汀月透子

Open App

〈燃える葉〉

 庭のモミジは、燃え上がるほどの赤さではない。
 けれど、朝の光を受けてゆらめくその葉を見ていると、ふいに昔の山道が思い出される。
 息を切らして登った坂道、時折頬をなでてゆく冷えた空気。そして、目の前に広がった燃えるような紅葉の海──あの光景はいまも胸の奥に残っている。

 あれは、結婚するよりずっと前のことだった。
 大学のサークルで知り合った彼と、二人きりで出かけた晩秋の旅。軽い気持ちのつもりだったのに、山に着くころには胸が高鳴っていた。
 見晴らし台の柵にもたれながら、彼は「ほら、すごいだろう」と笑った。
 その笑顔の向こうに、まるで空を焦がすような紅葉が広がっていた。陽に透ける紅葉が風に揺れ、谷を渡るたび、世界が赤く息づくように思えた。

 その時、私はふと思った。
──この人と一緒にいたい、と。
 けれど、その願いは叶うことなく、時の流れに溶けていった。

 やがて私は別の人と結婚し、子どもを育て、夫を見送り、今はこうして一人で暮らしている。
 穏やかな人生だったと思う。けれど、胸の奥に小さな火が灯る。あの紅葉の赤が、忘れたはずの想いを呼び覚ますのだ。

 この秋、町内会で「○○山の紅葉が見頃だ」と聞いた。
 心がざわめいた。行ってみようか──そんな想いが湧き上がった。

 電車を乗り継ぎ、山道を歩く。近年観光地化されて歩きやすくなったと言うが、膝は痛むし息も上がる。それでも足を止められなかった。

 やがて、あの見晴らし台にたどり着いた。
 冬の匂いをまとった風が頬を撫で、眼下に赤や橙の波が広がる。あのときほどの鮮烈さではないけれど、確かにそこにあった。燃えるような葉の群れ。
 赤、橙、金。光に揺らめく無数の葉が、まるで空へ燃え上がっていくようだ。

 彼はいない。けれど、風の中にあの日の笑い声が溶けている気がした。
 私は柵に手を添え、ゆっくりと息を吐いた。

 ──庭のモミジは燃え上がるほどの赤さではない。けれど、私の心のどこかでは、今もあの日の葉が燃え続けている。

 夕暮れが近づく。陽を受けた紅葉が、さらに深く燃え始める。
 私はその光の中で、しばらく目を閉じた。過ぎ去った日々も、今ここにある静けさも、同じように心を温めていく。
 あのときの赤が、心の中でほむらを上げては散って行く。

 ──燃える葉は、散る瞬間まで美しい。
 帰りの道すがら、私はそう思った。

10/6/2025, 1:43:33 PM