〈遠い足音〉
夜、ふとんの中で目が覚めた。
廊下から、小さな足音が聞こえた気がした。
トン、トン、トン……。
ちょっと早歩きみたいなその調子は、圭にいちゃんの足音によく似ていた。
ぼくは目をつぶったまま、耳をすました。
いとこの圭にいちゃんは五つ年上で、ほんとうの兄ちゃんみたいな人だった。
いつも元気に歩いて、ぼくの手をぐいっと引っぱっていった。川原の近く、大きな石と木に囲まれたすきまが、二人の秘密基地だった。
中に入って、持ってきたお菓子をこっそり分け合って食べた。
「お前が中学生になったら、もっといろんなとこ連れてってやるからな」
そう言いながら、ぼくの頭をぐしゃぐしゃってなでた。大きな手は、あったかかった。
けれど、その約束はもう果たされない。
お葬式の日、おばちゃん──圭にいちゃんのお母さんの背中をなでながら、ぼくのお母さんも声を出さずに泣いていた。
ぼくも泣いたけれど、わけがよくわからなかった。
ただ「圭にいちゃんはどこへ行っちゃったんだろう」と、そればかり考えていた。
あれから三か月。
ときどき思い出す。
笑った顔。虫を追いかけて走ったこと。夏祭りで買ってくれたかき氷。思い出すたびに胸がきゅうっとなる。
さみしい、というのともちょっと違う気がするけれど、その気持ちにぴったりの言葉は、まだぼくには見つからない。
足音はもう聞こえない。たぶん、気のせいなんだ。
だって圭にいちゃんは、もうここにはいないんだから。
それでも、ぼくはふとんから手をのばしてみる。
「圭にいちゃん」
声に出して呼んだら、胸の中が少しだけ軽くなった。
窓の外から、虫の声がした。
圭にいちゃんが名前を教えてくれた、あの高い声の虫だ。
名前は忘れてしまったけれど。なんだったかな。
ぼくはもう一度、目をつぶった。
今度はぐっすり眠れそうな気がする。
きっと圭にいちゃんも、どこかで笑っている。そんな気がした。
遠くでまた足音がした。こんどは、少しずつ遠ざかっていくように。
ぼくは小さく笑って、静かに目を閉じた。
〈秋の訪れ〉
朝、窓を開けると、風がほんの少しだけ涼しくなっていた。頬をなでていく空気に、思わず深く息を吸い込む。
湿った熱気にまとわりつかれていた夏の日々が、ようやく遠ざかりつつあると知った。
五歳の娘が「今日は長袖にする!」と嬉しそうに宣言する。昨日まで汗まみれで服を何度も着替えさせたのに、今朝は自分から袖を通して笑っている。
膝の上ではまだ眠たそうな赤ん坊がふにゃりと笑った。暑さで寝付きの悪かった夜も、今日はよく眠れたらしい。
自然と、笑みがこぼれる。。
夏の間、家族の体調を守るために、冷房や食事や水分に気を張り詰めてきた。
仕事を終えて保育園に駆け込み、抱っこひもで赤ん坊を揺らしながら夕飯をつくる日々。額から滴る汗に、自分が溶けてしまいそうだと何度思っただろう。
けれど、今朝の風は、私の背中をすっと軽くしてくれる。
出勤前、娘と赤ん坊を連れて家を出る。空の青が、どこか高く澄んで見えた。
蝉の声もう聞こえない。代わりに草むらから鈴のような虫の音が響いてくる。
娘が「すずむし?」と首を傾げる。
私は「そうだね、秋の声だね」と答えながら、歩調を合わせる。
保育園の門の前で娘が駆け足になり、「ママ、いってきます!」と振り返る。
小さな背中に、すでに夏を脱ぎ捨てた軽やかさがあった。赤ん坊を預け、私も職場へ向かう。
通勤路の並木道に、まだ緑の葉の端が少しだけ黄みを帯びているのに気づいた。立ち止まり、スマートフォンを取り出す手を思わず引っ込める
この景色は写真よりも、私自身に残しておきたい。風に揺れる葉の音、足元を転がるどんぐりの小さな丸み。
すべてが「もう大丈夫」と囁いてくれている気がした。
職場に着く頃には、心の中の重石が少し溶けていた。夏の間、ただ生き延びるように積み上げてきた毎日。
けれど秋が来る。汗に追われない夜、温かいスープを囲む食卓、子どもたちと歩く夕暮れ道。小さな楽しみを思い描くだけで、体がふっと軽くなる。
窓の外に視線をやる。ビルの影に伸びる風が、私の頬をまた撫でていった。
──秋が来たのだ。
それだけで、私は今日を頑張れる気がした。
〈旅は続く〉
夫が定年退職して三ヶ月。リビングでコーヒーを飲む彼の横顔を見ながら、私もカップにコーヒーを注いだ。
テーブルの上には、また求人情報誌が広げられている。
「また見てるの」
思わず冷たい声が出てしまった。
彼は曖昧に笑いながら、「いや、まだ決めかねていて」と答える。
「あなたの好きにすればいいじゃない」
私はそう言って、カップを持ち庭へ出た。
バラの枝先を見つめながら、胸の奥に渦巻く感情を持て余していた。
結婚して四十年近く。私はずっと一人だった。
彼は仕事一筋。残業に休日出勤、単身赴任。家にいても心は別の場所にあった。
私は子育ても悩みも全部、一人で抱えてきた。だから今さら「寄り添いたい」と言われても、どう応えればいいのか分からない。
結婚前、二人で語り合った夢を思い出す。世界中を旅しようと笑い合ったあの時間を。彼は「いつか」と言ったけれど、その「いつか」は一度も訪れなかった。
バラの剪定をひとしきり進める間に、いつの間にかスマートフォンへ娘からのメッセージが届いていた。
昨日、夫のことを少し愚痴った返事だ。
『お父さんが家にいて戸惑うと思うけど、少しずつ慣れていけばいいんじゃないかな。
二人ともまだ元気だし、一緒にできることたくさんあると思うよ』
私は画面を閉じ、深く息をつく。
娘は独り立ちし、もう親の背中を見守る立場にいる。その言葉が胸の奥に静かに響いた。
ふと、背後で声がした。
「なあ」
「何」
「もう一度、旅の計画を立てないか。
あの頃、行きたいと言っていた場所」
私は振り返らなかった。胸の奥で何かが揺れていた。けれど、すぐには言葉にできない。
肩が震えるのを自分でも感じた。
「ずっと私は待っていたのよ。
でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」
彼は黙り込んだ。
私はバラを切る手を止める。ハサミを持つ指先が、かすかに震える。
「どうすればいいのか、私にも分からない。
あなたが家にいることにまだ慣れない。話しかけられても、どう答えればいいのか。
ずっと一人でいることに慣れすぎてしまったのよ」
怒り、諦め、そして言葉にならない別の気持ち。整理できずに胸の中で絡まり合っている。
こんな一方的な怒りはただのヒステリーだ。私は彼の顔を見ようとして、やめた。
わかっている、彼もまたどうしたらいいかわからないのだ。
長い年月が作った溝の前で、私たちは立ち尽くしている。
夫は静かに求人情報誌を閉じ、剪定した枝や葉をまとめ始める。
「……旅じゃなくていい、一緒に出来ることを考えてくれないか」
「庭の手入れとか」
精いっぱい寄り添おうとする彼に、これ以上意地を張っても仕方ない。
「じゃあ、草むしりから始めましょうか」
四十年分の埋め合わせはできない。でも、今日という一日から、少しずつ歩み寄ることはできるのかもしれない。
耳を傾けてみよう。四十年分の沈黙の奥にある、互いの声を。
──私たちの旅は続く。
〈Beyond Monochrome〉
世界が灰色になったのは、いつからだったろう。
あの日、上司の怒鳴り声が響いた会議室を出てからだろうか。それとも、毎日のように浴びせられる言葉の暴力に、心が少しずつ削られていったからか。
気づけば、朝起きることも、服を選ぶことも、すべてが鉛のように重く感じられるようになっていた。
退職届を出した日のことは、あまり覚えていない。ただ、白い紙に黒い文字を書いた感触だけが、妙に鮮明に残っている。
それから三ヶ月。私の部屋は、白い壁とグレーのカーテン、黒いテーブルだけの空間になった。
外を見ても、空は鉛色で、街路樹も建物も、すべてがモノクロ写真のようにしか見えなかった。色がないのか、色が見えなくなったのか、もうどうでもよかった。
ある日の午後、スマートフォンがふるえ、友人からのメッセージを伝える。
「最近どう?
新しくできたカフェ、タルトがすごく美味しかったよ」
添付された画像には、色とりどりのスイーツが並んでいたはずだった。
けれど、私の画面に映るのは、グレーのプレートに載った白と黒の濃淡だけ。
今の私を知っている友人は、時々こうしてメッセージを送ってくれる。返事をしないことが多いのに、諦めずに。
その日は、なぜか指が動いた。
「ありがとう。綺麗だね」
短い返事。それでも送信ボタンを押した後、不思議な気持ちになった。
翌朝、もう一度その画像を見た。
そして、ふと思った。本当は、どんな色をしているんだろう。
外に出たのは、それから三日後のことだった。
重い体を引きずるように玄関を出て、友人が教えてくれたカフェまで歩いた。灰色の世界を、ゆっくりと。
店のガラス越しに見えるショーケースに、私は息を呑む。
ストロベリータルトの苺は真っ赤だった。レモンタルトは鮮やかな黄色で、抹茶のケーキは深い緑色をしていた。
はっきりとした、鮮やかな色。
私は震える手でガラスに触れ、それからゆっくりと周りを見回した。
街路樹の葉が緑色に揺れていた。信号機が青、黄、赤と光っていた。
イベントがあるのか、木々から吊されるフラッグガーランドが色とりどりに風に揺れていた。
空は淡い青で、雲は白く、どこまでも広がっていた。
涙が溢れた。
世界は、ずっとそこにあったのだ。色を失っていたのは、世界ではなく、私の心だった。
気づけば、レモンタルトを買っていた。久しぶりに持つ紙袋が、妙に軽く感じられる。
部屋に戻って、引き出しの奥にしまっていたお気に入りの皿を取り出した。淡い青色の縁取りがある白い磁器の皿。学生時代、友人と一緒に行った雑貨屋で買ったものだ。
ゆっくりとケーキを皿に載せる。鮮やかな黄色のレモンクリームが、白い皿の上で輝いていた。
写真を撮り、友人に送る。速攻で「次はここに行こう!😋」とカフェの地図がやってくる。
学生時代と変わらない、彼女の心遣いがとてもありがたい。
私は小さく笑った。
まだ、すぐに何かができるわけじゃない。明日が楽になるわけでもない。
でも、少なくとも今日、世界に色が戻った。
それだけで、十分だと思えた。
〈永遠なんて、ないけれど〉
仕事帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見て、思わず目を逸らした。疲れているのか、あるいは迷っているのか。
社会人3年目、もう人生に手詰まりを感じている自分が情けない。
ふと、彼女のことを思い出した。
中学のときの同級生。笑い声が大きくて、ちょっと不器用で、それでもクラスの中心にいるような存在だった子。
高校受験を控えたある日、交通事故で急にいなくなってしまった。
葬儀の帰り道、ブレザーのポケットに入っていたミントキャンディの味を、私は今でも覚えている。
あの子がくれたキャンディ。甘いのに冷たくて、涙の味と混ざって胸が詰まった。
あれから十年。私は大学を出て、社会人になって、ただ流されるように毎日をこなしている。
あの子がもし生きていたら、今ごろどんな道を歩いていただろう。まっすぐに夢を追っていたんだろうか。
それとも私と同じように、現実に迷っていたんだろうか。
考えても答えは出ない。でも一つだけ確かなのは、あの子には「今」がないということだ。永遠に十五歳のまま、写真の中で笑っている。
同い年の友達が突然いなくなるなんて、考えられなかったあの頃。
希望に満ちた日々が、永遠に続くと思っていたあの頃。
「永遠なんて、ない」
中学生の私は、泣きながらそう呟いた。
けれど今は違う意味でその言葉を思う。
永遠がないからこそ、人は立ち止まってはいられないんだ、と。
あの子の時間は止まってしまった。だから、残された私が動き続けるしかない。たとえ迷っていても、不器用でも。
電車が駅に着き、ドアが開く。冷たい夜風が頬を撫でた。
永遠なんて、ないけれど。
今この瞬間を生きるため、私はこの一歩を踏み出していく。