香草

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「二人だけの。」

図書館を出ると蜜色の夕陽は消えてしまった。
その代わり仄暗い藍が逃げるような僕の背中を押してくれた。
栞が汚れてしまうので、ポケットには手を入れなかった。汗ばんだ手はぶらぶらとどこかおさまりが悪かったけれど、なんだか心は晴れていた。
盗んだのに。いや盗んではいない。落ちたものを拾っただけだ。それに落とし主は分かっている。わさわざ図書館職員の手をわずらわせるほどのことでもない。また会えたら自然に声を掛けたらいいだけだ。
いつもよりお喋りな心のせいか心臓がドクドクと音を立てている。

香華女学院。美しいお嬢様。
本当に興味本位なのだ。このまま生きていたら決して交わらない人間と話してみたいだけなのだ。
このチャンスを逃したらおそらく僕は彼女たちの世界を一切知ることなく死んでいくだろう。
何不自由なく生きているお嬢様と言葉を交わすだけで、僕の人生は10億円くらい価値が跳ね上がる。本当にそれだけの理由だ。
部屋に帰りポケットからそっと栞を取り出す。真鍮だろうか。ポケット内の熱気で少し曇ってしまった栞は図書館に落ちていた時に比べて輝きが落ち着いている。
「香華女学院 第26回文芸大賞 佳作」
栞を眺めながらベッドに倒れ込む。
彼女はどんな作品を書いたのだろう。
どんな作品が最優秀賞となったのだろう。
一体どれくらいの規模で行われるイベントなんだろう。
とても美しかったなあ彼女。
陽の光に照らされた黒髪がさらりと本に落ちる。顔は見えなかったけれど緑のチェックのスカートとのコントラストがとても美しかった。

蜜色の 
秘密を見たし 
本の園 
はらりと落ちる
闇夜の髪

感動した時に心の一句の詠んでしまうのは小さい頃からの癖だ。国民的アニメの影響だろうと思うけれど、我ながらいつもレベルの高い短歌が詠めている気がする。
勇気が出ないから誰にも言ったことはないけれど僕の唯一の特技と言っていい。
いや特技というほどでもないか…。どうせ僕なんて誰かに勝てるようなものなんて持ってないのだ。
佳作か…。さらにすごい人がいるとはいえ、こうやってきちんと「あなたは素晴らしいです」と証明されるほどの才能を持っているということ。
やはり僕とは違う世界の人だ。

けれどこうやって彼女の所有物が僕の手の中にある。背徳感と優越感、そして拭いきれない劣等感。
どんな人なんだろう。
きっと清らかで優しくて、地味だけれど気品がある人なんだろう。
そしてこの栞を通して僕と彼女のやり取りが始まったりして…
いや、さすがにこれは妄想が過ぎたかな。
けれど栞を落とした人と拾った人。これは僕と彼女二人だけしか出てこない物語だ。
すぐに終わる小説。
1ページにも満たない物語。だけどこんなに胸が高鳴るのはきっと僕の毎日がつまらないからだろう。
そう思っていた。





7/16/2025, 10:30:50 AM