「遠雷」
見るからに場違いだ。
辺りはドレスやジャケットなどフォーマルな服装を着ている人ばかりで、いつも通りTシャツにジーパンで来てしまった僕らは肩身を狭くして小さな椅子に収まっていた。
「なあ、なんで俺も連れてきたんだよ」
「いや俺だってこんなところ1人で来る勇気ねえよ」
「断ればよかったじゃん」
「いや姉ちゃんの初舞台だし…お前も俺の姉ちゃんの演奏気になってるって言ってたじゃん」
「そうだけど…」
ちらちらと見回すけれど、小太りの中年女性の集団や、腰が曲がっている老夫婦がにこにことおしゃべりしているばかりで、俺らと同じような年齢層はあまり見当たらない。
若そうな人がいてもいかにも上質そうなワンピースを着たお嬢様のような少女ばかりだ。
日に焼けた真っ黒な顔を見られないように、俺らは受付でもらったクラシック演奏会のリーフレットを食い入るように見ていた。
中学のバスケ部で知り合い、家も近所だったことからお互いに家を行き来するほど仲良くなった。
そしてそいつの姉がバイオリニストだと知り、いつか演奏を聞いてみたいもんだとお世辞を言ったのが今回巻き込まれた理由だ。
クラシックなんて塵ほども興味がなく、音楽の授業ではいい子守唄にしていたほどだ。
心配しているのは幼い頃からお世話になった友達の姉の初舞台に寝こけないというミッションを達成できるのか、これだけだ。
何度も家に遊びに行っていたから、姉のこともよく知っているが、彼女は友達も頭が上がらないほど気が強く、何か悪いことをすれば地の果てまでも淡々と詰めてくる。
このまま社会に出たらパワハラで訴えられるだろうな、と思っていたのは秘密だ。
そんな彼女の初舞台で寝てしまったら、死ぬまでチクチクと嫌味を言われるに決まっている。
舞台が始まる。
オーケストラの演奏者が半円型に座り、楽器を構える。みんな似たような黒っぽい衣装で誰が誰か分からない。
指揮者がやってきて大きな拍手が湧き起こった。よく分からないがつられて拍手をする。
束の間の静寂の後、ドラのような音とともに小気味いいリズムが奏でられる。
お、なんかゲームの曲にありそう。なんていう曲だろう?
ありがたいことに演奏会のパンフレットには曲目が書いてある。
よ…はん…しゅ、しゅとう…しゅとらす、しゅとらうす。
…まあいいや。
どうやら今演奏されている曲は雷鳴と稲妻という曲らしい。舞踏会のために作られた舞曲で、轟く雷鳴を表現している、だそうだ。
確かに太鼓の音が雷のドーンという音で、高いキラキラした音が雷の光を思わせる。まさにリアルな雷だ。
なんかところどころ、ごろごろと遠くの雷雲が低く唸っているような音も聞こえる。
これを全部楽器で表現してるのか。
演奏会が終わり、ホールを抜け出すとやっと日常に戻ってきたようだ。
美しい音色だけでないどこか汚く騒がしい音。
「俺、演奏会とか初めてだったけどすごかったな」
「ああ。でもやっぱり退屈だったわ。姉ちゃんどこか分からなかったし」
「最初の曲とか好きだったけどな」
「あー雷のやつ?あれすごかったな」
「そうそう。雷の音とかすごかったよな。なんか途中ゴロゴロみたいな音とかリアルすぎた」
「ゴロゴロ?」
友人は少しだけ目を泳がせた。
「それ…かなり大きかった?」
「え?まあ…」
友人は気まずそうに笑った。
「それ俺の腹の音かも…。すげえ腹減っててさ…」
俺らは目を見合わせ、盛大に吹き出した。
先ほどまで静かな空間のせいで押し込められていたものを爆発させるかのように。
「なんか食べに行こうぜ」
「おう」
その入った店で姉さんたちの打ち上げに遭遇し、強く詰められる羽目になったが。
「midnight blue」
まだ自分の手もはっきりと見えない、そんな時間。
山間にある村からは大きな山影の向こうにほのかに光が見える。
朝が来る。
あと少しで僕らは光に照らされる。
無邪気に笑い合った狭い村の中で密かに愛を深めていった僕らが、とうとう日に照らされる。
それ同時に僕らの別れを意味していた。
僕は握っていた彼女の手をさらに強く握った。
「もう朝かあ…」
ぼんやりと呟いた彼女の声には藍色が含まれていた。
この明け方のような夜のような空の色と同じどっちつかずの声。
きっと彼女には輝かしい未来が待っているのだろう。それを期待しないでいられるほど彼女は大人ではない。
きっと山のむこうの太陽のように熱く光眩しい希望が胸に抱かれているのだろう。
「朝だよ、先生」
もう先生じゃないのだからそう呼ばないでくれよ。
「村のおじいたちが起きてきちゃうよ」
そうだな、ここおじいたちの散歩コースだしな。
「バレちゃうよ」
…。
僕はそっと彼女の手を離した。
まだ暗く青い闇を彷徨って僕はポケットに手を入れた。
彼女の細く冷たい手の感触が、だんだんと自分の熱で溶けていく。
「東京もこんなに静かな朝なのかな」
静かではないと思うよ。眠らない街だ。
「先生忘れないでね、私のこと」
山の隙間から眩しい光が漏れ出した。
ぼんやりしていた彼女の顔が鮮明になり、陽の光が透けるほど儚くあどけない表情が見えた。
「忘れるもんか」
忘れられるわけがない。
彼女はそっと僕の肩にもたれかかった。
「大学でもしっかりやれよ。嫌なことがあったらいつでも帰ってこい」
うん、と彼女は小さく頷いた。
こんな時でも教師らしいことしか言えない僕はポケットの中の手をギュッと握りしめた。
「先生、好きになってくれてありがとね」
「あれだけアタックされて告白されたら嫌でも好きになる」
こんな時でも嫌味しか言えない僕はギュッと唇をかんだ。
「私、東京でバリキャリになって先生のこと迎えにいくから。待っててね」
「…おう」
なんて儚い約束だろう。
希望と若さを持った彼女が東京という華やかなところに行けば田舎の小さな高校教師のことなんてすぐ忘れるに決まっている。
それでも、と小さく根を張る希望に縋らずにはいられない。
いつのまにか僕らを包んでいた藍色は消えて、あたり一面清々しい透明な光に満たされていた。
彼女は駅の方向に、僕は村の方向に歩き始めた。
振り返らない。
僕は彼女にとってもう過去の人間だ。
ただ夜と朝の間、まだ体の輪郭がはっきりしない時間、その刹那に僕のことを思い出してくれたら十分だ。
僕は山間のまだ影に包まれている村に歩みを進めた。
「きっと忘れない」
変な思い出というのは誰しもあるもので、私の場合はいちじくだ。
その果物を生まれて初めて目の前にした時、祖母が私にいちじくはいちごと栗を掛け合わせてできたものだと教えられた。
その奇怪な見た目とプチプチとした食感のせいで完全に騙されてしまった私はいちごの種とくりをこっそり集め庭の片隅に植えたものだった。
今でもそのエピソードは我が家の鉄板の笑い話だ。
正月やお盆など親戚一同集まり、酒を飲んでくだを巻く時は必ずこの話をされる。
正直当の本人としてはうんざりしている。
小さい頃の失敗を何年も笑われたらこちらも拗ねてしまう。
でも祖母も親戚も嫌いではないし、子どもらしく可愛いという理由で話されているから激しく怒ることもできない。
代わりにいちじくは大嫌いになった。
様子がおかしかったのは私が二十歳になった頃だった。
成人式をとうに済ませ、ビールのおいしさを知り始めた頃、祖母のもの忘れが激しくなった。
最初は買い物に出掛けて、必要なものを買い忘れるといった程度だったけれど、1年前から楽しみにしていたお友達とのお出かけの予定を忘れたり、家族で旅行にいくという予定を当日まで忘れていたり、だんだん激しくなった。
とうとうばあちゃんもボケたのかなぁ、歳って残酷だあ、なんて他人事のように考えていたけれど、とうとう飼っている犬の存在を忘れ出した時には、父や母も真面目になりだした。
いくらなんでももの忘れのスピードが速すぎる。
まだ私たちの認識があるうちに病院に行かなければならない。
そう言って連れて行かれた祖母の病名はアルツハイマー症。
祖母は私たちと一緒に住むようになった。
よく笑う人だったのになんだか怒りっぽくなって、まるでイヤイヤ期の子供のようになった。
かと思えば、いつものように私の名前を呼んで昔話をする。
どう接したらいいのか分からない。
おばあちゃんだけどおばあちゃんじゃないみたい。
まるで他人のような言葉を浴びせられると悲しいし、その分昔話をするとたとえいちじくの話だったとしても嬉しい。
感情が振り回されるのがしんどくなって私は祖母を避けるようになった。
きっと父や母だって辛かったにちがいない。
だけど若すぎた私は逃げるように部屋に閉じこもった。
ある日の夕飯時、ぼそりと祖母が言った。
「いちじくが食べたい」
珍しい祖母の要望に母はスーパーをはしごして買ってきた。
私は少し身構えた。いちじくが食卓に上るたびに笑われてきたから。
でも祖母は何も言わずにいちじくを食べた。
無言でむしゃむしゃと。
そして私に「嬢ちゃん食べるか?」と差し出した。
いちじくを見るたび何度も聞かされた話、あの時あの子いちごと栗を庭に埋めたのよ、と笑う祖母の声。
そのせいで大嫌いになったいちじく。
これだけはどこか忘れないと思っていた。
孫である私の名前を忘れても、存在を忘れてもきっと忘れないだろうとどこかで信じていた。
だってそれは私が祖母から愛されていた証だったから。
どれだけ成長しても祖母の中の私はいちごと栗をこっそり植えた可愛らしい女の子のままだったから。
私は泣きながら頬張った。
久しぶりに食べたそれはいつかの記憶と変わらず甘くてプチプチしていた。
「なぜ泣くの?」と聞かれたから
あれは幼い頃のことだ。
まだ小学校に上がってもいない頃、あれが最後の母親との一分以上の会話だった。
うちは喧嘩が絶えない家で21時になると決まって怒鳴り声が聞こえてくる。
喧嘩の理由はいつも同じだ。
母親の浪費癖の話、父親の仕事が上手くいっていない話とかそんなところ。
大体父親が「そんなもの買ってどうする」と怒鳴っているからおそらく母親が悪い。
なのに母親はいつもしくしくと泣いて自分の部屋に閉じこもる。
だから私は夕飯を食べ終わると朝まで自分の部屋を出ないようにしていた。
家庭内の不和は母親のせい。
そう思っていたから、とうとうある日母親に聞いたのだ。
「お母さんが悪いのになんで泣いて部屋に閉じこもるの?」
いつも話し合いを最後までしないから毎日喧嘩しているのだ。父親としっかり話し合って浪費癖を改めたら静かで笑い声が溢れる家庭になるはずだ。
なのになぜこの人は逃げていつもうやむやにするのだろう。
母親はかなり衝撃を受けたような顔をしていた。
そして少しの間を置いて冷たく、
「お母さんの勝手でしょ。涙が出てきてしまうのよ」
と言った。
それ以来私は母親と会話をするのをやめた。
中学生になると部屋に閉じこもるのではなくて街に出るようになった。
似たような境遇の友人やたまたま店で知り合った大学生たちと遊び夜を過ごしていた。
警察に見つかると面倒なので、大学生たちに紛れながらやり過ごした。
大人びた顔つきのせいか大学生たちのフォローのおかげか怪しまれることもほとんどなかった。
今思えば私はかなりラッキーだったと思う。
危ない薬や変態に捕まることもなかったから。
大学生たちに少しだけ酒を飲まされることはあっても彼らは私を守ってくれてたと思う。
そのおかげで私は変にグレることもせず大人になることができた。
そして大学生になったとき、わたしは長年の謎の真相を知った。
父親の仕事は私が生まれる頃にはすでに破綻しており借金がかなり膨れていた。
しかし父親のプライド的に負債となった会社を手放すことは許さなかったらしい。
母親は少ない貯蓄から当時は詐欺の一つとされていた株を買って私の大学費用を貯めてくれていたようだ。
私は学校にお金がいるなんて思ってもみないほど世間知らずだったから、このことを知ったのは大学に入った後だった。
結局母親の長年の株投資のおかげで父親の借金も完済した。
何も知らないとはいえ私は母親になんてことを言ったのだろう。
私を守る為の涙だったことも知らないで…。
「遠くの空へ」
容赦なく太陽が照りつけ、握手の手が汗ばんでいる。
高校球児が誰しも夢に見る憧れのマウンド。
帽子の下から見える世界はどこまでも黒く、どこまでも白かった。
いつも通りいつも通り…。だけど興奮がおさまらない。未熟な胸にはこの興奮が収まりきるはずがない。
空でも飛べそうな気分だ。
サイレンが鳴り響き勝負が始まる。
余韻に浸っている暇などない。
けれどこの景色、一瞬一秒を噛み締めたい。
相手は西の強豪校。
相手のことは調べ尽くして対策も立ててきているはずなのに、尻込みしてしまう。
やっぱりチームでコミュニケーション取る時も関西弁…話すんだろうか。なんでやねん、とか言うのかな…。一緒にタコパとかしてみたいなぁ。
なんて子供じみた考えが浮かぶが、今は敵だ。
ここで勝たなければ夏が終わる。
これまで暑い時も寒い時も頑張ってきたのだから、ここで倒されるわけにはいかないのだ。
じりじりと試合が行われていく。
実力が五分五分だと言われるとそれまでだが、緊迫した状況が続く。
8回裏。0対0
戦況はあまり良くない。緊張感がベンチに張り詰め、息苦しい。
俺の名前が呼ばれる。
今日はまだ一回しか球が当たっていない。
最後のチャンスだ。
バッターボックスに立つとまさに夢のような景色が広がる。
スコンと広い青空、大きくそびえ立つスコアボード。茶色く光るマウンド。
まさに青春という言葉をそのまま絵にしたような光景。
こんなに空って広かったか…?
暑さのせいか頭上の広さに圧倒されたせいか目眩がしそうだ。
全ての人間が俺に集中している、そう思うと意識まで持ってかれそうだ。
でも事実そうなのだ。
今見えてる観客席だけじゃない、練習試合を重ねてきたライバル校の奴らも、塾で仲がいい他校の奴らも祖父母や遠い親戚も今俺を見ている。
それだけじゃない。
日本全国の知らない人たちが今日俺の名前を知って応援してくれている。
なんて心強いのだろう。なんて幸せなのだろう。
俺はバットを握り直した。
ピッチャーと視線がぶつかる。
しかし俺にはもう空しか見えてなかった。
全ての音が消えていく。吹奏楽の音も観客席の歓声も何も聞こえない。
鼓動が速く血が沸る。奥歯が砕けそうだ。
鈍い感触、と同時に空を見つめた。
球は美しい放物線を描いていく。
行け、もっと行け、もっとこの空の果てまで。
あぁ、なんでだろう。涙が出る。
俺、死ぬのかな…?
だってさこれまで主人公じゃなかったんだぜ?
彼女もいねえし、勉強ができるわけでもないし、バカなことと野球しかやってこなかった人生なのに、こんなカッコいいことしちゃっていいの?
音が戻ってくる。
地響きのような歓声に包まれ、足がもつれそうになる。
試合はまだ終わっていない。
だけど俺は生涯この空の広さを忘れることはないと思う。