかさがあった。赤ん坊を預け、私も職場へ向かう。

 通勤路の並木道に、まだ緑の葉の端が少しだけ黄みを帯びているのに気づいた。立ち止まり、スマートフォンを取り出す手を思わず引っ込める
 この景色は写真よりも、私自身に残しておきたい。風に揺れる葉の音、足元を転がるどんぐりの小さな丸み。
 すべてが「もう大丈夫」と囁いてくれている気がした。

 職場に着く頃には、心の中の重石が少し溶けていた。夏の間、ただ生き延びるように積み上げてきた毎日。
 けれど秋が来る。汗に追われない夜、温かいスープを囲む食卓、子どもたちと歩く夕暮れ道。小さな楽しみを思い描くだけで、体がふっと軽くなる。

 窓の外に視線をやる。ビルの影に伸びる風が、私の頬をまた撫でていった。

 ──秋が来たのだ。
 それだけで、私は今日を頑張れる気がした。

10/1/2025, 8:58:13 PM