「君と紡ぐ物語」
「糸って曲あるじゃん?」
「名曲だよね」
「若い時は名曲すぎて嫌いだったんだよね」
「あー思春期によくある逆張りね」
「でも最近聞いてみたら歌詞が良すぎて普通に感動したんだよな」
「分かる。ふとした時に聞くと沁みるよな」
「そういえばあの曲初めて教えてくれたのお前だったよな」
「そうだっけ?」
「俺ら昔からいつも一緒で、学生の時悪さするのも、仕事帰りに飲むのも、趣味のバンドも」
「そうだな」
「お前という糸に出会えて幸せだったよ」
「俺もだよ」
「安らかに眠ってくれ」
まだ老人と呼ぶにはまだ若い写真の彼が頷いたように見えた。
「失われた響き」
クリスマスが輝きを失ったのはいつからか。ありがとうと言われても心が潤わなくなったのはいつからか。
芸能人の名前が出てこなくなったり、同じ話を何度もしてしまったり、若い頃疎ましいと思っていた年寄りに近づいているようで少し悲しい。
だけど仕方ないことだ。
若い頃に戻りたいとは思うけれど、忘れることはまた新しい感動を再体験できることと同義だ。
悲しく思う必要はない。
ある日のことだ。旦那を風呂へ、子供をベッドに追い立てて今日一日の最後の家事をしていた時だった。
ぼんやりと明日のスケジュールを考えて、冷蔵庫の中身を確認しなきゃなあと思っていると、ふと名前が呼ばれた。旦那が風呂場からタオルを取るように私を呼んだのだ。
一瞬誰のことか分からなかった。いつもは子供と一緒になって「ママ」と呼んでいたから。
けれどその瞬間、私はぎこちなく初めて名前を呼ばれた時のクリスマスデートにタイムスリップしたのだ。
体中の血液がドクリと音を立てた。
「はいはい!」
いつも通り大きな声で返事をする。しかしいつもより少しだけ赤と緑が鮮やかな世界はその日寝るまで続いた。
私の名前が失っていた輝きを取り戻した瞬間であり、ときめきを再体験できた瞬間だった。
誰か
軽い昼下がり。
陽も傾き始めて明日のことをふんわり考え始めるくらいの暖かな土曜日の午後。
平日は朝から晩まで噴水のごとく湧き上がる仕事を片付けているのだから休日はゆっくりと過ごしたいのだ。
そう思って奮発して買ったコーヒーメーカーにふぁさっと粉を落とし、スイッチを入れる。
ブーンと無機質な音の隙間から苦味のある香りが鼻をくすぐる。
やはりコーヒーの香りは好きになれない。どうしても鼻が異臭として認識してしまうようだ。
しかし穏やかな1人時間を楽しむには必要なものなので、鼻を噛んでごまかした。
次に本を取ってくる。
つい先日上司から貰ったものだ。
「君はまだまだこれから伸びる。私も若い頃はこういう本を読んで勉強したものだ。頑張りなさい」
と、言われデスクに置かれてしまった。
仕事のスキルアップのための本らしい。有名なコンサルティング会社に勤務している人が書いていて、仕事の極意!みたいなタイトルだ。
同僚は「読まなくていいだろ、そんなの」なんて一蹴していたけれど、きっと上司は私の将来期待してこの本を託したんだろう。
私としてももっと活躍して良い給料をもらえたら万々歳だ。ヒントみたいなのが載っているかもしれないので読んでみることにした。
それに休日にこんな本を読むのもまさにエリートらしくていいじゃないか。
パラパラとページをめくってみると「上司とのコミュニケーション」やら「優先順位の付け方」とか、確かに日頃仕事をする上で頭を悩ます事柄がズラリと書いてある。
なんだか急激に気分が落ち込んでいく。
さらに日が傾いて窓からの光が蜜色を帯びてきた。
今日はおしゃれな夕食を作ると決めていたのだ。先日イケメン俳優が得意だというカルパッチョを振る舞う番組を見た。普段は料理なんてほとんどしないので、それを見るまでカルパッチョがカッパの種類か何かだと思っていたけれど、なんだかとても美味そうで作ってみたくなったのだ。
スマホで検索してカルパッチョの作り方を調べる。
タイの刺身、トマト、コショウ、レモン汁、オリーブオイル、イタリアンパセリ、チャービル…
後半二つは聞いたこともない。
スーパーで買ってこようか。でもなんだかやる気が起きない。
ふと読んでいた本の文章が浮かんだ。
「準備不足はすべての大敵」
「やる気は気のせい」
今日はおしゃれで充実した休日を過ごしたくて、頑張っていたはずなのに…
頑張る…?
なぜ休日まで頑張らないといけないんだ?
コーヒーも本もカルパッチョも全部誰かの影響で背伸びしてやっただけじゃないか。
今日私のために私が好きなことは何もしていない!
「もしもし?」
「どしたの?」
「今から飲みに行かないか?」
「急だなあ」
相手はハッハッと豪快に笑った。
「いいよ?駅前集合な。暇してたからとことん付き合うぜ」
「やっぱお前と飲むのが一番だわ」
「当たり前だろ」
「空白」
「女優Aスキャンダル後の空白期間にしていたこと!!懲りずにお泊まり?」
下衆いタイトルが目を引く警光色で縁取られている。
だらしなく腹が出ている中年男性が真剣な顔をして(時折ニヤニヤしながら)その雑誌を読んでいる。
なんかムカついたので大きな品出し用のチャンバーともに「すみませーん。通りまーす」と声をかけた。
男性は少し気まずそうにコンビニを出て行った。
そのまま飲料売り場まで行って品出しを始める。今日は暑いから飲み物がよく売れている。人気なのはピーチ風味の烏龍茶。お茶で有名なブランドが最近発売したものでSNSでも話題になっている。
まあ、話題になったのは何も味が美味しいという理由だけじゃない。
バックヤードに戻ると店長がニヨニヨしながらパソコンに向かっていた。
「あ、品出しありがとうねー」
「はーい」
狭いバックヤード。店長のすぐ後ろに積み上がっている段ボールを倒さないように、レシート交換用のロールを探す。
「やっぱり今日はピーチウーロンじゃんじゃか売れてるわねえ。予想ぴったんこよ!」
競馬が好きな店長は仕入れが上手くいったとはしゃいでいる。
「それにしても、テレビでCMとか出してないのにみんなよくあれが人気だって分かるわよね。やっぱりSNSなのかしら?」
「多分そうですねー」
なかなかロールが見つからない。ちゃんと整理してくださいってこの前言ったばっかりなのに。なんでこんな狭いのに物が見つからないんだ。
「あのCMも消えちゃったもんね。あの着物の清楚な人がお茶飲むやつ」
思わず動きが止まってしまった。
ピーチウーロンの会社は長年新進気鋭の美しい女優をCMに起用することで有名だった。
それに選ばれた女優は清楚枠として必ず人気に箔が付いている。
「そうですねー」
なんでもないフリをしてロールを探す。
そのままこの話題を終えて欲しかった。
あのスキャンダルが店長みたいな芸能界に疎い人にも知られていたらショックだから。
「でも最近、あの女優さんが熱愛でスクープされたんだっけ…えっとあの、名前が」
「あ、私レジ行ってきますね」
モヤモヤと複雑な気持ちが広がる。
レジからはあのキモい中年男が読んでいた雑誌の表紙が目に入る。
スキャンダル後の空白期間…。
女優A、彼女、姉はお泊まりなんてしていない。
姉のための家族での慰安旅行に行ったくらいで家からはほとんど出ていない。
可哀想な姉。
あんな中年男を楽しませるような記事のために面白おかしく、あることないこと書き立てられて。
夢だった着物のCMもたった一度しか放映されずに消されてしまった。
可哀想な姉。
妹にネタを売られているとも知らないで。
「台風が過ぎ去って」
風が音を立てて吹き、窓が軋み始めるとどことなく胸がザワザワする。
子供たちがソワソワとテレビを見ているのはアニメが面白いからではなく、それを縁取るように流れていく文字のせいだろう。
「ママあ!明日学校休みかなぁ?」
嬉しそうな様子を隠すこともなく無邪気に声を上げた。
「どうだろうね〜明日にはもうどっか行ってるよ」
今回の台風は大規模で危険な代わりに、進むスピードが速いそうだ。
ベランダのゴミとか部屋に入れておかないといけないかしら…?窓ガラスも念の為、ガムテープ貼っておいた方がいい…?
一応避難場所とか確認しておこうかな…
無邪気な子供たちとは違って大人は考えなければいけないことが山ほどある。
チャイムが鳴って夫が帰ってきた。
傘は持って行っていたはずなのにびしょ濡れだ。
「いやあ、やばかった。電車が止まってさー」
「え?大変だったわね」
急いでバスタオルを渡す。
「こんなにでかいのは久しぶりじゃないか?ちょっとワクワクするな」
「不謹慎なこと言わないでよ!」
思ったより強い口調になってしまった。
けれど毎年被害が出ているのに、ワクワクするなんて罰当たりなこと言っていたら私たちが被害に遭うかもしれないじゃない…
夫は少し驚いた表情で冗談じゃん、と言った。
心配しすぎなのか?
歳を取るにつれて神経質になっている気がする。
私はため息をついてキッチンに戻った。
ヘビメタのライブ会場かのように木々が頭を揺らし、バケツで水をぶっかけられたかのように窓に雨が打ちつけている。
窓の隙間からビュービューとおどろおどろしい風音が聞こえてきてすっかり恐ろしくなってしまった。
どうしてみんな呑気にテレビを見ていられるの?
SNSを見ても、明日の仕事や学校の有無を気にしている人が電車が止まって帰れなくなった人の愚痴しか見当たらない。
誰も安全を気にしていない。
これが普通なんだろうか。
台風ごときでこんなにブルブル震えているのは、私くらいなんだろうか。
私がおかしいんだろうか。
どうも小さい頃から台風や地震など自然が猛威を振るうのが怖くて仕方がなかった。
大人になっても克服することはなくて、雷や大雨で震えていたら当時の友人たちに「可愛い子ぶってる」なんて言って揶揄われた。
そう思われるのが嫌で強がっていたけれど、やはり私がおかしいんだろうな。
「ん」
夫がそっとマグカップを差し出した。
「風が強いから寒いよねー。まだ夏のはずなのに」
ふわりと香ってきたのはカモミール。
夫はなんでもないふりをして新聞を広げた。
あ、そうだ。
彼を好きになったのはこんな台風の日だった。
新卒の頃、台風で会社から帰れなくなってしまった時、上司の目を盗んで休憩所でコーヒーを一緒に飲んだっけ。
そして2人きりでずっと話をしていた。
思わず笑みが溢れる。
「え、なに?」
照れたように夫が上目遣いでこちらを見る。
あの頃より少しふっくらして前髪が後退しているけれど赤い顔はずっと変わらない。
「なんでもない」
私はマグカップで視線を遮った。
「ママあ!警報解除だって!台風行っちゃった!」
子供たちが残念そうに叫んだ。
「あら、そうなの?」
私はホッと安心して窓の外を見た。
心なしか雨足が弱まっている気がする。
「明日仕事だなー」
夫が残念そうに呟く。
明日のお弁当はいつもより豪華にしてあげようかな。
私はカモミールティーを飲み干した。