香草

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2/5/2026, 12:53:50 PM

「溢れる気持ち」

羽毛布団を切り裂いたことはあるだろうか。
私はかつて絵を描いていたときにそれを見た。
絵を描くことは私の人生だった。まだ10代だ。私の人生すべてをそれに集約するのは安直すぎると思われるかもしれない。
しかし文字通り絵を描くことは私の全てだったのだ。上手く流せない涙も昂った怒りも、言葉だけでは心の隅々まで表現できなかったことを絵なら形にできたのだ。
それを大人たちが「素晴らしい」とか「ダメだ」と点数をつけて評価するのも当時の私は受け止めてくれていると感じてさえいた。
しかしある時から私の感情に筆が追いつかなくなった。心の濃淡が絵の具の種類を上回り、筆の動きが感情の荒さや細やかさを表せなくなった。
出来上がったものは解像度の荒いコピー用紙でしかなかった。
言葉より私を分かっていたはずの絵がなくなれば私はどうやって気持ちを伝えればいいのか。
私は初めて拳でものを殴った。それでも絶望を埋めるには力が足りなくてハサミで布団を切り裂いた。
途端に視界を覆う白い世界。
決して再現できない羽根の舞。美しく冷たくどうすることもできない。
初めて私は美しいという感情で涙を流した。

2/4/2026, 2:34:43 PM

「kiss」

きっとそれは愛情以外の何物でもない。
食卓に並んだ料理を見て沸き立ったのが分かった。今日はハンバーグである。
しっかりと焦げ目のつけて雪のような大根おろしをふわっと乗っけている。
レタスにトマト。彩までしっかりと計算した。
ビニール手袋を外して椅子に座り夫の顔をじっと見つめる。ほら褒めなさい。
言葉が伝わったのか普段よりもテンション高めで褒めてくれる。
この肉!焼き加減が最高!大根おろしもこんなにおろせるなんて天才!レタスもトマトも冷たい水で洗ってくれたの?すごい!あらやだ!スープまであるじゃない!
ボディビルダーの大会並みの賛辞と内なる乙女まで発動して全力で言葉をぶつけてくる。
私たち夫婦のコミュニケーションは一つしかない。
言葉のみだ。互いに潔癖症でスキンシップに深い嫌悪感があるので愛を示すには言葉しかないのだ。
すれ違いはある。けれど、私が作った料理を食べること。それは潔癖症の夫からするとキスにあたる。
きっとそれは愛情以外の何物でもない。

2/3/2026, 1:20:51 PM

「勿忘草」

お見舞いの花といえばカスミソウだ。
小さくて可愛らしくて少し呼吸するだけで揺れるような花だ。
入院していた時はちょうど冬だった。その花が雪のように見えたのを覚えている。
「早く元気になってね」
優しい言葉がどこかよそよそしい。彼女の両親が離婚しても私がいじめられていた時も私と彼女は互いに互いを煽りあうほど信頼していたはずだ。
どうしてこんなに他人よりも遠い距離になってしまったのだろう。
ひさしぶりに会ったから?
自分の話をしなくなったから?
これまでどんな話をしていたっけ?
「じゃあ…」
顔を背けて病室を出ていく。
もうこのまま会わなくなるだろう。
長年の友人との最後がこんな気まずいものだなんて。
ただ彼女には私を覚えていて欲しいと思った。
距離が遠くなっても誰よりもそばにいた記憶は本物だ。
「ねえ、待って」
弱々しい声が呼び止める。
私忘れないよ。守ってあげられなくてごめんね。
カスミソウが揺れる中、忍ばせた勿忘草だけが凛としていた。

2/2/2026, 10:21:41 AM

「ブランコ」

そっと目が合う。
一秒にも一瞬にも満たないその間に濃密な色が見えた。胸をくすぐる羽根のような高鳴りを鎮めて会議に集中しようとするが、乙女心はすでに溶け出している。
結局ほとんど話を聞かないまま、会議が終わり彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて部屋を出て行った。
ああ、絶対後でからかわれる。でもその時間を待ち遠しく思う自分を無理に否定することもなくなった。
彼と出会ってから世界が美しく思えた。
薔薇色と表現するのはありきたりだけれど、色褪せていた世界が急に鮮やかになってハッと目が覚めた気がした。
彼は私よりも少し年下だ。けれど若くまっすぐな姿勢は私がまだ女性であることを思い出させるには十分だった。
これまで欲しいものはすべて手に入れてきた。退屈なことは決してないようにしてくれる。それらを手に入れられるだけの価値が私にはあるのだ。
書類をまとめて部屋を出ていこうとして、勢い余りドアノブに指が当たった。廊下に響き渡るような金属音。
左手薬指の時代遅れのシルバーリングが少し震えていた。




2/1/2026, 9:41:37 AM

「旅路の果てに」

ようやく一軒の小屋が見えてきた。
久しぶりの人の気配に涙が一筋垂れてしまうほどの感動が胸に迫った。
一人でやっていけるさ、と啖呵を切ってほぼ家出同然で村を飛び出し数年。
何度あの時の自分の顔を形が変わるまで引っ叩きたいと思ったことか。それほどまでに旅は過酷だった。
そもそも村を飛び出したのはお節介な村人や娯楽も刺激もない平凡な村に飽き飽きしたからだ。
異国の都市に行って、一発当てて楽しい人生にしてやるぞ、おれはこんなところにとどまってはいけない人間だと本気で信じていた。
しかしぬくぬくと大切に育てられた温室育ちに旅は向いていなかった。
村の畑では見たことがない食材、常識が一切通じないどころか理不尽な盗賊たち、見たことないけれど本能的に近づいてはいけないと分かる動物たち。
これなら父親に怒鳴られながら畑仕事する方がマシだったし、母親の甘ったるい料理を食べ続ける方が良かった。
何も起こらないのもまた苦痛だった。
自分一人だけを残して人間は絶滅してしまったんじゃないかと思うような日々が続いた時もある。独り言が増えて本当に気が狂ってしまうのではないかと思った。村の爺さんの長い話が恋しいと思ったのはそれが初めてだった。
旅の思い出に浸りながらドアをノックした。
「ただいまー!」
甘い香りが勢いよく出迎えてくれた。

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