〈涙の理由〉
仕事帰りに立ち寄ったカフェの窓際で、私は冷めかけたカフェラテを指先で揺らしていた。
ガラス越しの街は灯りに満ちているのに、胸の奥にはどうしても影が残る。
三十三歳。親も親戚も同僚も、皆そろって「結婚」を口にする。
「そろそろ決めたら?」
「彼がいるなら安心だね」
数年付き合っている真司の存在を言えば、決まりきったように「じゃあ次は式だね」と笑顔を向けられる。
真司は穏やかで、どこまでも優しい。けれど、彼と歩む未来を思い描こうとすると、胸の中にぽっかりと白い空白ができる。
温かな手のひらのように確かに支えられているのに、その先の景色がどうしても見えない。
同僚が結婚を決めたと聞いた日。
笑顔で「おめでとう」と言った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
私もそうあるべきなのか。
それとも、違う道を選んでもいいのか。
数日後に真司と過ごした後、不意に涙が滲んだことがあった。
「どうした? 泣いてる?」
真司の声で初めて気づいた。理由を答えられず、私は笑ってごまかす。
その涙は、悲しみでも喜びでもなく、自分でも名前のつけられない感情だった。
涙の理由は、まだはっきりとは言えない。
ただ、周囲の期待と、自分の中の曖昧な答えの狭間で、押し出されるように溢れていたのだと思う。
カフェを出て夜風に触れたとき、ようやく私は自分に問いかけた。
「私はどうしたいんだろう」
すぐには答えが見つからない。また涙がにじむ。
けれど、この涙──心の声に耳を澄ませれば、いつか辿り着ける気がする。
街の灯りが遠ざかる。私はひとり歩きながら、頬に残る涙の温度を確かめていた。
それが私を導く、最初の手がかりになると信じながら。
〈コーヒーが冷めないうちに〉
学食の隅のテーブルで、俺はコーヒーカップを見つめていた。淹れたてでまだ口に含むには熱すぎる。
隣では、同じゼミの井上と高橋が昨夜のコンパの話で盛り上がっている。
「なあ、あの子、絶対俺に気があったって!
LINE交換したし、今度映画でも誘ってみるわ」
井上の声が響く。
「おい中村、今度一緒に来いよ。
就活前なんだし、リフレッシュも必要だって」
高橋が振り返り、笑顔を向ける。慌ててコーヒーをすすったら、熱すぎて舌がひりっとした。
「……今度な」
言葉だけ合わせたが、気は重い。
俺は昔から、ああいう場がどうにも苦手だ。盛り上がり方も、話す内容も、よくわからない。
「そういえばさ、おまえ就活どうするんだよ?もう十二月だぞ。
俺ら、業界研究始めてるけど」
井上の言葉に、気づくとカップの中で小さな渦ができていた。スプーンを無意識に回していたらしい。
「まだ……考え中かな」
それが正直な気持ちだった。
みんなは未来に向かって走り出しているけど、俺はまだスタートラインに立てていない気がする。
バイト先の店長の声がふと蘇った。
「中村君は真面目だし、お客さんからの信頼もあるよ。
自分のいいところを、もっと信じてみたら?」
その言葉が、少しだけ背中を押す。
カップを傾けると、最後の一滴はもうぬるかった。
でも、その苦味の奥に不思議と優しい甘さを感じた。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「なあ、今度キャリアセンターに一緒に行かないか?」
自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。
コンパじゃ盛り上がれなくても、就活なら肩を並べられるかもしれない。
「おっ、それいいな!俺たちも相談したいことあるし」
井上と高橋が笑顔で答える。
学食を出るとき、振り返ると俺が座っていた席には、別の学生が新しいコーヒーを手にしていた。
湯気が立ち上り、明るい昼の光に溶けていく。
最後の一口の苦味を反芻しながら、先に行く友の背を追う。
あれこれ躊躇せず思い立ったら踏み出さないと。そのカップのコーヒーが冷めないうちに。
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※一部表現を修正しました。
〈パラレルワールド〉
日曜の昼前、リビングで編み物をしていた。夫はソファで新聞を読んでいる。
夫婦の会話は最低限。子どもたちが独り立ちしてからはずっとこんな時間を過ごしている。
見るわけもなく点けているテレビからは懐かしのメロディーが流れていた。
シャルル・アズナブールの「Hier encore」が響いた瞬間、編み針が止まる。
あの頃、酔うと「彼」がよく口ずさんでいた歌。フランス語の意味も知らずに、歌う彼の横顔を見ていたっけ。
「帰り来ぬ青春」──記憶の扉が静かに開いた。
「一緒に歩いて行こう」
彼はそう言って私の手を握った。将来も見えていないのに。
私は安定を選んだ。両親の期待、世間の常識、将来への不安。すべてが私を今の道へと導いた。
オペラのような歌声が響く。それは別の世界からのメッセージのように感じられる。
もし、あの時違う選択をしていたら。
パリの小さなアパートで彼と朝食を取り、午後はセーヌ川沿いを散歩して、夜は彼の歌声に耳を傾けている。そんな私がいるのだろうか。
気づけば、テレビからは別の曲が流れていた。
子どもたちの成長を見守り、夫と築き上げた穏やかな日々。
この世界で、私なりに幸せを見つけた。
パラレルワールドの私がどんな人生を歩んでいようと、こちらでも十分なほど満ち足りている。
懐かしのメロディーも終わり、テレビはもうすぐ正午を告げる。
「お昼、何にする?」
夫に訊ねると、いつものように「何でも」と素っ気ない言葉が返ってくる。
この世界はこの繰り返しね、と心の中で呟く。
「そうだ……あの喫茶店、まだあるかな」
不意に、夫が立ち上がる。
──あの喫茶店?
新婚の頃、よく行った喫茶店。
商店街の中にある落ち着いた雰囲気の古い店で、子どもが生まれてからはすっかり足が遠のいてしまったけど。
──さっきの、懐かしのメロディーで何を思い出したのかしら。
まあ、音楽で記憶を引き戻されるのも悪くないわねと思いつつ、いつもとは少し違う日曜の午後に足を踏み出した。
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※「時計の針が重なって」の奥さん側ストーリーです。
よろしければそちらも。
〈時計の針が重なって〉
午後零時。時計の針が重なった瞬間、私は妻の存在を強く意識した。
テレビで懐かしのメロディーが静かに流れている。
リビングのソファで新聞を読む私の横で、妻は黙々と編み物をしている。時計の秒針の音がやけに響く。
いつからだろう、私たちの間にこんな「静寂」が降りるようになったのは。
結婚二十五年。子供たちが巣立って三年。残されたのは、会話を忘れた夫婦だった。
「お昼、何にする?」
妻が突然口を開いた。久しぶりに聞く声が、なぜか懐かしく感じられる。
「何でも」
いつものように素っ気なく答えかけて、ふと時計を見る。針が重なったまま、一秒、二秒と過ぎていく。
「そうだ」
私は立ち上がった。
「あの喫茶店、まだあるかな」
妻の手が止まる。驚いたような顔で私を見上げる。
「商店街の奥の、小さな店。昔よく行った」
「まだあるわよ。でも随分行ってないわね」
夏も終わり、過ごしやすくなってきた。妻と歩くことが、何だか気恥ずかしい。
二十数年ぶりに足を向けた喫茶店は、看板も内装も当時のままだった。
奥の席に座ると、妻がぽつりと言った。
「ここで初めて、将来の話をしたのよね」
「覚えてるのか」
「忘れるわけないでしょう」
ナポリタンを頬張りながら、私たちは昔のことを語り合った。子供たちが小さかった頃、一緒に見た映画、初めての喧嘩。
いつしか会話が弾んでいる。
帰り道、商店街で買い物をしながら妻が微笑む。久しぶりに見る笑顔だった。
腕時計を見ると、針は再び重なろうとしていた。でも今度は怖くない。
私たちの時間は、また動き始めたのだから。
手を繋ごうかと思ったが、やめた。急がなくていい。
大切なのは、同じ速度で歩くことだ。
〈僕と一緒に〉
「おばあちゃん」
初夏の頃、聞き覚えのある声に振り返る。
声の主──高校二年生になった孫は、私よりもずっと背が伸びて、見上げるほどになっていた。
けれどその表情には、若さに似つかわしくない影が差している。
「あら、どうしたの?
今日は学校はお休みなの?」
手に持っていた剪定鋏を置き、私は彼のもとへ歩み寄った。
「今日は土曜日だよ。
お母さんに頼まれて、様子を見に来たんだ」
娘からの電話は時々あったが、孫が直接訪ねてくるのは珍しかった。部活で忙しいと聞いていたから、なおさらだ。
「せっかく来てくれたのだから、お茶でも飲みましょう」
「うん」
冷えた麦茶と茶菓子を持ち、縁側に座る。彼の視線は庭へと向けられた。
「この庭、いつ見てもきれいだよね。花壇の向こうに紅葉、その奥には山茶花。
全体の配置が計算されてるみたい」
「そうよ。おじいちゃんが設計したの。
樹木の配置から花壇の形まで、全部」
彼は少し口を噤み、それから小さな声で言った。
「おばあちゃん、俺、どうしたらいいかわからないんだ」
思いがけない告白に、胸がざわめいた。
夫が亡くなって三年。
最初の一年は涙、二年目は怒り、三年目は静けさ。私は庭と樹木、花々に慰められ、やっと自分を立て直したところだった。
けれど今、目の前の孫の迷いは、私の孤独よりもずっと深い影を落としている。
「進路のこと?」
「そう。来年受験なのに、自分が何をしたいのか見えない。母さんは安定した仕事って言うし、先生は成績を考えたら理系だって。工学部とか薬学部とか。
でも、本当はやりたいことが……」
彼は麦茶のコップを握りしめた。
「何か、気になることはあるの?
やりたい仕事とか……」
しばらく沈黙して、ようやく彼は打ち明けた。
「空間をデザインすることに興味があるんだ。建物とか庭とか。
人が心地よく過ごせる場所を作れるって、すごいと思う」
私はふっと笑みをこぼした。
「おじいちゃんも、同じことを言っていたわ」
「え?」
「本当は建築家になりたかったの。でも家業を継がなきゃならなくて。
だから代わりに庭をつくったのよ。
よく言っていたわ、『好きなことを仕事にできる人は幸せだ』って」
それを聞いた孫の目は、驚きと憧れが入り混じった色に変わった。
それから彼は、毎週末のように訪ねてくるようになった。
最初は相談の延長だったが、次第に一緒に庭を歩き、木や花の話を交わすようになった。
「この柿の木と山茶花の配置、すごいよね。
秋には柿の実が色づいて、冬には山茶花の花が咲く。
季節が途切れないようになってる」
「よく気づいたわね。
おじいちゃんは、一年を通して庭が生き生きと見えることを大切にしていたの」
木々の葉が風にそよぎ、優しく葉ずれの音を立てる。
それを見上げながら、彼が呟く。
「おばあちゃん、おじいちゃんは夢を諦めたこと後悔してたと思う?」
「後悔というより……そうね。もし今の時代だったら、違う選択をしていたかもしれない。
でもね、あなたには自分の心に正直でいてほしいの」
「でも、今は漠然としか考えられないんだよ。
大学の科目も見れば見るほど、何を勉強すればいいかわからなくなるんだよなぁ」
それはそうだ。十七年しか生きていないのに、将来を見据えて大学を選べなんて酷(こく)すぎる。
私は少し考えてから言った。
「選べないのは無理もないわ。
でも様々な知識があればそれだけ選択肢も増えるし、あなたがやりたいことも見えてくる。
諦める理由を探すより、夢に近づく方法を考えなさい」
孫は黙って頷いた。その横顔は、少しだけ晴れやかに見えた。
冬の入口、孫は明るい顔でやってきた。
「決めたよ。建築学部を目指す」
「そう。いい選択ね。でも大変よ」
「うん。でも、目標があるなら頑張れる」
彼の不安は消えたわけではない。けれど、迷いの霧は晴れ、前に進む力に変わっていた。
やがて春、彼はまた報告に来た。
「オープンキャンパスに行くんだ。母さんも納得してくれたよ」
「それは良かったわね」
その時、私ははっきりと気づいた。世代を超えて支え合うことの意味を。
孤独に抱える重みと、分かち合う希望はまるで違う。
新しい季節、孫は受験勉強により一層身を入れるようになったが、それでも「息抜き息抜き」と言いながら時々庭の手入れに来る。
一人で行っていた庭仕事も、男手があると手早く済む。枝を刈り込んでいく孫の背中はすっかり大人だが、変わらない優しさで一人暮らしの私を気遣ってくれる。
「受験が終わったら、庭のこともっと教えて」
「僕と一緒に、ずっとこの庭を見守っていこうよ。
いつか、こんな空間を自分の手で作りたいから」
私は頷いた。夫が残した庭は、孫の未来へと繋がっていく。
「ずっと一緒よ」
そう答えて、私は小さな種を土に埋めた。庭にはまた、新しい季節が芽吹こうとしていた。