〈静寂の中心で〉
またスマホが震えた。母からのLINEだ。
「○○商事の説明会、申し込んだ?」
私は長い長いため息をつく。
別の通知を見て、スマホの画面を何度もスクロールする。
就職サイトのエントリー一覧。企業のロゴが並ぶその画面は、どれも同じに見えた。
「どこ受けたの?」
「内定出た?」
友達の声が、廊下の向こうから笑いと一緒に流れてくる。ゼミのグループチャットには、面接の進捗や企業研究の情報が飛び交っていた。
返信する指が止まる。何を言えばいいのか分からない。
母からのLINEには「○○商事、近所の子が入ったらしいよ。安定してていい会社みたい」と書かれていた。
安定。いい会社。働きやすい。
言葉だけが、耳の奥で何度も反響して、だんだん意味を失っていく。
私は画面を伏せて、カフェのテーブルに突っ伏した。
就活が本格化してから、世界がやかましくなった。
親は「安定した大企業に」と言い、ゼミの教授は「君なら研究職が向いている」と諭す。
友達は内定自慢とも愚痴ともつかない話を延々と続け、就活サイトは毎日何十通ものメールで「あなたにぴったりの企業」を押し付けてくる。
──私は何がしたいんだろう。
四年間、勉強して、サークルに行って、バイトして、それなりに楽しかった。でも、これからのことを考えると、頭の中がざわつく。
どこに行けば正解なのか。どの会社が「私らしい」のか。
そんなこと、誰も教えてくれない。
リクルートスーツを着て鏡を見るたび、そこに映るのは私じゃない誰かのように思える。
面接で話す言葉も、エントリーシートに書く文章も、すべて「私らしい私」を演じているだけだ。
本当の私は、その背後でずっと黙っている。
「まだ決まらないの?」
「みんな動いてるよ」
「焦らなくて大丈夫?」
善意の声は、どれも雑音にしか聞こえない。
就活はゴールじゃない。スタートでもない。ただの通過点だ。なのに、どうしてこんなに周りの声ばかりが大きく響くんだろう。
耳をふさぎたい……見えない、でもとてつもない圧に押しつぶされそうになり、図書館に逃げ込んだ。
最上階の、誰も来ない古文書のコーナー。
静かだ。でも完全な静寂じゃない。階下の人の気配、密かな足音。
音があるのに、心が静まっていく。
──ああ、私、疲れているんだ。
みんなの声に応えようとして、みんなの期待に沿おうとして、いつの間にか自分の声が聞こえなくなっていた。
スマホの電源を切った。SNSもメールも、今日は全部無視する。
静寂の中心に立って、私は目を閉じる。ゆっくり呼吸をする。喧騒を全部置いて、まっさらな場所に戻る。
ようやく、心の内の小さな声が聞こえてきた。
就職は何のため?
お金のため?
安心のため?
誰かのため?
それとも、自分のため?
メモを取り出し、一つひとつ箇条書きにする。
書くうちに、胸のざわめきが少しずつ小さくなっていった。
静寂は、逃げ込む場所じゃなく、立ち止まるための場所なんだ。
そう気づいた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。
閉館のアナウンスが流れる。私は慌てて荷物をまとめ、館外に出た。
スマホの電源を入れると、様々な通知が鬼のように流れる。
世界はまだうるさい。
でも、私はようやく、静寂の中心で息をした。
〈燃える葉〉
庭のモミジは、燃え上がるほどの赤さではない。
けれど、朝の光を受けてゆらめくその葉を見ていると、ふいに昔の山道が思い出される。
息を切らして登った坂道、時折頬をなでてゆく冷えた空気。そして、目の前に広がった燃えるような紅葉の海──あの光景はいまも胸の奥に残っている。
あれは、結婚するよりずっと前のことだった。
大学のサークルで知り合った彼と、二人きりで出かけた晩秋の旅。軽い気持ちのつもりだったのに、山に着くころには胸が高鳴っていた。
見晴らし台の柵にもたれながら、彼は「ほら、すごいだろう」と笑った。
その笑顔の向こうに、まるで空を焦がすような紅葉が広がっていた。陽に透ける紅葉が風に揺れ、谷を渡るたび、世界が赤く息づくように思えた。
その時、私はふと思った。
──この人と一緒にいたい、と。
けれど、その願いは叶うことなく、時の流れに溶けていった。
やがて私は別の人と結婚し、子どもを育て、夫を見送り、今はこうして一人で暮らしている。
穏やかな人生だったと思う。けれど、胸の奥に小さな火が灯る。あの紅葉の赤が、忘れたはずの想いを呼び覚ますのだ。
この秋、町内会で「○○山の紅葉が見頃だ」と聞いた。
心がざわめいた。行ってみようか──そんな想いが湧き上がった。
電車を乗り継ぎ、山道を歩く。近年観光地化されて歩きやすくなったと言うが、膝は痛むし息も上がる。それでも足を止められなかった。
やがて、あの見晴らし台にたどり着いた。
冬の匂いをまとった風が頬を撫で、眼下に赤や橙の波が広がる。あのときほどの鮮烈さではないけれど、確かにそこにあった。燃えるような葉の群れ。
赤、橙、金。光に揺らめく無数の葉が、まるで空へ燃え上がっていくようだ。
彼はいない。けれど、風の中にあの日の笑い声が溶けている気がした。
私は柵に手を添え、ゆっくりと息を吐いた。
──庭のモミジは燃え上がるほどの赤さではない。けれど、私の心のどこかでは、今もあの日の葉が燃え続けている。
夕暮れが近づく。陽を受けた紅葉が、さらに深く燃え始める。
私はその光の中で、しばらく目を閉じた。過ぎ去った日々も、今ここにある静けさも、同じように心を温めていく。
あのときの赤が、心の中でほむらを上げては散って行く。
──燃える葉は、散る瞬間まで美しい。
帰りの道すがら、私はそう思った。
〈moonlight〉
会社の玄関を出たとき、夜の空気が頬を撫でた。昼間の湿った熱気がすっかり消えて、街灯の光が白く滲んでいる。
ふと空を見上げると、月がまるで雲の間からこちらを覗き込むように浮かんでいた。
あと一週間で退職する。理由は家庭の事情──母の介護、と言えば誰もが納得した顔をしてくれる。
けれど、本当のところは、自分の中で何かが静かに終わりを告げたのだと思う。
「今日も遅くなりましたね」
隣で話しかけてきたのは、上司の瀬尾さん。私より三つ年下で、同じ部署のまとめ役。
落ち着いた物腰の中に、時々、若さの名残のような真っ直ぐさを見せる人だ。
「残業、すみません。引き継ぎが思ったより手間取って」
「いいえ。僕も勉強になりますから」
そう言って彼は笑った。月明かりに照らされたその横顔が、思っていたより穏やかで、胸の奥に少し温かいものが灯った。
駅へ向かう道を並んで歩く。ビルの谷間から洩れる光と、月の光が混ざり合って、アスファルトに淡い影を落としている。
会社では上司と部下でも、こうして歩くと、不思議と同じ時間を歩いてきた仲間のように思えた。
「退職理由、誰にも話してなかったんですね」
「ええ。なんだか、まだ口にするのが怖くて」
「そうですよね。
僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えなかったです」
信号が赤に変わり、横断歩道の手前で立ち止まった。
見上げると、夜空の真ん中に丸い月が浮かんでいる。街の灯よりも少しだけ強く、でも刺すようではない光。
「……月が、綺麗ですね」
彼が小さくつぶやいた。
「ええ。
なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」
青に変わる信号を待ちながら、ふたりでしばらく空を見上げた。
月の光は、すべてをやわらかく包み込む。過ぎた日々の苦さも、思い残した気持ちも、ぼんやりと溶かしていくように。
「……瀬尾さん」
「はい?」
「この仕事、嫌いじゃなかったです」
「知ってます」
短い返事。けれど、その一言が、私には十分だった。
駅の入口で足を止める。終電の時刻が近い。
「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」
そう言って頭を下げると、彼は小さくうなずいた。
改札を抜けて振り返ると、彼はまだそこにいた。月の光を背にして、手を軽く上げる。
その姿が、夜の街に溶けていく。
きっと私は、この光景を忘れない。
十五年分の時間と、これから向かう未知の道。その境界に、彼の姿と今夜の月が静かに浮かんでいる。
〈今日だけ許して〉
「今日こそは早く帰ってきてね」
朝、玄関で靴を履く俺を、妻がいつもより真剣な顔で見送った。
「ああ、わかってる」
適当に返事をしたが、内心少し焦っていた。
ここ二週間何らかの呑み会続きで、まともに家で夕食を食べていない。五十八歳にもなって、まるで若手社員のような生活だ。
「わかってる、じゃないの。
この前の健康診断、肝臓の数値が悪かったでしょう。お医者さんにも注意されたのに」
「大丈夫だって。今日は本当に帰るから」
そう約束して家を出た。本当に、今日こそは早く帰るつもりだった。
ところが、会社を出た午後六時過ぎ、携帯が鳴った。田中からだ。
大学時代からの親友で、もう三十年以上の付き合いになる。
「おう、斉藤か。
今夜空いてるか? 久しぶりに一杯どうだ」
「いや、今日はちょっと……」
「そう言うなよ。
実は息子が結婚することになってさ、お前に真っ先に報告したくてな」
田中の声が弾んでいる。
息子の晴れの報告を断るわけにはいかない。俺は一瞬ためらったが、結局こう答えていた。
「……わかった。でも一時間だけな」
午後七時、いつもの居酒屋で田中と合流した。
ビールで乾杯すると、田中は嬉しそうに息子の話を始める。
一時間だけのつもりが、話は尽きなかった。息子の結婚相手の話、昔の思い出話、仕事の愚痴。気づけば時計は十一時を回っていた。
──やばい。完全にやばい。
「じゃあ、そろそろ……」
会計を済ませ、駅までの道を急いだ。
頭の中で言い訳を考える。田中の息子が結婚するって話でつい……いや、それで四時間は通用しないか。
自宅の玄関前で、俺は深呼吸した。鍵を開ける手が少し震える。
「ただいま……」
リビングの電気はついていた。恵子はソファに座ったまま、無言でこちらを見ていた。その目には、怒りというより深い失望が浮かんでいる。
「田中に会ってた。
息子が結婚するって話で……」
「それで四時間も?」
恵子の静かな声が胸に刺さる。
「いや、つい話が弾んで……今日だけ許して」
「今日だけじゃないでしょう。もう二週間も続いてるのよ」
恵子は立ち上がり、テーブルの上の封筒を俺に突きつけた。先週の健康診断の結果だ。
「肝機能、γ-GTP 158。基準値の三倍。
医師のコメント欄、読んだ? 『このまま飲酒を続ければ、肝硬変のリスクが高まります』って」
俺は黙り込んだ。確かに医師には注意された。
でも、まだ大丈夫だろうと高を括っていた。
「あなた、もう若くないの。来年還暦よ。
私、あなたに長生きしてほしいの。一緒に孫の顔を見たいの」
恵子の目にわずかに涙が光る。それを見た瞬間、俺の中で何かが崩れた。
三十年連れ添った妻が、こんなに真剣に自分の健康を心配してくれている。
それなのに俺は、友人の誘いを断れずに、また約束を破った。
「……すまなかった」
俺は頭を下げた。五十八年生きてきて、こんなに深く頭を下げたのは久しぶりだ。
「禁酒する。会社の飲み会も断る。
田中にも明日メールする。しばらく酒は控えるってな」
「本当に?」
「ああ、本当だ。次はない」
妻はしばらく黙っていたが、ふっと小さくため息をつきながら立ち上がる。
キッチンで淹れたお茶を差し出してきた。
「次は、本当にないからね」
小さな湯気が、ふたりの間に立ちのぼった。
俺はその温かさに、ようやく帰ってきた気がした。
〈誰か〉
健康診断の結果を見たとき、思わず笑ってしまった。
「要検査」という赤い文字が、白い紙の真ん中にぽつんと印刷されている。笑ったのは、それがあまりに他人事めいて見えたからだ。
けれど、紙を折り畳んでポケットにしまった瞬間、胸の奥に重たい石が落ちるような感覚があった。
会社からの帰り道、コンビニの灯りが妙に滲んで見えた。
四月も半ば、空気はまだ肌寒い。夜風に吹かれながら、ふと「俺がもし本当に病気だったら」と考える。
そうなったとき、最初に電話をかける相手は誰だろう。
部屋に戻り、電気を点けた。ワンルームのマンションは静かすぎる。冷蔵庫の中にはビールと納豆が入っているだけだ。
ソファに腰を下ろし、診断結果の紙を広げ直す。
誰かに話したい。この検査結果を。怖いということを。
でも、誰に?
両親はもういない。職場の同僚は皆家族持ちだ。「俺も健康診断引っかかっちゃってさあ」と言えば、「うちの嫁がうるさくてさ」という話になる。俺にはその「うちの嫁」がいない。
学生時代の友人も然り。年に一度の同窓会で会うだけの関係。
そこで「実は」なんて話せるわけがない。
「……誰か、そばにいてくれよ」
声に出してみる。返事はない。白い壁に吸い込まれるだけだ。
情けないことに、涙が滲んできた。
まだ何の病気だと決まったわけでもない。けれど「要検査」という文字は、俺の孤独を残酷に照らし出す。
ふと脳裏に浮かんだのは、遠方に嫁いだ姉の顔だった。
最後に会ったのは、数年前の法事だったか。あのときも「ちゃんと体調に気をつけなよ」と言われて、俺は適当に笑ってごまかした。
電話をすれば、姉はきっと心配して叱ってくれるだろう。そして、姉の子どもたちの騒がしい声も受話器越しに聞こえてくるに違いない。
想像するだけで、胸の奥の重さがほんの少し軽くなる気がした。
すぐに会える距離じゃなくても、声を交わせば十分に繋がれる存在。
「……電話してみるか」
小さくつぶやくと、不思議と肩の力が抜けた。
検査の結果がどうであれ、一人で抱え込む必要はないのかもしれない。
「よし」
俺はスマホを握りしめ、まずは検査の予約を入れる決意をした。
そのあと、姉に電話をかけてみよう。甥っ子姪っ子の元気な声を聞いたら、きっと明日を生きる力になる。
時計の針は深夜を回っていた。窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でる。
俺みたいな誰かが眠る街。
この街のどこかで、俺と同じように不安を抱えた誰かも眠れずにいるのかもしれない。
窓を閉め、冷蔵庫からビールを一本取り出す。
今夜だけは、自分を許してやろう。そして明日から、ちゃんと生きていこう。