「透明な涙」
天使の涙は宝石だ。
何年かに一度雨と共に落ちてきて、それはそれは高く売れるそうだ。
いつものように母の薬を作るために森へ薬草を取りに行った。
昔は優しい母だったが、腰を痛めてしまってからは怒りっぽく鬱々としている。
母が心配なのは本心だが、優しかった母の面影が薄れていくようで悲しい。
分厚い雲が空を覆って雨が降りそうだ。
急いで森を進んでいると森の奥からドスン、という地響きが聞こえてきた。
広い森だ。人なんて滅多に立ち入らない。大きな動物もいないはずだけど…
不安と興味が天秤に生まれ、興味が勝った。
森の奥は滝が流れていて小さな湖があった。
小さい頃は夏に母と水浴びをしたものだ。
ずいぶん長い間来ていなかったから木や藪がすっかり伸び切っている。
記憶を頼りに鋭い葉や枝を掻き分け進むと、目の端で大きな白い羽が見えた。
まさか…。自分を信じきれずに目を凝らす。
白い髪の毛。こちらを見つめる宝石を散りばめた少女の目。
本物の天使だ。
同じ年頃の少女のように見えるが、現実離れした美しさがこの世のものではないことを示している。
少女は恐怖で怯えているようだった。
ガラスのような瞳がふるえている。
弱いものを見た時、人間は2種類に分かれる。
ひとつは庇護欲が湧き、全力で守ろうとする者。
もうひとつは残虐なほどまでに支配しようとする者だ。
天使の目に溢れる宝石がきらきらと輝く。
「ねえ、怖くないわ。大丈夫。ここは寒いでしょ?私の家においでなさいよ。」
できる限りの猫撫で声を奏で、目線を低くして警戒心をほぐす。
天使は何も答えない。
早く帰らなきゃ。お母さんが心配してる。でもこの宝石を売れば何年も安心して暮らせる。いいお医者様に診てもらえるかもしれない。早く、はやく。
「どうして泣いているの?」
鈴のように響き渡る声だった。
「え?」
涙など流していない。むしろ警戒心を解くために微笑みを貼り付けていたはずだった。
「心が泣いてるよ」
いつのまにか天使の顔からは恐怖も宝石も消えていた。
湖が懐かしかったのだ。
滝の音とともに優しかった母の笑い声が聞こえてきた気がしたから。
水面に反射する光があの頃と変わらず眩しいから。
辛かった。
変わっていく母を見るのも、見ないふりをするのも。
母への愛が憎しみに変わっていくのも苦しかった。
いつも泣いていた。決して表には見えないように。透明にして。
雲間から光が漏れてきた。
天使は嬉しそうに見上げて羽を広げた。
白い羽は自由を象徴するように大きく眩しかった。
「優しい言葉をありがとう。」
そう言って天使は飛び立った。
きっと残虐な願いはすべてバレていただろう。
だが単純な感謝の言葉が、心の波を沈めていく。
波が引いた後のようにまっさらになった気分だ。
少しスッキリして家に帰ろうとした時、水面の輝きの中で違う輝きを見つけた。
天使の涙が湖に落ちたのだろう。
ガラスのように透明で美しい宝石だ。日にかざすと虹色に輝く。
天使の梯子からは青い空が顔を出していた。
「あなたのもとへ」
手のひらのふわふわとした感触が不思議だった。
おうちの絨毯みたいだけど、ちょっとだけ水々しくて
ぎゅっと潰しても頭を持ち上げる。
「それ気になるの?草っていうのよ。」
ママの声が頭の上から聞こえてきた。
くさ、くさ、草。
引っ張るとぷちっと取れた。
ママにどうぞしたい。
「ありがとう。パパにもあげようか。」
パパも喜んでくれるだろうな。
もう一度くさを引っ張ってパパを探した。
だがあたりを見回してもどこにもいない。
大変!パパ迷子になった!
ママに急いで伝えようとしてもママはニコニコするだけ。
不安で顔を歪めかけた時、
「おーい!こっちだよ!」と呼びかける声が聞こえた。
声の方を見ると、遠くでパパが腕を広げて座っていた。
パパいた!くさどうぞしたい!
今度こそ見失わないようにパパを見つめて駆け出す。
まだ慣れない靴が重くて、思うように走れない。
しかもかなり遠くて、足が疲れてしまった。
だけどパパにくさを見せてあげたくて、喜んで欲しくて必死に走る。
「えらいなー!よく頑張った!」
パパはそういうと、私を抱き上げぎゅっと抱きしめた。
パパくさだよ。どーぞ!
落とさないように、ずっと強く握りしめていた草はいつのまにかだらん、と頭を下げてしまっていた。
あれ、こんなじゃなかった気がする。
「ありがとう!いい匂いだねー」
パパはそう言って草を受け取った。
そしてまたぎゅっと抱きしめる。
パパが喜んでくれたならまあいっか!
握りしめていた手からは少し苦くて水々しい香りがした。
まるで魔王の前に倒れた勇者のように、横たわる。
まだやれる、と体に残っている力を集めて立ちあがろうとするが起き上がれない。
まだやり残したことがある。
自分を待っている人がいる。
このまま終わってたまるか。
必死に自分を鼓舞するが手足はもう動かない。
楽になってしまえよ、と悪魔が囁く。
しかしこのまま瞼を閉じてしまうと待っているのは地獄だ。
必死に意識を保とうと伸ばした手が触れたのはスマホ。
画面に光が宿り、ブルーライトが魔の力を焼き殺していく。
しかし目に入ったのは金曜日という文字。
そうか、明日は休みか…
じゃあこの世は安泰だ。
急に安堵が広がり、そっと瞼を閉じた。
眠気が泥のように身体中を駆け巡り意識を手放した。
声をかけたのはなんとなくだった。
大学で久しぶりに会った彼女はとてもつまらなさそうな顔をしていた。
いつものようにくだらない話をしても上の空で、反応も面白くない。
だからなんとなく「世界終わらせに行かない?」と声をかけたのだ。
いろんな国を渡り歩いて、いろんな街をドライブした。
どんな国や街でも車の中ではいつもパーティーだった。音楽を爆音で流してお互い助手席で変なダンスを踊った。今という瞬間を楽しんだ。
以前彼女は言った。
「全部が不安なんだ。自分のことも分からなくなるし将来のことも。3分後ですら何が起きるのか分からなくて怖い。」
彼女は雲のように白い髪の毛をいじりながら言った。
きっと本心を話してくれているのだろう。でも彼女の憂鬱はそれだけじゃないような気がした。
だから下手に励ますこともできなくて、
「とにかく私はあんたがいればいいよ。不安に感じたら電話して。」
彼女からの電話の着信音はベルの音に変えた。
世界の果て。
2人で朝日を見に行った。
立ち入り禁止のフェンスを飛び越え、走った。
彼女を失いたくなくて、手を繋いで走った。
真っ白で強い光は体を包み込み、私たちは世界を終わらせた。
※PEAPLE1 『鈴々』MVより着想
大好きな曲です。ぜひ聴いてみてください。
https://youtu.be/7synqOiMORc?si=CwVjC0nNwTqQZWzs
ステージ上のモニターにライブ開始までのカウントダウンが表示されると、ファンの歓声が聞こえてきた。
のどをすり潰すような悲鳴が愛の重さを感じさせる。
髪型を整えてマイクを調整する。
スパンコールがこれでもかと付けられた衣装は、光の少ない舞台裏でも動くたびにキラキラと反射していた。
爆音で登場の音楽が流れ始める。
早いビートが腹を殴る。
始まった…
疲弊した心を腹の奥に押し込めて笑顔を作る。
「みんなー!いくよー!!」
元気よく飛び出して、定位置につきダンスを始める。
視線は真っ暗な客席へ、でも意識は定位置がずれないように床へ。
スポットライトの熱ですぐに汗が流れ、衣装が張り付く。
今日のステージはとても広い。ペンライトの波が視界の端から端までうねる。
数年前は想像にもしていなかったステージに立っているが、心は晴れない。
疲れたのだ。ファンという追い風に。
デビューした頃はファンの応援が力になっていた。
歓声も応援のレターもドーパミンの材料だった。
しかし追い風は強すぎると足元が追いつかない。
日に日に増していくライブ、テレビ出演、雑誌インタビュー、映画出演。
体力の限界だった。ほんの少しだけやる気が出せない時ファンは敏感に感じ取った。
人気が出て天狗になったやつ、ファンは自分をそう解釈した。
追い風は時に向かい風になる。
今やペンライトの波の中に自分のメンバーカラーはほとんどなかった。