〈時計の針が重なって〉
午後零時。時計の針が重なった瞬間、私は妻の存在を強く意識した。
テレビで懐かしのメロディーが静かに流れている。
リビングのソファで新聞を読む私の横で、妻は黙々と編み物をしている。時計の秒針の音がやけに響く。
いつからだろう、私たちの間にこんな「静寂」が降りるようになったのは。
結婚二十五年。子供たちが巣立って三年。残されたのは、会話を忘れた夫婦だった。
「お昼、何にする?」
妻が突然口を開いた。久しぶりに聞く声が、なぜか懐かしく感じられる。
「何でも」
いつものように素っ気なく答えかけて、ふと時計を見る。針が重なったまま、一秒、二秒と過ぎていく。
「そうだ」
私は立ち上がった。
「あの喫茶店、まだあるかな」
妻の手が止まる。驚いたような顔で私を見上げる。
「商店街の奥の、小さな店。昔よく行った」
「まだあるわよ。でも随分行ってないわね」
夏も終わり、過ごしやすくなってきた。妻と歩くことが、何だか気恥ずかしい。
二十数年ぶりに足を向けた喫茶店は、看板も内装も当時のままだった。
奥の席に座ると、妻がぽつりと言った。
「ここで初めて、将来の話をしたのよね」
「覚えてるのか」
「忘れるわけないでしょう」
ナポリタンを頬張りながら、私たちは昔のことを語り合った。子供たちが小さかった頃、一緒に見た映画、初めての喧嘩。
いつしか会話が弾んでいる。
帰り道、商店街で買い物をしながら妻が微笑む。久しぶりに見る笑顔だった。
腕時計を見ると、針は再び重なろうとしていた。でも今度は怖くない。
私たちの時間は、また動き始めたのだから。
手を繋ごうかと思ったが、やめた。急がなくていい。
大切なのは、同じ速度で歩くことだ。
9/24/2025, 10:44:58 AM