「沈む夕日」
彼は太陽の色を塗り変えていた。
真っ白な丸いキャンバスに対して、小さな子供の顔を包むかのように、そっと手のひらをそわせて、丁寧に色を重ねていく。
とても険しい表情だったが、それは繊細な作業に集中しているからなのか、太陽の光があまりにも眩しいからなのか、分からなかった。
雫型の筆は、たっぷりと水滴が落ちない程度に水を含み、雫の先に少しだけ絵の具が付いていた。
彼はしごくように筆を馴染ませると、太陽の瞼、頬、唇に色を落とした。
最初ほんのり可愛らしいピンク色だったのが、何度も何度も色を重ねられて、赤色を帯び、差し色に黄色まで入れられて、なんとも芸術的な色が完成した。
満足したのか、彼は太陽から手を離し、筆を持ち替えた。
それは先ほどとは違って、幅の広い大きな筆で、先には藍色の絵の具が付いていた。
そして腕を大きく伸ばすと、大胆に空を藍色に染め上げた。しかし、太陽のそばだけはまた繊細な筆に持ち替えて、ドレスを縫い上げるように、放射状に塗っていった。
太陽は美しい藍色のドレスを広げ、完璧なメイクアップを崩さないように、そっとランウェイの先に立った。
波が彼女の輝きを讃え、山はそっと目を細める。
華やかな静謐で、尊大な惜別だった。
そして彼女がステージの裏に戻ったのを確認したら、僕は薄くて重い星の幕を閉じるのだ。
「君の目を見つめると」
ふわふわとした春の陽光で踊るかのように湯気が立ち昇る。
そのうちウサギとかウマの形になるんじゃないの。
そう思っているうちに、だんだんと上を向いて羽を広げた鶴のように見えてきた。
そういえば、雪景色と鶴ってイメージがあるけど、春はどこに行くんだろう。
考えていると、鶴は消えて、次は植物のゼンマイが見えてきた。
ゼンマイは確かに春だな…
「ねえ、聞いてるの?」
少し薄くなった湯気越しに彼女がぼんやりと映る。
頷く代わりに、コーヒーに口をつけた。
あまりの熱さに目が覚めて、現実が流れ込んでくる。
火傷した舌を庇うように丸めつつ、彼女の目を見つめた。
これで最後なのかとため息をついた。
同時に彼女を失いたくないと、その時初めて思ったが、盤面はすでに王手をかけられていて、僕は彼女の申し出に頷くことしかできない。
「連絡先は消してね」
まるで、なかなか言うことを聞かない子供に怒鳴る寸前の母親のような圧だ。
その迫力に負けてつい、目を逸らしてしまった。
しかしすぐに勿体無いと思い、視線を戻す。
いつにも増して星が輝いていた。
店の外はスコンと抜けるような晴天なのに。
出会った頃は、なかなか目が合わなかった。
女子校育ちらしく、男性に慣れてないから、と恥ずかしそうに言い訳をする彼女が初々しくてたまらなかった。
彼女の目が美しいと気付いたのは初めて喧嘩した時だ。
怒っている彼女の目は、まるで星が埋め込まれたかのように煌めいていた。思わず見惚れてしまって「聞いてるの!?」と余計に怒らせてしまったこともある。
正直、喧嘩の時間も嫌いではなかった。
その時だけ、僕は星を見ることができたのだから。
いや一度だけ、喧嘩ではないときに星を見た。
彼女の誕生日を初めて祝ったときだ。
柄にもなく、サプライズを計画し、ホテルに泊まった。
誕生日プレートが運ばれてきた時も、ベッドの上の花束を見つけた時も、明かりを消したあとも、彼女の目はずっときらめいていた。
視線は合っていないのに星が見える、と不思議に思ったのを覚えている。
いや、待てよ。そういえば彼女の涙を見たことがない。
「じゃあね」
いつのまにか、彼女のカップは空だった。
伝票を持って足早に去っていく。
そうか。
僕はぬるくなったコーヒーを一口飲み、ソファに沈み込んだ。
そうか。
自分の鈍感さはある程度自覚していたが、これほどまでに恨めしく思ったことはない。
せめて春でよかった。
「それでいい」
大輪の花がこちらを向いていた。
それはどこかこの世のものではないような、異様な雰囲気で、たくさんの目に鑑賞されているとは思えないほど、威厳に満ちていた。
多くの人が、この花の絵の前で立ち止まり、少しだけ疲れたように立ち去っていく。
それはまるで死後の審判のようだった。
植物をテーマに近世の西洋絵画を集めたこの展示会に来たのは偶然が重なっただけだ。
午後の講義が急遽なくなり、ぼんやり大学内を歩いていたら、植木の根元にこの美術展のチラシが入った袋が落ちていた。どこかのイベントで配られたものだろう。今の時代には珍しく、チケットまで一緒に入っている太っ腹ぶりだ。
念のため、夕方になるまで、そばのベンチで落とし主を待っていたけれど、誰も探しに来なかった。
美術とは縁遠い人生を歩んできたが、美術館巡りが趣味と言えば就活でも恋愛でも印象がいいだろう。
チケットももったいないし、有効活用させてもらおう。
花はそんな浅はかな僕の考えなどお見通しだとでもいうようにこちらを見ていた。
絵の具の重ね方、色と色の混じり合い、掠れた筆の跡。細かく見れば作者が透けて見えるはずなのに、それらを見れば見るほど花の存在感に気を取られてしまう。
背筋が伸びて顎の下がきゅっと締まる。目を逸らしたいのに、逸らすとここで僕の人生はつまらないものになる、そんな予感がした。
つまらない人生って?
毎日大学に行って、役に立つのか分からない講義を聞いて、ちょっとバイトをして家に帰る。
それを繰り返すだけの毎日。
それがつまらない?
・・・・・・いやそうじゃない。その毎日に楽しみを見いだせない自分がつまらないのだ。誰かの悪意にさらされたり、大きな責任を負っているわけでもないのに、無理はしない、休んでもいいという甘く優しい言葉にすがって毎日をつまらなくしているのは自分だ。
途端に額縁が光を帯び、花が褪せたように見えた。
思ったより小さな絵だ。
僕は足取り重くその絵から離れた。
「たまには」
たまにはゲームをしてみようと埃を被ったコントローラーに手を伸ばした。
社会人になってから1日のたった1/3を占める仕事に疲弊させられ何かをじっくりと味わうことがなくなっていた。灰色の毎日、少しは変化をつけたいと思うのに脳が休息したがってその変化を思いつくのさえ拒否をする。終いには見たくもない動画を永遠に見て、仕事以外何も記憶に残らない日として眠りにつく。
このまま感情を殺したまま歳をとるのは嫌だ。若い頃のように寝る間を惜しんでやっていたゲームでなんとか新鮮さを取り戻したい。
ゲームを起動すると見覚えの無いソフトが出てきた。もう全く覚えていないがおそらく就職直前に発売されたゲームだ。
やろうやろうと思いながらそのまま仕事の渦に呑まれて忘れてしまっていた。
ほのぼの系だろうか?20年ほど前のインディーズゲームみたいにシンプルで手書きのタイトル画面。いまどき珍しいがその素人らしさが胸を高鳴らせた。
クラシック音楽のような壮大な音楽とともに画面が切り替わった。
「このゲームはセーブができるまで膨大な時間を要します」真っ黒な画面に文章とYesとNoの選択肢が出てきた。
最近のゲームはプレイヤーに配慮してクリアするまでにどれくらい時間がかかるか教えてくれるらしい。
時計を見上げると短針は10を指していた。
しばらく逡巡したのち、俺はコントローラー元の位置に戻した。
「大好きな君に」
今日は小さな声で話します。
なんでそんな驚いた顔をするんだ、私だって小さな声で話せるんだよ。
そうだね。無理もないか。
いつも怒鳴っているイメージしかないのかもね。
怖くてうるさくて、私のことが嫌いな人もいっぱいいるんだろうね。歳を食ったおじさんというだけで世間は冷たい。
私の大声は耳が聞こえないからなんだ。
難しいことは言わないが人よりも音を拾えない。だから自然と大きな声で話してしまうんだよ。
間違ったことを言っていないか、きちんと伝わるように話せているか、自分でも確認しながら話すから大きな声になってしまう。
ああ、いけない。また大声になっていたね。
これから話す内容はこれまでの人生で何度も何度も考えていたことだ。確認する必要もないくらい何度も心の中でつぶやいてきた言葉だ。君たちだけに伝えたいから小さな声で話します。
風の音が聞きたい。
電灯の音が聞きたい。
遠くの鳥の声が聞きたい。
虫の飛ぶ音が聞きたい。
誰かが呟いた本音を聞きたい。
誰かが優しく笑った声が聞きたい。
君たちにはこんな小さな音や声を聞き漏らさない人生を歩んで欲しい。
私が聞こえない代わりにたくさん聞いてくれ。そしていつかまた会えた時にこれまでどんな音や声を聞いてきたのか教えてくれ。
おいおい泣くのは卒業式が終わってからにしなさい。まだ早いだろう。
最後に、卒業おめでとう。