〈僕と一緒に〉
「おばあちゃん」
初夏の頃、聞き覚えのある声に振り返る。
声の主──高校二年生になった孫は、私よりもずっと背が伸びて、見上げるほどになっていた。
けれどその表情には、若さに似つかわしくない影が差している。
「あら、どうしたの?
今日は学校はお休みなの?」
手に持っていた剪定鋏を置き、私は彼のもとへ歩み寄った。
「今日は土曜日だよ。
お母さんに頼まれて、様子を見に来たんだ」
娘からの電話は時々あったが、孫が直接訪ねてくるのは珍しかった。部活で忙しいと聞いていたから、なおさらだ。
「せっかく来てくれたのだから、お茶でも飲みましょう」
「うん」
冷えた麦茶と茶菓子を持ち、縁側に座る。彼の視線は庭へと向けられた。
「この庭、いつ見てもきれいだよね。花壇の向こうに紅葉、その奥には山茶花。
全体の配置が計算されてるみたい」
「そうよ。おじいちゃんが設計したの。
樹木の配置から花壇の形まで、全部」
彼は少し口を噤み、それから小さな声で言った。
「おばあちゃん、俺、どうしたらいいかわからないんだ」
思いがけない告白に、胸がざわめいた。
夫が亡くなって三年。
最初の一年は涙、二年目は怒り、三年目は静けさ。私は庭と樹木、花々に慰められ、やっと自分を立て直したところだった。
けれど今、目の前の孫の迷いは、私の孤独よりもずっと深い影を落としている。
「進路のこと?」
「そう。来年受験なのに、自分が何をしたいのか見えない。母さんは安定した仕事って言うし、先生は成績を考えたら理系だって。工学部とか薬学部とか。
でも、本当はやりたいことが……」
彼は麦茶のコップを握りしめた。
「何か、気になることはあるの?
やりたい仕事とか……」
しばらく沈黙して、ようやく彼は打ち明けた。
「空間をデザインすることに興味があるんだ。建物とか庭とか。
人が心地よく過ごせる場所を作れるって、すごいと思う」
私はふっと笑みをこぼした。
「おじいちゃんも、同じことを言っていたわ」
「え?」
「本当は建築家になりたかったの。でも家業を継がなきゃならなくて。
だから代わりに庭をつくったのよ。
よく言っていたわ、『好きなことを仕事にできる人は幸せだ』って」
それを聞いた孫の目は、驚きと憧れが入り混じった色に変わった。
それから彼は、毎週末のように訪ねてくるようになった。
最初は相談の延長だったが、次第に一緒に庭を歩き、木や花の話を交わすようになった。
「この柿の木と山茶花の配置、すごいよね。
秋には柿の実が色づいて、冬には山茶花の花が咲く。
季節が途切れないようになってる」
「よく気づいたわね。
おじいちゃんは、一年を通して庭が生き生きと見えることを大切にしていたの」
木々の葉が風にそよぎ、優しく葉ずれの音を立てる。
それを見上げながら、彼が呟く。
「おばあちゃん、おじいちゃんは夢を諦めたこと後悔してたと思う?」
「後悔というより……そうね。もし今の時代だったら、違う選択をしていたかもしれない。
でもね、あなたには自分の心に正直でいてほしいの」
「でも、今は漠然としか考えられないんだよ。
大学の科目も見れば見るほど、何を勉強すればいいかわからなくなるんだよなぁ」
それはそうだ。十七年しか生きていないのに、将来を見据えて大学を選べなんて酷(こく)すぎる。
私は少し考えてから言った。
「選べないのは無理もないわ。
でも様々な知識があればそれだけ選択肢も増えるし、あなたがやりたいことも見えてくる。
諦める理由を探すより、夢に近づく方法を考えなさい」
孫は黙って頷いた。その横顔は、少しだけ晴れやかに見えた。
冬の入口、孫は明るい顔でやってきた。
「決めたよ。建築学部を目指す」
「そう。いい選択ね。でも大変よ」
「うん。でも、目標があるなら頑張れる」
彼の不安は消えたわけではない。けれど、迷いの霧は晴れ、前に進む力に変わっていた。
やがて春、彼はまた報告に来た。
「オープンキャンパスに行くんだ。母さんも納得してくれたよ」
「それは良かったわね」
その時、私ははっきりと気づいた。世代を超えて支え合うことの意味を。
孤独に抱える重みと、分かち合う希望はまるで違う。
新しい季節、孫は受験勉強により一層身を入れるようになったが、それでも「息抜き息抜き」と言いながら時々庭の手入れに来る。
一人で行っていた庭仕事も、男手があると手早く済む。枝を刈り込んでいく孫の背中はすっかり大人だが、変わらない優しさで一人暮らしの私を気遣ってくれる。
「受験が終わったら、庭のこともっと教えて」
「僕と一緒に、ずっとこの庭を見守っていこうよ。
いつか、こんな空間を自分の手で作りたいから」
私は頷いた。夫が残した庭は、孫の未来へと繋がっていく。
「ずっと一緒よ」
そう答えて、私は小さな種を土に埋めた。庭にはまた、新しい季節が芽吹こうとしていた。
9/23/2025, 3:34:20 PM