香草

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1/4/2026, 5:43:46 PM

「幸せとは」

「幸せは怖いものだ」
しかめ面をして彼が言った。また始まったか。
私は新聞を読みながら「そう」と適当に返事をした。
「俺は幸せなんぞ知らずに生きてきた。それでも特に不満はなかったし、今更後悔することもない」
「そう」
今度は英語のso sweetのsoのつもりで言ってみた。
あいにく気づかれなかったらしい。
「幸せになったやつを見てみろ。進歩や成長への野心を忘れて脳みそが固まってしまっている」
「そう?」
少しだけ語尾を上げて疑問形にしたけれど彼はお構いなしだ。
「だから俺は幸せにならなくていい」
そう言って彼はスプーンいっぱいにカレーを掬って口の中に入れた。しばらく目を閉じて味わった末に目をカッと開いて叫んだ。
「美味い!俺は今初めて幸せを知った!」
「そう」
今度は安堵と堪えきれなくなった笑いを含ませて。
大好物のカレーを食卓に出すたびに夫はこの茶番をするのだ。厳しい顔をしているのを自覚しているのか、自らそれをネタにして美味いと言うことを伝えてくる。
幸せそうで何よりだ。

1/3/2026, 12:53:26 PM

「日の出」

あー、無理なんですけど。
カーテンの隙間から青白い光が漏れ出して見事にブルーな気持ちになった。
隣の部屋から妹の目覚まし時計の音が聞こえてすぐに止んだ。
パタパタとにわかに騒がしくなり空気が動き出すのをまるでアニメの世界のように感じながら、目を閉じた。
夜には訪れなかった心地よいまどろみがすぐに襲ってきてやっと俺は安心した。まだ眠れる。まだ大丈夫。
いつからか日が出ている時しか眠れなくなっていた。精神的な問題が原因なのかもしれない。だけどそんなことはどうでもよくて夜眠れないことに罪悪感を感じていた。人間じゃなくなっていくような気がして恐ろしい。
いつから太陽を見ていないのだろう。このままおじさんになってもこうやって生きていくのかな。
俺の人生で日の出を気持ちよく見られる日は来るのだろうか。
不安な気持ちをうとうととまどろみが押し流していった。

1/2/2026, 10:41:52 AM

「手袋」

5本指をそれぞれの穴に入れてグッパッと動かした。
一回り手が大きく無骨になったような感じがして少し嫌だ。グッと握りしめるとコートのポッケに入れる。
「準備できたよ」
妻が頬を両手で挟みながら小走りで玄関までやってきた。指が分かれていない、まあるい手袋だ。
萌葱色の手袋は妻の明るい笑顔によく似合っているし、小動物のような手が何かのゆるいキャラクターのように見えて可愛らしかった。
でもそれを直接言うのもなんだか気恥ずかしくて僕は「行こうか」とだけ呟いてドアを開けた。
慌てて靴をつっかけて僕の腕に手を回す。
少女のような手が必死に僕の腕を掴んでいるのを見ると胸の奥がキュンとなった。だがそれを悟られないように僕はポケットの中でぎゅっと拳を握りしめた。
妻はおもむろに僕のポケットに手を突っ込んだ。僕の手を無理やり開かせてふと言った。
「あ、これじゃ手繋げないね」
そして何の躊躇もなく可愛い手袋を脱いだ。少しぽったりした妻の指が姿を現す。
そしてまたポケットに突っ込むと指を絡めた。
僕は少し冷めてしまった彼女の手をすべて包み込めるようにぎゅっと指を伸ばした。

1/1/2026, 10:25:15 AM

「新年」

今年こそいい年にしてやると半ば気合を入れてベッドに潜り込んだ。
だけど出てきたのは縁起のいい山や野菜や鳥なんかではなくりんごのような女の子だった。
白いニット帽から毛糸のおさげを垂らしてパツパツのフランスパンのようなダウンコートを着ている。
口を白いマフラーの中にしまって、まあるく真っ赤なほっぺたがまるでふくらんだお餅のようにマフラーに乗っていた。
どこかで見たことがあるような気がして、だけどそれは絵本とか小説とか私の想像の中だけに存在していたもののような気もする。
彼女は私を見ると目を細めてほっぺたをさらに赤くした。
色鉛筆で塗ったようなじんわりと赤いほっぺた。手で包み込んでしまいたい衝動をグッと堪える。
すごくりんごが食べたくなって目が覚めた。
よく分からない夢だった。
全然知らない女の子だし、自分を含め周りで子供が生まれる予定もない。
何か意味があるのかと調べたけれどこれと言ってピンとこない。
それでもなんだか故郷に帰ったような、昔母の胸に飛び込んだ時のようなホクホクと温かな気持ちだった。
そっと自分の頬を包んでみた。意外と温かった。

12/17/2025, 11:46:49 AM

「雪の静寂」

雪が降る様子を最初にしんしんと例えた人はどんな人だろう。
なんとなく貴族な気がする。
平民は雪が降っていたら雪が降った影響を考えるだろうから。畑がびちゃびちゃになっちまうとか。
やはり冬の景色を静かに眺める余裕があって感性のアンテナが高い貴族なのかもしれない。
じゃあしんしんという言葉も使いたくねえな。
ビールの缶をぐしゃりと片手で潰して俺は布団に寝っ転がった。
カーテンもかかっていない窓から埃みたいな雪がちらついて、フケでいじめられた学生時代を思い出した。
ぜーんぶクソだ。俺より恵まれているやつみんな消えればいい。雪が降る様子がしんしんとか趣深いとかどうでもいい。そんなことよりこの頭のムシャクシャを晴らす方法を教えろよ。
窓を思いっきり開けて腹の底から叫びたい。
もっと雪が降ればいいのに。そうすれば俺の声もムシャクシャも吸い込んで静かにしてくれるだろうに。

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