木枯らしが吹き始めたので、タンスの底からセーターを引っ張り出す。去年買った白いセーター。広げてみると毛玉だらけだった。
そりゃそうだよね。あなたが可愛いって言ってくれたからずっと着ていたんだもの。
去年の冬は、数年に一度の積雪で過去最低気温も記録していたらしいけど、あの人の体温しか覚えていない。寝る前のココアのように、頭がとろけるほど温かさに包まれて、目に見えるものはキラキラした景色ばかり。クリスマスのイルミネーション、年末カウントダウンのネオン、初詣でお揃いで買ったお守り。なんて素晴らしい季節なんだろう。過去一番の寒さなんて感じないほど幸せだった。
日が沈んで暗くなった。だんだんと部屋の気温が下がっていくのが分かる。
毛玉を切らないと。
ハサミでチョキンチョキンと毛玉を取り除く。
あなたとの思い出も全部消えろと願いながら。
恋に落ちてしまった。
まるで綿飴のようにしゅわりと広がる甘い感覚。
いつもの図書室。教室や校庭の喧騒から離れてホッとひと息をつく。面白そうな本を物色しながら歩いていると人にぶつかった。
「すみません…!」
ぶつかった拍子に柔軟剤の香りがして、少し背徳感を感じる。
「あ、ごめん」
クラスの人気者の男の子だった。授業中先生にタメ口をきく肝の座ったやつ。
そそくさとその場を離れようとすると、「ねえ、」と呼び止められた。
「明日のホームルーム、順番回って来たんだけど、この本面白い?」
私のクラスは国語教師が担任のためか、毎朝ホームルームで好きな本を発表する時間がある。読書の習慣がない人たちは大体漫画の紹介をして乗り切る。
この人もそうするのだと思ってたけど、、
「今から読むの?」
彼が手にしているのは分厚いハードカバー。普段本を読まない人が今から読んでも明日の朝には間に合わないだろう。
「無理かな?表紙が面白そうだったんだけど。本読まないから感覚分かんねえわ。」
そう言いながら渋々本を戻す。
少しお互いに無言になる。会話が終わったようだ。私はその場を離れようとした。
「あ、それ知ってる。」
急に彼は私の持っていた本を指差した。
「それもともと映画なんだよ。イマイチ人気出なかったんだけど脚本とか演出は凝ってて面白いって映画好きの中で人気のやつ。」
そうだったんだ。なんとなくタイトルが気になって手に取った本だった。恐る恐る提案してみる。
「これ発表したらいいんじゃないかな?元が映画なら内容も知ってるだろうし…」
「読んでないのに?」彼は笑った。笑われたのが恥ずかしいのか、クラスの真ん中にあった笑顔が自分に向けられてることがむず痒いのか、顔が熱い。
「でもありだな、そうするわ。ありがとう,」
私は本を彼に渡した。
「読みたかったんだろ?発表終わったら渡すわ。」
また2人で話せるのだろうか。またあの笑顔を独占できるのだろうか。
本能的に危険を感じて目を逸らす。だけど遅かった。浮遊感につつまれる。恋に落ちてしまった。
別に今のままでいい。
子どもが欲しいわけではないし、いつもそばにいてくれるし。結婚したからといっていつもの生活に何か変化があるわけでもない。彼女への愛が変わるわけでもない。
夫婦なんて契約で繋がった男女関係にすぎない。むしろお互いの信頼と愛情でしか繋がっていない脆くて壊れそうな今の関係の方が尊く美しいのではないか。
休日の昼下がり、インスタで見つけたカフェに行きたいと言う彼女の提案で郊外にある和喫茶店にやって来た。穏やかな老夫婦が経営しているというお店はどこか懐かしく落ち着ける雰囲気に溢れていた。東京では珍しい雰囲気が若い女性の間で密かに人気らしい。
カウンターに通され抹茶ラテを注文した。時折言い合いをしながらも阿吽の呼吸で注文を捌く老夫婦を見つめて彼女がぽつりと言った。
「将来こんな風になりたいね」
正直僕も思っていた。老夫婦からは信頼と愛情だけではない、ガラスをふっとばすような嵐が来ても乗り越えてきた強さが感じられた。そして契約に縛られたからこその深い深い愛情が。
僕は思わず彼女の手を握った。
チョコレートについてきたネックレス。
好きな男の子からもらった髪飾り。
祖父母がプレゼントしてくれた財布。
両親が買ってくれたダイヤのピアス。
あの人がくれた指輪。
大切な大切な娘と孫。
なぜか大切だったものが浮かんではどこかに消えてしまう。慌てて追いかけようとするけど身体がだるくて動かない。
「おばあちゃん!」孫の声が聞こえた。
泣いてるの?この前あげた時計をなくしちゃったのかしら。大丈夫だから。
抱きしめてあげたいけど腕が上がらない。
大丈夫だから。おばあちゃんが探してきてあげる。
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夏の暑い朝。花束を持った青年がやって来た。
「1年ぶりだなー、にいちゃん。今年も墓参りに来て偉いねえ」
タバコの臭いをさせながら守衛が話しかけた。
「どうも。」
青年は無愛想に返事をし、足早に守衛の前を通り過ぎた。
一つの墓石の前で足を止めると花束を置き手を合わせた。青年の袖からは少し時代遅れの時計がちらりと見えていた。