香草

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「midnight blue」

まだ自分の手もはっきりと見えない、そんな時間。
山間にある村からは大きな山影の向こうにほのかに光が見える。
朝が来る。
あと少しで僕らは光に照らされる。
無邪気に笑い合った狭い村の中で密かに愛を深めていった僕らが、とうとう日に照らされる。
それ同時に僕らの別れを意味していた。
僕は握っていた彼女の手をさらに強く握った。
「もう朝かあ…」
ぼんやりと呟いた彼女の声には藍色が含まれていた。
この明け方のような夜のような空の色と同じどっちつかずの声。
きっと彼女には輝かしい未来が待っているのだろう。それを期待しないでいられるほど彼女は大人ではない。
きっと山のむこうの太陽のように熱く光眩しい希望が胸に抱かれているのだろう。

「朝だよ、先生」
もう先生じゃないのだからそう呼ばないでくれよ。
「村のおじいたちが起きてきちゃうよ」
そうだな、ここおじいたちの散歩コースだしな。
「バレちゃうよ」
…。
僕はそっと彼女の手を離した。
まだ暗く青い闇を彷徨って僕はポケットに手を入れた。
彼女の細く冷たい手の感触が、だんだんと自分の熱で溶けていく。
「東京もこんなに静かな朝なのかな」
静かではないと思うよ。眠らない街だ。
「先生忘れないでね、私のこと」
山の隙間から眩しい光が漏れ出した。
ぼんやりしていた彼女の顔が鮮明になり、陽の光が透けるほど儚くあどけない表情が見えた。
「忘れるもんか」
忘れられるわけがない。
彼女はそっと僕の肩にもたれかかった。

「大学でもしっかりやれよ。嫌なことがあったらいつでも帰ってこい」
うん、と彼女は小さく頷いた。
こんな時でも教師らしいことしか言えない僕はポケットの中の手をギュッと握りしめた。
「先生、好きになってくれてありがとね」
「あれだけアタックされて告白されたら嫌でも好きになる」
こんな時でも嫌味しか言えない僕はギュッと唇をかんだ。
「私、東京でバリキャリになって先生のこと迎えにいくから。待っててね」
「…おう」
なんて儚い約束だろう。
希望と若さを持った彼女が東京という華やかなところに行けば田舎の小さな高校教師のことなんてすぐ忘れるに決まっている。
それでも、と小さく根を張る希望に縋らずにはいられない。

いつのまにか僕らを包んでいた藍色は消えて、あたり一面清々しい透明な光に満たされていた。
彼女は駅の方向に、僕は村の方向に歩き始めた。
振り返らない。
僕は彼女にとってもう過去の人間だ。
ただ夜と朝の間、まだ体の輪郭がはっきりしない時間、その刹那に僕のことを思い出してくれたら十分だ。
僕は山間のまだ影に包まれている村に歩みを進めた。


8/22/2025, 11:01:30 AM