〈パラレルワールド〉
日曜の昼前、リビングで編み物をしていた。夫はソファで新聞を読んでいる。
夫婦の会話は最低限。子どもたちが独り立ちしてからはずっとこんな時間を過ごしている。
見るわけもなく点けているテレビからは懐かしのメロディーが流れていた。
シャルル・アズナブールの「Hier encore」が響いた瞬間、編み針が止まる。
あの頃、酔うと「彼」がよく口ずさんでいた歌。フランス語の意味も知らずに、歌う彼の横顔を見ていたっけ。
「帰り来ぬ青春」──記憶の扉が静かに開いた。
「一緒に歩いて行こう」
彼はそう言って私の手を握った。将来も見えていないのに。
私は安定を選んだ。両親の期待、世間の常識、将来への不安。すべてが私を今の道へと導いた。
オペラのような歌声が響く。それは別の世界からのメッセージのように感じられる。
もし、あの時違う選択をしていたら。
パリの小さなアパートで彼と朝食を取り、午後はセーヌ川沿いを散歩して、夜は彼の歌声に耳を傾けている。そんな私がいるのだろうか。
気づけば、テレビからは別の曲が流れていた。
子どもたちの成長を見守り、夫と築き上げた穏やかな日々。
この世界で、私なりに幸せを見つけた。
パラレルワールドの私がどんな人生を歩んでいようと、こちらでも十分なほど満ち足りている。
懐かしのメロディーも終わり、テレビはもうすぐ正午を告げる。
「お昼、何にする?」
夫に訊ねると、いつものように「何でも」と素っ気ない言葉が返ってくる。
この世界はこの繰り返しね、と心の中で呟く。
「そうだ……あの喫茶店、まだあるかな」
不意に、夫が立ち上がる。
──あの喫茶店?
新婚の頃、よく行った喫茶店。
商店街の中にある落ち着いた雰囲気の古い店で、子どもが生まれてからはすっかり足が遠のいてしまったけど。
──さっきの、懐かしのメロディーで何を思い出したのかしら。
まあ、音楽で記憶を引き戻されるのも悪くないわねと思いつつ、いつもとは少し違う日曜の午後に足を踏み出した。
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※「時計の針が重なって」の奥さん側ストーリーです。
よろしければそちらも。
9/25/2025, 2:54:47 PM