「クリスタル」
朝の電車はストレスの温床だ。
見知らぬ男や女、それぞれの匂いをぷんぷんさせてそれぞれの人生を主張している。
何食わぬ顔で新聞を広げるジジイ、香水で範囲攻撃をしてくるババア、イキってパソコンを立ち上げるクソガキ。少しでも目が合えば睨みつけてくる女。
まったく話もしたことないが全員クソだ。
だから僕はスマホゲームに集中するのだ。
できるだけ背中を丸めて視界をスマホにロック。
イヤホンをして他人や電車が出す耳障りな音をシャットアウト。これで愛しのキャラクターに集中することができる。
"回想戦姫ファントムマリア・レクイエム"
10体もの美少女キャラクターを駆使してレベルを上げてボスを倒す戦略RPGゲーム。
クリスタルを使ってガチャを回し、キャラクターやキャラクターを育てるためのアイテムを引き当てる。
巷では課金勢のためのクソゲーと酷評されてるらしいが、美しいビジュアルの戦姫やレベルアップするごとの衣装やセリフに興奮を辞さない。いくらでも課金する価値があるゲームだ。
「期間限定!戦姫前世の記憶:神殺しの花嫁衣装」
ゲームを起動するとポップアップのお知らせが表示された。
これは…何がなんでもゲットしなければならない。
戦姫の面白さはそのキャラクターだけじゃない。キャラクターそれぞれに前世の物語があり、レベルを上げるたびにその物語が解放されていくのだ。
特にレティシアという僕の最推しキャラクターは前世で神を殺し、ボスの手下となりかけたが何かをきっかけとして戦姫に加わったという仄暗い過去がある。
そして今回のガチャはタイトルからしてレティシアのためのガチャと言っていいだろう。
今あるクリスタルは153万。
100連ガチャ1回で10万クリスタルなので最低15回は回せる。
しかしそう簡単に出ないのがこのゲームの恐ろしいところだ。
無心でガチャを引く。いくつか虹色演出で期待したものもあったが、レティシアのものではない。
すでにこれまで100万円くらいこのゲームに注ぎ込んでいる。
この前の給料も半分以上を費やした。
辞めたいけれど、レティシア以外の生きがいが見つからない。
クリスタルが尽きる。動画広告を見ても雀の涙ほどしか集まらない。もう先月の給料はすでに課金してしまってもうない。
金融機関の動画広告が流れてきて、借金という文字が頭をよぎった。いやいやただのソシャゲに借金するのは流石に馬鹿馬鹿しい。
ほぼ絶望しながらも単発ガチャを引いていく。
クリスタルは残り10。これが最後のガチャだ。
ふう、と深呼吸をした。隣に当たらないよう控えめに伸びをする。
姿勢を伸ばすといつもと変わらない現実。
みんなスマホの中の自分だけのオアシスに逃げている。
あれ、今日雨が降ったのか。
窓に水滴が付いており、今さらながら気付いた。
朝日が雫を照らしていつもより電車の外が鮮やかに見える。
今日も馬車馬のように働かされて、帰って寝て、そして明日もこの電車に乗って…
いつもと変わらない毎日。いつ死んでも構わない。ただ一つの生きがいはレティシアだけ。
どうか、明日からも生き延びるために…どうか…
朝日に祈る気持ちで画面をタップする。
黒いクリスタルが光を放つ。白色。ダメだったか…?
そう思った瞬間虹色に光り出す。
そしてイヤホンからレティシアの声。
雄叫びを上げたい気持ちをグッと堪えて、喜びを噛み締める。
窓のクリスタルがとても輝いていた。
「夏の匂い」
空高くから腹の底に響く爆発の音。
星よりも鮮やかで空を焼き尽くしそうな光線が海を照らしている。
「うわあ綺麗だね!」
パチパチと手を叩き君は嬉しそうに小さく跳ねた。
こちらを向いて僕の反応を待つが、諦めてまた空を見上げた。
遅れて火薬のにおいがやってくる。
美人だと評判のクラスメイト。
勇気を振り絞って誘い、奇跡のミラクルオッケーサインをもらった花火大会の今日。
僕は彼女に告白するつもりだ。
きっと彼女も薄々気がついているはずだ。
そうでなければ花火大会、男女2人というデート定番のシチュエーションでこんなにかわいい浴衣を着てくるわけがない。
彼女は青い小さな花模様の浴衣に、赤茶色の帯をしていた。レトロで良家のお嬢様のような雰囲気で守りたくなる。
彼女が下を向いてため息をつくたびに、チラリとうなじが見えてつい僕もそっぽを向いてしまう。
そろそろ花火もピークを迎える。次にどデカいのが上がったら彼女に言うぞ…。言うぞ…。
小さな花火が大量に打ち上げられて彼女の浴衣模様のようだ。次にどデカいのが来たら…。
急に花火の打ち上げが止まった。先ほどまで真昼かと思うほど花火が打ち上げられていたのに。
「花火大会の途中ですが、ゲリラ豪雨の恐れがあり、中止とさせていただきます。繰り返しお知らせいたします」
場内に女性のアナウンスが響き渡り、どこからか、えー!という不服そうな声が聞こえてきた。
「えー中止?まじかあ…」
隣の彼女も残念そうに眉を下げた。
「雨は…仕方ないね…」
人波が駅の方へ向かい、僕らもつられて歩き出す。
計画が狂った!
ロマンチックに花火に照らされながら告白して帰り道、手を繋いで帰る予定が…。
いやいやそもそも告白が成功するかも分からないのだ。振られて気まずい雰囲気で帰るはずだったかもしれないのだから、これで良かったのかもしれない。
彼女は無言で隣を歩いている。
なんとなく話題を寄越せというような圧を感じるが、僕の頭には今告白のことしか思いつかない。
彼女と話すとき、毎回緊張してしまう。
何を話したらいいのか分からなくなってしまうのだ。
男友達がいる時はまだマシなのだが、2人っきりになるのは今回が初めてだ。彼女の好きな話題ってなんだ?何を話せばいい?
もしかして僕、彼女のこと何も知らないんじゃないか…?
悶々と考えているうちに屋台の間をすり抜けて会場を出た。
もう花火大会の幻影は消え、駅までいつもと変わらない道を歩く。
駅が見えてくる。もう彼女と別れるまで数分しかない。
「ねえ」
隣を歩いていた彼女が歩みを止めた。
駅からの明るい光で照らされているはずなのに表情が読めない。
「今日これで終わり?」
花火大会のことかな?
もう雨が降るんだし終わりだろう…って、きっとそうじゃない!僕が告白するのを待っているんだ。
「今日誘ってくれて嬉しかった。けど君全然話してくれないね」
僕は慌てて「ち、違うよ。緊張で…あまりにも君が可愛くて」と言おうとしたが遮られる。
「他の人といる時はすごく面白い人だなって思ってたけど、そんなことないね。私が話してても何も言わないし…」
たくさんの人がじろじろと僕らを見ながら通り過ぎる。
「じゃあまた学校で」
彼女はパタパタと駅の改札をくぐっていった。
ゴロゴロと空から怒ったような音が聞こえ、雨を含んだ湿気の匂いがベトベトと僕にまとわりついた。
「カーテン」
蝉の声が全ての静寂をかき消し、うだるような暑さが全ての意思を崩していく。
扇風機で部屋の空気をかき混ぜてみても風鈴はうんともすんとも鳴らない。
奥の水槽から聞こえてくるぽちゃぽちゃ音だけが唯一涼をもたらしてくれている。
夏休みは暇だ。
最近は暑すぎて外にも遊びに行けないし、デートするような相手もいない。課題をする気は起きないし、テレビはつまらない。
何か世界が一変するような出来事が起こらないだろうか。宇宙人が現れるとか、急に異世界に飛ばされるとか、突然隣に超絶美少女が引っ越してくるとか…
ぼんやりとソファに寝転んで外の景色を眺めた。
倒れた鉢植えが太陽の光を存分に浴びている。
鉢植えの前でミミズが体を懸命によじらせて日陰を求めている。
あのままでは干からびてしまうぞ…。可哀想に。水をやろうか。しかし体が動かない。
ああ、僕も水が必要だった。
コツコツと窓から音がして目を開ける。
いつのまにかレースのカーテンが閉じられており、その向こうにゆらりと影が見える。
誰だ、泥棒か?
影に気付かれないようにそっとカーテンに忍び寄り、恐る恐る裾をめくった。
そこは、海だった。
サンサンと降り注いでいた太陽の光はゆらりゆらりと弱く揺れている。
鉢植えがあったところはあざやかな珊瑚礁になっていて、穴からウツボがこちらをじっと見つめている。
カーテンに映っていた影は魚影だったらしく、大きな魚がひらりと水面に泳いで行く。
これは夢だ。
だけど妙にリアルで溺れそうな感覚になる。
なんとなく体がひんやりとして背中に汗が流れる。
僕は慌ててソファに駆け戻りもう一度目を閉じた。
これは夢だ。早く覚めよう。
それでもゆらゆらとした光模様はまぶたを貫通してくる。
だんだんと息苦しくなってくる。できるだけ肺に空気を入れて息を止めた。
つま先が水に浸されている感覚がする。家の中にまで水が入ってきたのか!
早く覚めろ!覚めろ!
まぶたに力を込めても水は迫ってくる。
ふと頬に冷たいブニッとした感触があった。
目を開けるとさっきのウツボだ。
焦点の合わない小さな目が顔の真横にあった。
「うわあ!」
叫んだ拍子にゴボゴボと泡が漏れる。
水が鼻や口に入って苦しい。
ウツボは溺れる僕の様子をじっと見ていた。
ピシャン!と頬に鋭い痛みを感じて目が覚めた。
制服を着た姉が焦った顔で覗き込んでいる。
「あんた大丈夫?」
僕ははぁはぁと肩で大きく息をしながら辺りを見回した。太陽は強くジリジリと窓から部屋を照らし、鉢植えもそのままだ。水が入ってきた跡ももちろんない。
ただ、僕だけ水をぶっかけられたかのようにびしょびしょだった。
「頭痛くない?吐き気は?」
姉が珍しく体調を気遣ってくれている。
「大…丈夫…」
涙か鼻水か汗か、顔の水を拭った。
「一応病院行った方がいいかもね…。そこ水置いてるから飲みなさい。私ママに連絡してくる」
姉がこんなに甲斐甲斐しいのは千年に一度あるかないかだ。素直に水を飲み干す。
姉が日差しを避けるために引いてくれたカーテンを少しだけめくる。
植木鉢のミミズは力尽きていた。
「青く深く」
夕焼けの色は紅く夜明けの色は蒼い。
どちらも太陽が少しだけ顔を出しているだけなのに、これほどまでに色が違うのはなぜだろうか。
冷たさも違う。濡れた肌を乾かすのは夕日ばかりだ。
どうしてだろう。新しい一日が始まるのにどうして、こんなにも心が冷えてしまうのだ。
海辺のバーの照明が消え、とうとう看板をしまう頃、彼女はまとめ髪を下ろしてエプロンを外す。
そしてまだ太陽が昇っていないことを確かめるように潮騒の音に耳を澄ませると、姿を消す。
それから太陽が沈むまで姿を見せない。
彼女の姿が見えるのは夜の間だけ。
底はまさに夜のように暗く冷たい。
あの夜、あのバーに入っていれば、あのバーで彼女に会っていれば僕もここには居なかったのかもしれない。
死んだ後に恋するなんて虚しいだけだ。
ここは青ばかりで深く苦しい。
弱い光が艶かしく体をくねらせて彼らの鱗を照らす。鮮やかなはずなのに全てが恐ろしく暗く青い。まるで夜明けのように。
夜が嫌いで、1人が嫌でここに来たはずなのに、太陽は僕が見えないかのように頭上を通過していく。
天井は僕をここから出すことを許さないようかのようにずっと揺れている。
結局僕は夜から逃げ出せないし、彼女に愛を伝えることもできないのだ。
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メニューがポップに描かれた看板を店にしまおうとすると渋い顔の2人組がやってきた。
「ここの近くの岩場で発見された遺体のことで聞き込み調査をしています」
警察手帳を一瞬だけ見せると、店のドアを開けられる。
「少しだけお時間よろしいですか」
有無を言わせない態度に若干苛立ちを隠せず、クローズのフダを指さす。
刑事の瞳に少しだけ戸惑いが浮かぶ。
「いえ、自殺かどうか調査しているだけです。あなたを疑っているわけではありません」
私は丁寧にお辞儀をすると店のドアを閉めた。
店は全面ガラス張りなので部外者を完全シャットアウトはできないけれど、いつのまにか刑事たちは姿を消していた。
生まれた頃から私たちの仲間ではない影が底に蔓延っていた。悪さはしないけれど、増えれば増えるほど海面から差し込む太陽の光は弱くなった。
影は小さいものもあれば大きいものもある。それらが元は人間だと気付いたのは、ある夜のことだ。ドボンという大きな音と共に油だらけの人間が降ってきた。しばらくもがいていたけれど、みるみるうちに影になった。
そして夜よりも暗い底で一生出られない海面をうろうろするのだ。
夜の生き物は太陽に見つかってはいけない。
だけど陸に上がり、私は海辺にバーを作ったのだ。
夜を嫌い、海に飛び込む人間を少しでも引き留めるために。
夜の化け物にならないように。
「夏の気配」
黄色く小さな部屋に入ると窓に背を向ける形でどっしりとしたゴシック調の書斎机と牛革の回転椅子がこちらを迎える。その手前に若干チープな合皮のソファがガラスのローテーブルを挟んで向かい合っている。
男は回転椅子の背もたれに頭を寝かせる形で座っていた。いびきに合わせて鼻の穴が大きくなったり小さくなったりするのが見える。
女はそわそわと辺りを見回すと埃に耐えきれず小さくくしゃみをした。
死んだように眠っていた男が体を揺らしながら正面を向いた。
「あー、これはこれは…」
「14時からお約束していたものです。あなたが探偵さん?」
「はい。いやあ、少しだけ仮眠する予定が…失礼しました」
「いえお疲れなんでしょう。こちらこそ急に押しかけてしまい申し訳ありません」
藤色の着物を着た夫人は粗品ですが、と有名百貨店の紙袋を差し出した。線香の香りがぷんと鼻をくすぐった。
「さて…で、ご相談ていうのは?」
「それより何か飲み物をもらえませんこと?外が暑くてすっかり汗をかいてしまいまして」
「ああ。これは気が利かず失礼…」
探偵は慌てて奥の部屋に行き、グラスに麦茶を注いで戻ってきた。夫人は上品に受け取ると一気に飲み干した。
探偵は彼女と向かい合うソファに座ると灰皿を寄せた。
「相談というのは娘のことです。悪い人に騙されたんです」
「ほお。騙されたというのは?」
「もともと普通の会社員だったのですが、ある事件に巻き込まれて転落人生。可哀想に家に引きこもってしまいました」
「ふむ。それであなたの要望というのは…?」
「誰が娘を巻き込んだのか突き止めてほしいのです。その後はこちらでなんとかします。報酬はこれくらいで…」
夫人は膝上でそっと指を立てた。
「ふむ。いいでしょう。具体的にある事件というのは?」
「娘の会社の常務が不倫をしていたのですが、その不倫相手に罪をなすりつけられたんです。娘は一般の社員で常務とは顔を合わせたこともないのに!不倫相手の女を問い詰めたら、彼女は娘が濡れ衣を着せられたことも、なんなら娘のことも知らなかったようです。つまり、誰か別の人が見ず知らずの娘を浮気相手に仕立て上げたのです」
夫人は自身を落ち着かせるように扇子を取り出し、顔を扇いだ。
「結果、娘は職場での居場所をなくし、常務もなにを考えたのか娘の悪評をいろんな会社に吹聴して回りました。仕事にも行けず転職もできないのです」
「それは…災難でしたね。その犯人に心当たりなどはないですか?」
「そうですね…娘によるとどう見ても会社員には見えないような怪しい男が出入りしてたそうです。遠くに居てもタバコの臭いがするほどだったと」
「ほう…他には?」
「残念ながら私が娘から聞いたのはそれだけです。探偵さん、どうか犯人をつきとめてくださいな!」
「もちろん、マダム。必ずや犯人を捕らえて見せましょう」
夫人は静かに目を伏せた。
「どうか、お願いしますよ。主人も亡くなり、親族もおりません。あなただけが頼りなんですから」
夫人は何度も頭を下げて静かに去っていった。
ドアが閉まりきると、男は震える手でタバコに火を付けた。
先月ある女から夫の不倫相手を突き止めろとの依頼があった。調査していくうちに夫からなんとか不倫相手を守ってほしいと元の依頼料の5倍もの金額で逆依頼された。しかしすでに妻から依頼料を受け取りパチンコに擦ってしまった後で、今さら妻からの依頼を取り消すわけにはいかないし、多額の依頼料も逃したくない。そこででっちあげの不倫相手を作り上げることにしたのだ。彼の会社の社員でできるだけ孤立していて、親族や友人などがおらず誰にも悩みを打ち明けられないような人物。それが、例の夫人の娘だったらしい。
探偵は自身を落ち着かせるように回転椅子に沈み込んだ。直射日光で後頭部が焼けるようだったが、震えが止まらない。
できるだけこのことが漏れないようにあの娘の身辺調査を念入りに行った。
すべてをあの娘に押し付けたはずだった。
探偵は2本目のタバコに火を付けた。
そう、あの子の母親は幼い頃に死んでいるはずなのだ。