汀月透子

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〈今日だけ許して〉

「今日こそは早く帰ってきてね」

 朝、玄関で靴を履く俺を、妻がいつもより真剣な顔で見送った。

「ああ、わかってる」

 適当に返事をしたが、内心少し焦っていた。
 ここ二週間何らかの呑み会続きで、まともに家で夕食を食べていない。五十八歳にもなって、まるで若手社員のような生活だ。

「わかってる、じゃないの。
 この前の健康診断、肝臓の数値が悪かったでしょう。お医者さんにも注意されたのに」

「大丈夫だって。今日は本当に帰るから」

 そう約束して家を出た。本当に、今日こそは早く帰るつもりだった。

 ところが、会社を出た午後六時過ぎ、携帯が鳴った。田中からだ。
 大学時代からの親友で、もう三十年以上の付き合いになる。

「おう、斉藤か。
 今夜空いてるか? 久しぶりに一杯どうだ」
「いや、今日はちょっと……」
「そう言うなよ。
 実は息子が結婚することになってさ、お前に真っ先に報告したくてな」

 田中の声が弾んでいる。
 息子の晴れの報告を断るわけにはいかない。俺は一瞬ためらったが、結局こう答えていた。

 「……わかった。でも一時間だけな」

 午後七時、いつもの居酒屋で田中と合流した。
 ビールで乾杯すると、田中は嬉しそうに息子の話を始める。
 一時間だけのつもりが、話は尽きなかった。息子の結婚相手の話、昔の思い出話、仕事の愚痴。気づけば時計は十一時を回っていた。

──やばい。完全にやばい。

「じゃあ、そろそろ……」

 会計を済ませ、駅までの道を急いだ。
 頭の中で言い訳を考える。田中の息子が結婚するって話でつい……いや、それで四時間は通用しないか。

 自宅の玄関前で、俺は深呼吸した。鍵を開ける手が少し震える。

「ただいま……」

 リビングの電気はついていた。恵子はソファに座ったまま、無言でこちらを見ていた。その目には、怒りというより深い失望が浮かんでいる。

「田中に会ってた。
 息子が結婚するって話で……」
「それで四時間も?」

 恵子の静かな声が胸に刺さる。

「いや、つい話が弾んで……今日だけ許して」
「今日だけじゃないでしょう。もう二週間も続いてるのよ」

 恵子は立ち上がり、テーブルの上の封筒を俺に突きつけた。先週の健康診断の結果だ。

「肝機能、γ-GTP 158。基準値の三倍。
 医師のコメント欄、読んだ? 『このまま飲酒を続ければ、肝硬変のリスクが高まります』って」

 俺は黙り込んだ。確かに医師には注意された。
 でも、まだ大丈夫だろうと高を括っていた。

「あなた、もう若くないの。来年還暦よ。
 私、あなたに長生きしてほしいの。一緒に孫の顔を見たいの」

 恵子の目にわずかに涙が光る。それを見た瞬間、俺の中で何かが崩れた。

 三十年連れ添った妻が、こんなに真剣に自分の健康を心配してくれている。
 それなのに俺は、友人の誘いを断れずに、また約束を破った。

「……すまなかった」

 俺は頭を下げた。五十八年生きてきて、こんなに深く頭を下げたのは久しぶりだ。

「禁酒する。会社の飲み会も断る。
 田中にも明日メールする。しばらく酒は控えるってな」
「本当に?」
「ああ、本当だ。次はない」

 妻はしばらく黙っていたが、ふっと小さくため息をつきながら立ち上がる。
 キッチンで淹れたお茶を差し出してきた。

「次は、本当にないからね」

 小さな湯気が、ふたりの間に立ちのぼった。
 俺はその温かさに、ようやく帰ってきた気がした。

10/4/2025, 12:48:07 PM