「波音に耳を澄ませて」
会社を出るとまだ蝉の声が聞こえていた。
大量の資料と重たいパソコンを持って、公園のベンチに腰掛けた。
夏休みの中坊たちが遊んだ後の水風船のかけらを横目にビールをカシュッと開けた。
少しぬるくなった液体が疲れた喉を潤す。麦のほろ苦い香りが鼻を抜けて思わず顔をしかめた。
薄暗い空には紫色の雲のフィルターがかかってノスタルジーな雰囲気だ。
春はあけぼの…だったか。
紫立ちたる雲の細くたなびきたる…。
もう夏だけど。しかもあれは明け方の空のことだから、なにもかもちぐはくだ。
夏かあ。
学生の頃は時間を持て余すほど長い休みで、たくさんのことができた。体力もあったからどんなに暑くても常に外に出て遊んでいた気がする。
水風船の残骸を横を野良猫が素早く通り過ぎた。
なぜがその光景に潮の香りを思い出す。地元は海が近くびしょ濡れになるのもいとわず、ざぶざぶと体温を冷やしていた。
調子に乗って沖に出て溺れかけたこともある。
何もかもが面白くて何もかもがキラキラしていたあの時代。戻りたいけどもう戻れないことを分かってるから思い出に浸りながらお酒を飲むことしかできない。
海のきらめきが見えない都会は便利で過ごしやすいけれど、息苦しい。
眠らない都会はうるさいはずなのに静かすぎて胸がざわざわする。星空よりも光が多くて美しいのに。
海に行きたい。波と戯れたい。
ベンチに置いた資料が風でふわりと舞った。慌ててまだずっしり重たい缶ビールを置いて追いかける。
今年もまとまった休みは取れないかな。
水たまりギリギリに落ちた紙を拾い上げ、ため息をつく。蛇口のそばには未使用のゴム風船が落ちている。
始末の悪いガキンチョだ。一つ拾って水を入れてみると、チャプチャプと揺れる音がする。
途端に薄暗い公園が白い砂浜に変わった。
光を反射してキラキラと目をくらませる波は、静かな泣き声のようで、激しくこだまする。
近くの岩場から聞こえてくる、かすかに泡を含んだ音。
とぷん。とぷん。
小さな水の音は海の鼓動。心臓の音と同期しているかのようにリズムを刻む。
にゃあん、と近くで鳴き声がしてハッと我に帰る。
ベンチの陰から光るビー玉が二つ。
あたりはすっかり暗くなって背の高い電灯が、大量の資料と缶ビールを照らしている。
どこからかカレーの匂いがしてきてお腹がぐぅと鳴った。
家に帰ったら残りの仕事をして、明日も早いから早く寝なければならない。
それでもなぜか心は晴れやかだった。
まるで波が心に溜まったゴミを洗い流してくれたかのように軽くスッキリとしている。
私は海のボールを手のひらで弾ませながら缶ビールを飲み干した。
7/6/2025, 10:17:02 AM