「風鈴の音」
太陽の焼き印を背中に受けながら草をぷちぷちともぎ取る。乾いた土はなかなか雑草を離してくれず、すっきりしない。
帽子の縁から真っ青な空と小さな太陽が嘲笑っていた。
「お前のために抜いてやってんだよ」
なんだか自分が女王様に跪く惨めな奴隷に思えて、つい棘のある言葉が出てしまった。
ひまわりは分かってるよ、とでも言うように小さく揺れた。
見えるものは爽やかで清々しいのに、ずっとぬるま湯に浸かっているようで茹で上がりそうだ。
本当に風呂に入ってる方がずっといい。どろりとした汗が背中を伝い、どんどん汚れていくような気がする。
ふいにひまわりがぼやけ尻もちをついた。
これはまずい。よろよろと家に引っ込み、麦茶を飲み干した。
縁側を備えた昔ながらの家だ。
障子を大きく開ければ小さな庭とひまわりの花壇が見える。
これで風が吹いてくれたらどれだけ素晴らしいだろう。
しかし近頃の殺人級の暑さのせいで懐かしい景色もノスタルジーをまったく感じさせてくれない。
保冷剤を首元に当てながら風鈴をぼんやりと眺める。
去年亡くなった妻が「この部屋には風鈴が似合うでしょ」と言って吊るしたものだ。
妻のセンスはなかなかのもので、この和室以外にも私の書斎や客間などこだわりの家具やインテリアを置いていた。
訪問客は見事な家だと必ず褒めてくれるが、それは妻のおかげなのだ。
くらげの形をした風鈴は微動だにしない。
もし妻がいてくれたら、ちりんと鳴ってくれるのだろうか。
するとふわふわとくらげの足が揺れ動いた。
天井近くで弱い風が吹いているのか。
ガラスのくせにまるで生きているかのように滑らかに動き、足をこちらになびかせている。
ひまわりと太陽の光ガラスに反射してきらきらと金色に輝いている。
優雅な動きを見ていると、うとうととまぶたが重くなってきた。完全に閉じるそのとき、くらげの頭がふわっと息をした。
とたんに障子の網目が魚の群れに変わり、ひまわりが珊瑚に変わる。
太陽はゆらゆらと弱くゆらめいて、メガネを外した時のようにすべてぼやけている。
慌てて起き上がり目をこするが、夢のような景色は消えない。夢じゃないことを確認させるようにくらげがふわりふわりと目の前を横切った。
ガラスの透明はそのままでひまわりの珊瑚がゆがむ。ぽわんぽわんと頭を揺らしながら目の前を遊ぶ。くらげの向こうに何か見える。
波のゆらめきではっきりしないが、あのピンク色のエプロンのようなヴェール。
妻だ。
「おーい!おーい!」
縁側から落ちかねない勢いで手を振る。それはヴェールをひらめかせてまるで魚のように泳いでいく。
「待ってくれ!!」
ああ水が邪魔だ。もっと光が強ければはっきり見えるのに。泳げるだろうか。
飛び出そうと足に力を込めた時くらげがまたふわりと目の前にやってきた。
ちりん。
涼しげな音で目を覚ました。
ひまわりも暑い太陽も何も変わっていない。保冷剤はすっかり溶けてTシャツの襟元をぐっしょりと濡らしていた。
まだぼーっとする頭で風鈴を見上げると、くらげの足がゆらゆらと揺れていた。
「冒険」
雷鳴が鳴り響き、魔王の強さを思い知らされる。
勇者は今、魔王討伐の旅に出ようとしていた。
「魔王の力はますます強くなっている。くれぐれも気をつけるのだぞ」
王様が力強く頷いた。
各地から精鋭部隊を集めて毎年魔王討伐に送り出している。
しかし帰ってきたパーティは今までいない。
今度こそ…
王様たちの瞳が熱く燃えている。
今回の討伐パーティは姫様の許婚でもあった。だからこそ本当は行ってほしくない。そして必ず帰ってきてほしい。
「まーなんとかなります。必ず良い報告を持って帰ってきますよ」
ヘラヘラと笑いながら勇者は言った。
こちらが見事にずっこけそうなほど軽い返事だった。
こいつはいい奴ではあるが、どこか楽観的というかバカというか。
そういえば姫様がお妃様の大事な形見をなくされてしまったときも「大丈夫、大丈夫。いつか見つかるって」と適当に流してビンタされていたのを思い出したぞ。まるで雷のようなビンタだったと後で彼は語っていたっけ。
王族に近い存在だが、いつ不敬罪になってもおかしくない奴ではあった。
魔王の攻撃で少しはマシになって帰ってきてほしいものだ。
気丈に振る舞っていた姫様が、突如勇者の首に抱きついた。
「決して負けない…」
ステンドグラスの光が姫様の涙を照らしまさにダイヤモンドのように輝いた。
ああ、健気な姫様。あんなちゃらんぽらんでいい加減な男でも愛しているのですね。
臣下はみなうつむき鼻をすする音が響いた。
王様も目尻に涙を浮かべている。
この2人が永遠に離れ離れにならないよう神よ、お守りください。
勇者は何も言わず姫様を抱きしめた。
姫様の腰に回す手がひそかに震えていたのは気のせいだろう。
そしていざ出発のとき。馬に乗り城門をくぐる。
流石にカッコつけようかと思ったのか勇者は剣を抜いた。じっとこちらを見つめ、剣を構えた。
その時、
ドッカーーーン!!!!!
雷が勇者の剣に落ちた。
姫様の悲鳴が聞こえ、慌てて衛兵たちが勇者を囲む。
どうやら髪の毛がちりちりになるだけで済んだようだ。
「だからあれほど雷に気をつけろと言ったのに…」
王様が頭を抱える。魔王の力は雷なのだ。
こんなところで剣を構えたら雷が落ちるに決まっているじゃないか。
「あれで少しはマシになってくれたらいいのですが」
つい本音が口をついて出てしまった。
姫様がふふっと笑ったことに私は少し違和感を覚えた。
「届いて.....」
星雲がぐるぐると回り出したところで目が覚めた。
結局一睡もできなかった。
重たい頭をやじろべえのように振りながらキッチンに行く。生の食パンにかぶりついてパソコンを立ち上げた。メールボックスをクリックする前に深呼吸。
心臓がやけに早く鳴り出して手が震えてきた。
ああどうせ分かっている。
メールアイコンに赤い通知マークがない時点でもう分かりきっている。
分かっているくせにソワソワと腹の底が落ち着かない。落胆を確認するまでそれは収まらない。
覚悟を決めてクリックした。
少しのロードの後、昨日と変わらない画面。
新着メールはなし。
私はため息をつき、半分も食べていなかった食パンを丸めて口に詰め込んだ。
"ボーカル公開オーディション"
希望通りの会社に入社して、ある程度仕事に慣れてきた時に、どうしてその広告が気になったのか分からない。
昔から歌うことが好きだった。
人前で歌うチャンスはなかったけれど、ずっと歌手という存在に憧れていた。
けれど自分の才能を信じきれず、もともとの性格も歌手という職業に向いてるわけがないと言い聞かせて就職した。
今さらだろう。
会社や仕事に不満があるわけでもない。
もう夢を見る年齢じゃない。
冷静に考えてもこのまま会社員として金を稼いでいく方が安定で賢いに決まってる。
本当に軽い気持ちのつもりだった。
なんかの話のネタになればいいかな、なんて。
本気で歌手になりたいわけじゃない。けれど力試しをしたって罰は当たらないだろう。
けれど実際に会場に行きマイクの前に立った時、これからの可能性を見てしまったのだ。
大きなステージで応援され、誰かを感動させている自分の姿を。
自分の声で誰かを喜ばせたり、熱狂させたりできる可能性を。
あの日消したはずの火がチロチロと燃え上がり始めた。やっぱり歌いたい。歌で生きていきたい。
同時に少し胸が痛んだ。
安定した生活を掴み始めたこの時にどうして、また火がついてしまったのだろう。
オーディションは一次を突破。しかし二次の結果がいくら待っても来ない。
夢を一度諦めた人にはもう運は回ってこないのか。
それともやはり歌手には向いてなかったのか。
時間が経てば経つほど火は大きく燃え上がる。
そりゃそうだよな。夢を諦めずに挑戦し続けた人が報われるべきだ。一度諦めた敗者はさっさと退場しろということなのかもしれない。
しかし再燃した夢の炎はなかなか消えてくれない。
毎日メールボックスを確認してため息をつく繰り返し。
頼む。届いていてくれ。
ただの炎だけで届かない夢に手を伸ばす。
さっさとこの炎を消したい。けれどまだ消したくない。
どっちつかずの風で炎を揺らし今日も出勤する。
「願い事」
かなり現実的な方だと思う。
何一つ不自由のない家庭で育っておきながら、誕生日のプレゼントは現金、クリスマスのプレゼントも現金をねだった。
子供らしい子供ではなかったと思うし、扱いにくい子供だったと思う。
そんな私を嘆いて両親はカウンセリングを受けさせたり、小説を読ませたり、漫画を読ませたりした。
でも想像力は結局育たなかったし、人との関わりが下手くそなのは変わらなかった。
常に頭の中に誰かがいて、そいつが囁いてくるのだ。
(そんな非現実なこと考えても仕方ない)
(お前が考えていることは間違っている)
(なにロマンチックになろうとしてるんだ。むりむり)
そいつは常に私に話しかけてきて、心に響いた感動も頭に描く絵も消しゴムで消していく。
小さい頃からそんなだから、目の前のものに集中するしかできない。
勉強、運動、ビジネスベースでのやり取りは褒められることが多かった。
結果を出せばいい。それだけだから。
いい結果を出せば誰かを喜ばせることができる。それだけで十分だ。
ある日、それはある友人の結婚式の帰りだった。
久しぶりに会った旧友たちと居酒屋に入った。
いつもはそのような集まりはなんだかんだと言い訳して回避するのだが、その日は脳内のやつの「お前にあんな幸せは来ないよ」という皮肉に耐えられなかったから。
「七夕の日に結婚式だなんてロマンチックだな」
「ちゃんと織姫と彦星の格好でお色直ししてたしな」
「奥さん綺麗だったよなー」
「うらやましい〜」
ずっと同じような会話をループし、みんなぼんやりとビールを口に注いでいる
なぜか無愛想な私に執拗に絡んでくる友人は私をきちんと友達の1人と認識しているようで、こんな晴れの日に呼んでもらった。
「お前はまだしないの?」
1人がとろんとした目でこちらを見て、気まずそうに他の2人が目を合わせる。
「いや…彼女いなかったよな…?」
「こいつ、酔ってんなー」
夏らしくない若干乾燥した空気が流れて、私は水を口にした。
やはりこの年齢で相手がいないのはおかしいのだろう。でも脳内のやつがいる限り私に恋人はできない。
3人と別れて自販機で買った缶ビールを開ける。
七夕のくせして星はほとんど見えない。
(なに星なんか見上げて浸ってんだ)
「うるせえな」
(お前にあんな晴れた日は来ない)
私は缶ビールを喉に押し込む。
「お前の星どれだ」
私は夜空を指さした。
昔聞いたのは、私には一緒に生まれてくるはずだった双子の片割れがいたこと。
そいつは女で織姫になぞらえてヒメノと名付けられるはずだったこと。
(…見えないよ)
声は初めて聞くほど静かだった。
「俺が彦星でお前が織姫か。一年に一度どころかもうずっと一緒にいるよな」
声は何も言わなかった。
「早く生まれ変わってこいよ」
夏の大三角形がきらりと光った。
「波音に耳を澄ませて」
会社を出るとまだ蝉の声が聞こえていた。
大量の資料と重たいパソコンを持って、公園のベンチに腰掛けた。
夏休みの中坊たちが遊んだ後の水風船のかけらを横目にビールをカシュッと開けた。
少しぬるくなった液体が疲れた喉を潤す。麦のほろ苦い香りが鼻を抜けて思わず顔をしかめた。
薄暗い空には紫色の雲のフィルターがかかってノスタルジーな雰囲気だ。
春はあけぼの…だったか。
紫立ちたる雲の細くたなびきたる…。
もう夏だけど。しかもあれは明け方の空のことだから、なにもかもちぐはくだ。
夏かあ。
学生の頃は時間を持て余すほど長い休みで、たくさんのことができた。体力もあったからどんなに暑くても常に外に出て遊んでいた気がする。
水風船の残骸を横を野良猫が素早く通り過ぎた。
なぜがその光景に潮の香りを思い出す。地元は海が近くびしょ濡れになるのもいとわず、ざぶざぶと体温を冷やしていた。
調子に乗って沖に出て溺れかけたこともある。
何もかもが面白くて何もかもがキラキラしていたあの時代。戻りたいけどもう戻れないことを分かってるから思い出に浸りながらお酒を飲むことしかできない。
海のきらめきが見えない都会は便利で過ごしやすいけれど、息苦しい。
眠らない都会はうるさいはずなのに静かすぎて胸がざわざわする。星空よりも光が多くて美しいのに。
海に行きたい。波と戯れたい。
ベンチに置いた資料が風でふわりと舞った。慌ててまだずっしり重たい缶ビールを置いて追いかける。
今年もまとまった休みは取れないかな。
水たまりギリギリに落ちた紙を拾い上げ、ため息をつく。蛇口のそばには未使用のゴム風船が落ちている。
始末の悪いガキンチョだ。一つ拾って水を入れてみると、チャプチャプと揺れる音がする。
途端に薄暗い公園が白い砂浜に変わった。
光を反射してキラキラと目をくらませる波は、静かな泣き声のようで、激しくこだまする。
近くの岩場から聞こえてくる、かすかに泡を含んだ音。
とぷん。とぷん。
小さな水の音は海の鼓動。心臓の音と同期しているかのようにリズムを刻む。
にゃあん、と近くで鳴き声がしてハッと我に帰る。
ベンチの陰から光るビー玉が二つ。
あたりはすっかり暗くなって背の高い電灯が、大量の資料と缶ビールを照らしている。
どこからかカレーの匂いがしてきてお腹がぐぅと鳴った。
家に帰ったら残りの仕事をして、明日も早いから早く寝なければならない。
それでもなぜか心は晴れやかだった。
まるで波が心に溜まったゴミを洗い流してくれたかのように軽くスッキリとしている。
私は海のボールを手のひらで弾ませながら缶ビールを飲み干した。