「空白」
「女優Aスキャンダル後の空白期間にしていたこと!!懲りずにお泊まり?」
下衆いタイトルが目を引く警光色で縁取られている。
だらしなく腹が出ている中年男性が真剣な顔をして(時折ニヤニヤしながら)その雑誌を読んでいる。
なんかムカついたので大きな品出し用のチャンバーともに「すみませーん。通りまーす」と声をかけた。
男性は少し気まずそうにコンビニを出て行った。
そのまま飲料売り場まで行って品出しを始める。今日は暑いから飲み物がよく売れている。人気なのはピーチ風味の烏龍茶。お茶で有名なブランドが最近発売したものでSNSでも話題になっている。
まあ、話題になったのは何も味が美味しいという理由だけじゃない。
バックヤードに戻ると店長がニヨニヨしながらパソコンに向かっていた。
「あ、品出しありがとうねー」
「はーい」
狭いバックヤード。店長のすぐ後ろに積み上がっている段ボールを倒さないように、レシート交換用のロールを探す。
「やっぱり今日はピーチウーロンじゃんじゃか売れてるわねえ。予想ぴったんこよ!」
競馬が好きな店長は仕入れが上手くいったとはしゃいでいる。
「それにしても、テレビでCMとか出してないのにみんなよくあれが人気だって分かるわよね。やっぱりSNSなのかしら?」
「多分そうですねー」
なかなかロールが見つからない。ちゃんと整理してくださいってこの前言ったばっかりなのに。なんでこんな狭いのに物が見つからないんだ。
「あのCMも消えちゃったもんね。あの着物の清楚な人がお茶飲むやつ」
思わず動きが止まってしまった。
ピーチウーロンの会社は長年新進気鋭の美しい女優をCMに起用することで有名だった。
それに選ばれた女優は清楚枠として必ず人気に箔が付いている。
「そうですねー」
なんでもないフリをしてロールを探す。
そのままこの話題を終えて欲しかった。
あのスキャンダルが店長みたいな芸能界に疎い人にも知られていたらショックだから。
「でも最近、あの女優さんが熱愛でスクープされたんだっけ…えっとあの、名前が」
「あ、私レジ行ってきますね」
モヤモヤと複雑な気持ちが広がる。
レジからはあのキモい中年男が読んでいた雑誌の表紙が目に入る。
スキャンダル後の空白期間…。
女優A、彼女、姉はお泊まりなんてしていない。
姉のための家族での慰安旅行に行ったくらいで家からはほとんど出ていない。
可哀想な姉。
あんな中年男を楽しませるような記事のために面白おかしく、あることないこと書き立てられて。
夢だった着物のCMもたった一度しか放映されずに消されてしまった。
可哀想な姉。
妹にネタを売られているとも知らないで。
「台風が過ぎ去って」
風が音を立てて吹き、窓が軋み始めるとどことなく胸がザワザワする。
子供たちがソワソワとテレビを見ているのはアニメが面白いからではなく、それを縁取るように流れていく文字のせいだろう。
「ママあ!明日学校休みかなぁ?」
嬉しそうな様子を隠すこともなく無邪気に声を上げた。
「どうだろうね〜明日にはもうどっか行ってるよ」
今回の台風は大規模で危険な代わりに、進むスピードが速いそうだ。
ベランダのゴミとか部屋に入れておかないといけないかしら…?窓ガラスも念の為、ガムテープ貼っておいた方がいい…?
一応避難場所とか確認しておこうかな…
無邪気な子供たちとは違って大人は考えなければいけないことが山ほどある。
チャイムが鳴って夫が帰ってきた。
傘は持って行っていたはずなのにびしょ濡れだ。
「いやあ、やばかった。電車が止まってさー」
「え?大変だったわね」
急いでバスタオルを渡す。
「こんなにでかいのは久しぶりじゃないか?ちょっとワクワクするな」
「不謹慎なこと言わないでよ!」
思ったより強い口調になってしまった。
けれど毎年被害が出ているのに、ワクワクするなんて罰当たりなこと言っていたら私たちが被害に遭うかもしれないじゃない…
夫は少し驚いた表情で冗談じゃん、と言った。
心配しすぎなのか?
歳を取るにつれて神経質になっている気がする。
私はため息をついてキッチンに戻った。
ヘビメタのライブ会場かのように木々が頭を揺らし、バケツで水をぶっかけられたかのように窓に雨が打ちつけている。
窓の隙間からビュービューとおどろおどろしい風音が聞こえてきてすっかり恐ろしくなってしまった。
どうしてみんな呑気にテレビを見ていられるの?
SNSを見ても、明日の仕事や学校の有無を気にしている人が電車が止まって帰れなくなった人の愚痴しか見当たらない。
誰も安全を気にしていない。
これが普通なんだろうか。
台風ごときでこんなにブルブル震えているのは、私くらいなんだろうか。
私がおかしいんだろうか。
どうも小さい頃から台風や地震など自然が猛威を振るうのが怖くて仕方がなかった。
大人になっても克服することはなくて、雷や大雨で震えていたら当時の友人たちに「可愛い子ぶってる」なんて言って揶揄われた。
そう思われるのが嫌で強がっていたけれど、やはり私がおかしいんだろうな。
「ん」
夫がそっとマグカップを差し出した。
「風が強いから寒いよねー。まだ夏のはずなのに」
ふわりと香ってきたのはカモミール。
夫はなんでもないふりをして新聞を広げた。
あ、そうだ。
彼を好きになったのはこんな台風の日だった。
新卒の頃、台風で会社から帰れなくなってしまった時、上司の目を盗んで休憩所でコーヒーを一緒に飲んだっけ。
そして2人きりでずっと話をしていた。
思わず笑みが溢れる。
「え、なに?」
照れたように夫が上目遣いでこちらを見る。
あの頃より少しふっくらして前髪が後退しているけれど赤い顔はずっと変わらない。
「なんでもない」
私はマグカップで視線を遮った。
「ママあ!警報解除だって!台風行っちゃった!」
子供たちが残念そうに叫んだ。
「あら、そうなの?」
私はホッと安心して窓の外を見た。
心なしか雨足が弱まっている気がする。
「明日仕事だなー」
夫が残念そうに呟く。
明日のお弁当はいつもより豪華にしてあげようかな。
私はカモミールティーを飲み干した。
「ひとりきり」
夜は基本的に静かなものだが、夜の公園は一際静けさが目立つように思われる。
昼間の太陽と子供達のエネルギーが幻だったかのように、遊具たちはシンとひっそりとたたずんでいるからだ。
それぞれ動物たちに見立てられ、愛らしい目や鼻が描かれている遊具たちは、風が吹いても鳥がこっそり鳴いても沈黙を保ったままだ。
でもよくよく見ればゾウの滑り台からひょっこりと足が飛び出しているのに気づくだろう。
夜の静けさに気を取られて彼に気付く者はほとんどいない。団地の窓から見下ろす犬だってベランダの手すりに座る猫だって彼に気づかなかった。
少年はゾウの鼻部分に体をピッタリと収まるようにして夜空を見上げていた。同じ色をした黒髪が時折風に揺れる。
念の為言っておくが彼は人生に絶望しているわけでもない。
学校で嫌な事が嫌なことがあったわけでもない。
この年齢特有のセンチメンタルに浸っているわけでも、悦に入っているわけでもない。
そしてさらに言っておくと、少年が見ている空はほとんど星が見えない…いや、少しだけ見える。
でも星なのか飛行機の灯なのか、それとももっと不思議な光なのかも分からないような光だ。
彼はそれを見極めるためにじっと、ただひたすらに空を見つめていた。
遊具たちは彼を闇に匿って、夜空観測を邪魔しないように息を潜める。
ゾウなんて鼻に人が入っているのにくしゃみを我慢し続けている。
少年の体温でだんだんと鼻の内部が温かくなってきた。まだ湿気が残る晩夏だから彼との腕は汗というノリでくっついている。
どれほど時が経っただろうか。
少年はむくりと起き上がって眠そうな目を擦った。
どうやら気持ちよく眠っていたらしい。
夜風が背中にへばりついたTシャツを乾かそうと吹いた。
少年はぶるりと体を震わせるとのそのそと公園を後にした。
たくさんの人が集まり、いろんな目が集まる公園だけれど少年が一人きりでいた夜は誰も知らない。
ただ遊具たちだけが知っている。
ゾウは少年の残り熱を名残惜しく思いながら、大きく深呼吸をした。
強い風が吹いて、ベランダの猫がこちらを見る。
でもそこにはただ一際静かな公園があるだけだった。
「もう一歩だけ、」
放課後になり帰宅しようと席を立った瞬間、友人が目の前でパンっと手を合わせた。
「一生のお願い!協力して!!」
腰を90度に曲げてつむじがこんにちはしている。
どうせこいつの事だ。アニメの推しの話だろうな。
私はニヤニヤと「レン様?」と尋ねた。
彼女は目を輝かせて私の肩を掴むと大きく頷いた。
レン様というのは彼女が昔から好きなアニメのキャラクターだ。
乙女ゲーム発祥のアニメ「桜薔薇学園」で主人公に対していわゆる俺様系でグイグイとアプローチしてくる。
黒髪ロン毛の切長目でどこか中華の高貴な人を思わせる風貌でファンの間でもかなり人気が高い。
しかし彼の人気の本当の理由は生い立ちにあるらしい。
実はナントカという国の第4王子らしくナンヤカンヤあって日本にやってきて普通の学生をやっているという。そして本人は自分の出自が実は王族であることを知らないが、生まれが複雑なことを負い目に感じており、それがどこかアンニュイな雰囲気を醸し出しているとかなんやら…
私はそのアニメを見たことないし乙女ゲームにも全くの関心がない人間だけれど、ここまで詳しいのはオタクである彼女が原因だ。
聞いてもないのに昼休みや放課後にべらべらと推しのレン様について語ってくるので全く知らないのにある程度語れるようになってしまった。
以前チラッと見せてくれたグッズを見てみると確かに女の子が好きそうな見た目をしている。
少女漫画の当て馬っぽいね、とコメントすると先ほどのように肩を掴まれ大きく頷かれた。
実際ゲームの中でもヒロインとは絶対に結ばれない不遇のキャラらしい。
しかし課金を重ねると彼とのハッピーエンディングストーリーが見られるというレアなキャラだそうだ。
オタクいわく「公式に守られたプリンス」。
私から言わせると金に守られたナンバーワンホストみたいなもんだけど。
ともかく彼女の話すことはすべてレン様に関連することなのでこの何度目かの一生のお願いもそうだろう。
「桜薔薇学園のランダムグッズが発売されたの!コンビニで100円以上買ったら1回くじが引けるんだけど、私どーしてもレン様を引きたいの!協力して!お願い!」
「えーと私は何すればいいの?」
「いつもご飯買ってるじゃん。そのレシートでくじ引かせてほしい!」
「あーそゆことね。いいよ」
「神〜!」
泣き出さんばかりの勢いでハグしてきた。
オタクはいつも大袈裟だ。
とりあえず私たちは学校の近くのコンビニに向かった。
レジ前に大きなのぼりが立っており見たことあるようなキャラがこちら側に微笑んでいる。
「あー、チナ様かっこい〜。これはアニメ版でヒロインと結ばれるキャラなんだけど、ゲームではそんなに人気ないんだよね〜。なんで公式はこのキャラをメインにしたんだろうねえ。確かにビジュアルはいいんだけど、一番いいんだけど」
ビジュアルが一番いいなら十分な理由になりそうだけど。
明らかなツッコミを入れるほど野暮ではないので無視をした。
とりあえず友人のお願いなのでいつもより多めの夕飯を買った。
お会計で1000円を超えると、床に頭を擦り付けんばかりで感謝された。
「いざ!」
彼女は自分のレシートを店員に渡して箱に手を入れた。しかしお目当てのレン様は出なかったらしい。
「頼んだ…」
隣で手が白くなるほど祈られながら私も箱に手を入れた。適当にガサガサと取り出すこと10回。
「来たああああああぁぁぁぁぁ!!!!」
大声で抱きしめられた。
「マジでありがとう!ありがとう!」
オタクの大仰な感謝に戸惑いながらグッズを渡す。店員さんの目が痛い…。
コンビニを出ると彼女は恍惚とした表情でグッズを見つめている。
「やっぱり持つべきものは友達だよねえ。お礼に他のキャラのやつあげるよ。なんか気になるやついない?」
「えー?」
なんとなく赤色が目についたのでそれを手に取った。
「チナ様じゃん!チナ様いいよ!」
さっきボロクソに言ってたのに…。
「メインキャラだっけ?かっこいいね」
お世辞で言ったつもりだけどオタクは興奮してしまったようだ。
「この際沼っちゃおうよ!もう私のせいで片足突っ込んでるようなもんだし、もう一歩だよ!」
「…考えとくよ」
私はニヤニヤと返事をしてグッズをポケットにしまった。
「見知らぬ街」
なんとなく空気が懐かしい気がする。
電車のカビ臭さと何かのシャンプーの香りが混ざったようなそんな匂い。
この空気を嗅ぎながら1時間揺られ続けるのは当時低血圧だった俺にはかなり苦行だった。
「次は〇〇駅、○○駅」
気怠そうな鼻がかなり詰まってそうな車掌の声も相変わらずだ。
不思議なもんだ。俺が大学を卒業し、街を出てから10年以上経っているはずなのに、空気も車掌の声も変わっていないなんて。
懐かしさを覚えると共に嬉しくなってくる。
全てを知っていることに対する安心感からだろうか。
自分が合わせなくても空気がこちらの身に合わせてくれるからだろうか。
少なくとも2、3年住んだはずなのにいまだに慣れない東京の街にいるときより心が軽やかだ。
俺が学生時代住んでいた街は小さな駅と大きな商店街があった。
生まれた時から大学生までずっとこの商店街を通って駅に行き、隣町や県外の学校に通ったり遊びに行ったりしていた。
当時からずっとシャッターが並んでいて営業している店なんてほとんどないほど廃れた商店街だったが、俺が生まれるよりずっと昔にはかなり栄えていた街らしい。
少し暗い通りを子どもたちがわあわあと騒ぎながら駆けていくのが当たり前で廃れたといっても活気はあった。
シャッターの落書きも年々増えていって俺の記憶が正しければカラフルな商店街だったように思う。
しかし駅に降り立った途端何かがおかしいと気づいた。
改札を出ると目の前に真鍮のガラスドアが大きく開かれており、そこから煌びやかなシャンデリアが覗いている。
あれ、ここから商店街が続いてたはず…。
キンキンに冷えた空気が吹いてきてつい足が進む。
中に入ると明るい照明を受けてキラキラと輝くアクセサリー屋さんが迎える。
そして少し歩けば若い人がよく行くコーヒーショップ、ファストフード店が並ぶ。そしてそれらの向かいにはシンプルで上質そうな日用品で人気の店がある。
アクセサリーの向こうにはエスカレーターがある。
え、ここはどこ…?商店街はどこ…?
俺は見知らぬ街に迷い込んだかのようにフラフラと彷徨った。
とりあえず外に出たら何か分かるはずだ、と出口を探すがどこにも見当たらない。
降りる駅を間違えたのか?いやでも改札までは見覚えがあった。
俺はまるで浦島太郎になってしまった気分だった。
後ほど母に事情を聞くと俺が街を出てから間も無くして商店街の再開発が始まったらしい。
シャッター街になってもう20年ほど経っていたから反対する者もほとんどいなかったそうだ。
そこで市は商店街の跡地にデパートを誘致したのだ。
元々栄えていた街で住人も多く、交通の便も悪くない。話題性があれば客には困らない絶好の立地だ。
そういう背景で俺が育った商店街は姿を消したらしい。
母たちもデパートができたことを喜んでいるようで毎日デパ地下のお惣菜が食卓に上る。
日用品も娯楽も全て揃うのですごく便利になったそうだ。
帰省してから何度かデパートに行ったが確かに若年層をターゲットにした店が並んでいて街への新しい住人の流入を目標にしているのが分かる。
しかし改札から見える景色にはまだ慣れない。
薄暗く赤やら青やらカラフルなスプレーで彩られたシャッターがないのはかなり違和感だ。
20年間過ごしてよく知っている地元のはずなのに全く知らない街みたいだ。
どこかそわそわして落ち着かない。
心にポッカリと穴が空いて俺をよく知る友達を失ったような実家を失ったようなそんな感覚だ。
あのワンワンと響き渡る通りもシャッターももう無いのだ。
俺の成長をずっと見守ってきたシャッターはもう無いのだ。
俺の記憶の中にしかもう無いのだ。
そう考えるとなんだか虚しくて東京の街が恋しくなった。